夜の原野に、狼と羊
牧夫の小屋が、原野のはじっこにぽつんと佇んでいた。
低くて粗末な造り。
外の囲いは何カ所もかじられて壊れ、数百頭の羊が隅に身を寄せ合っている。
獣にも、夜の恐怖はあるのだろうか。
戸を開けてくれたのは、顔にしわの刻まれた中年の男だ。
男は二人の体をざっとながめ、思った。
なんで牧師が二人? 死んだ羊の供養でもしに来たのか?
だが羊は、俺と狼の腹に入っちまったのに。
スキーナは、穏やかできちんとした笑顔を浮かべた。
「狼の駆除の依頼を受けて参りました。
今夜、周辺を見回ります」
その言葉を聞いて男は眉をひそめた。
欲しかったのは戦士であって、娘たちではない。
「お前たちに、できるのか?
子供ごっこじゃないんだぞ」
「大丈夫です。
もし失敗したら、協会が返金してくれます」
最後の言葉を聞いて、男はやっと脇を開けてくれた。
「部屋は一つしかない」
男は低い声で言った。
「泊まるなら、我慢してもらう」
「まったく問題ありません」
部屋に踏み込んだセリアは、ぱっと頬を赤らめ、
声が小さく掠めた。
「ス、スキーナ…… ベッドが、一つしかないです」
「うん、そうみたいね」
「だ、だったら私たち……」
セリアは思わず唇を噛んだ。
大人に言われた。一緒に寝ると、赤ちゃんができる……
「深く考えないで」
「どうせ交代で夜番だ。
一人が寝て、一人が起きている。
厳密に言えば、一緒に寝てるんじゃないわ」
スキーナは、セリアが教会で育って堅い性格なのを知っていた。
だから、穏やかに説明する。
だがセリアは黙ったまま。
了承してくれたと思ったスキーナは、嬉しそうに小さな皮靴を脱ぎ捨て、
さっとベッドに転がり込んだ。
旅の疲れは、もう限界だった。
「ん……」
ベッドに横たわって三秒もたたず、彼女は飛び起き、
鼻を押さえて顔をしかめた。
「どうしたの?」
「ちょっと、臭い」
小屋の中は湿気がこもり、
布団は久しく洗われていないらしく、
かびとほこりのにおいが充満している。
セリアは、我に返った。
どんなに強そうに見えても、この子はまだ冒険に出たばかりの少女なのだ。
思わず母性のような気持ちが湧き、
布団を整え始める。
それから祈祷書を開き、指をそっと合わせた。
「…… 心配しないでください」
これは……?
スキーナは舌を出した。
こんな時に祈ったところで、何の意味があるの?
だがセリアの口から音が流れると、
心が落ち着いた。
その調べはあまりにも優美で、
普通の言葉が、音楽になって響いた。
「命の息吹よ、穢れを払え。
塵は安らぎに帰し、
長き夜を、もう惑わさぬように……」
ほのかな光が、彼女の手のひらから溢れ出た。
まぶしくはなく、朝の光が窓から差し込むような柔らかさ。
光が布団に降り注ぐと、
湿気やにおいがゆっくりと消えていき、
ほこりも濁りも、音もなく浄化されていく。
空気が一気に清らかになり、
小屋全体のどんよりとした雰囲気までが和らいだ。
スキーナは鼻をちょんと動かし、
一度、吸って、また吸ってみて、
目を見開いた。はっきりと輝いた。
「わぁ、本当に臭くない」
「これは基本的な浄化術です。
環境を清めるだけのもので…… 大した魔法じゃありません」
「十分、すごいわ」
スキーナは横を向いて、真剣な声で言った。
「少なくとも、安心して眠れるわ」
セリアは照れ臭そうに、少し視線を逸らした。
どうも、この言葉は、少しだけ、
あいまいな響きがする。
スキーナさんに、悪い意味はない…… よね。
「じ、じゃあ、先に休んでください」
前半の夜番は、自分が担当する、という意味だ。
スキーナはにっこり笑い、遠慮なく布団に潜り込んだ。
すると、間もなく呼吸が穏やかになった。
セリアは少女の可愛らしい顔を眺め、
きちんと眠っているのを確認してから、
そっと布団をならした。
まるで、何度もやってきたような、優しい仕草だった。
夜は更け、小屋の中には窓の外の風音と、
家畜の不安な鳴き声だけが残った。
夢の中では、母がそばにいて、
花が咲き、暖かい日差しに包まれていた。
スキーナは、気持ちよさそうに鼻をちょんと鳴らし、
安らかに眠り続けた。
その時、甲高い叫び声が、静寂を引き裂いた。
「スキーナ!」
やばい。セリアの声だ。
スキーナは急いで目を開け、
靴も履かずに飛び起き、戸を開けた。
夜はまっ黒に塗りつぶされ、
月の光は雲に切り裂かれている。
だが、その光景を目にした瞬間、
スキーナの心は沈み、息をのんだ。
どんなに自信があろうとも、
この規模には、たじろいでしまう。
闇の中に、一つ、二つ、三つ……
無数の幽緑の瞳が、草むらと影から光っている。
低い喘ぎが波のように押し寄せ、
小屋全体が、狼に囲まれていた。
狼の群れだ。
やつらは、来た。
「スキーナ、どうしましょう?」
セリアは急いで彼女のそばに駆け寄り、
わずかな安心を求めるように言った。
「依頼の情報、全然違います。
これは、C ランクの規模じゃありません」
羊たちの怯えた鳴き声、
狼が囲いをかじる嫌な音が、夜に響く。
数頭の狼が身をかがめてこちらを睨み、
鋭い牙から涎をたらし、
爪で地面を引っ掻き、威嚇している。
「緊張しないで」
どうすればいい?
スキーナは表面上は平静を装っていたが、
心の中は慌てふためいていた。
まるで、何の経験もない駆け出しのようだ。
この時、彼女は、自分がどれだけ軽率だったかを思い知った。
――その時、一頭の若い狼が勢いよく跳ね上がった。
月の光を受け、しなやかな体で高い囲いを飛び越える。
スキーナは剣を抜こうとした……
「キャ――ッ!」
突然、鈍で重い破裂音が空を衝き、
火が一瞬、光った。
続いて獣の悲鳴が上がった。
飛び込んできた狼は羊小屋の中に叩きつけられ、
羊たちが再�きょうぜつと鳴き叫ぶ。
体は二度、けろりと動かなくなった。
スキーナもセリアも、同時に振り返った。
小屋の脇には牧夫がいた。
古猟銃を構え、銃口からは微かな煙が立ち昇る。
男は火薬を込めながら、冷ややかに言った。
「お前たちを雇ったのは、見物させるためじゃない」
依頼主の言葉だ。
スキーナは歯を食いしばり、動揺を押し殺した。
「火」
白い肌の手のひらから、一塊の白い炎が湧き上がる。
彼女は手を振り、狼の集まる場所へ炎を放った。
炎は地面に落ちた瞬間、どっと広がった。
だがこの光景を見て、セリアは突然、身体を固めた。
目を、だんだんと大きく見開いた。
これは…… 聖炎だ。
標準的で、純粋で、
一滴の狂いもない、教会の聖炎。
だが…… 教会の神職者ではない者が、
どうしてこの術式を使えるの?
彼女が一瞬、放心している隙に、
一頭の狼が炎をかいくぐり、
囲いを飛び越えて、数歩先まで迫ってきた。
セリアは思わず、後ずさりした。
もう一発、聖炎が放たれ、
狼たちは慌てて後ずさり、躱した。
使い勝手はいいが、威力はまだまだ小さい。
スキーナは心の中で決心した。
いつか、きちんと魔法を体系的に学ばなくては。
「キャ――ッ!」
再び銃声が響き、獣の悲鳴が上がった。
牧夫はついに弾を込め、飛び込んできた狼を撃ち抜いた。
だが、ほっとしたのも束の間、
さらに数頭の狼が後ろから襲いかかり、
男は慌てて振り返った。
「ちくしょう……」
牧夫は荒い息を吐き、声を掠らせた。
「また、何頭も飛び込んできた!」
彼の猟銃は古びており、
前装式のため、弾込めはとてつもなく遅い。
唯一点で優れているのは、狙いの正確さだ。
二発とも、確実に命中している。
撃たれた黒い狼は、地面に倒れ、
体を痙攣させている。
血のにおいが、急速に広がっていく。
だが、それで狼たちが怯むことはなかった。
狼は、集団で行動し、
情勢を判断するのに長けた獣だ。
様子を探り切ったかのように、
一歩ずつ、ゆっくりと迫り出す。
鋭い牙をカチカチと鳴らし、
聞くに堪えない摩擦音を立てている。
「町に戻って、冒険者たちを呼びましょう。
これは、私たちの手に負える状況じゃありません」




