鬼の住処
白狐の案内でようやっと「鬼の住処」へ澪子はたどり着いた。霧で視界が悪い上、かなりきついみちゆきだったので、澪子はまず膝に手をついてぜいぜいと呼吸を整えた。
「行クゾ」
狐がそっけなく言ったので、澪子は顔を上げて、藪の中に忽然と現れた門をくぐった。
「わ…」
中の景色を見て、澪子は思わず驚きの声を漏らした。ようやっと霧が晴れ、目の前に現れたのは池のある花咲く庭だった。その向こうには、たくさんの屋根と透廊を持つ、大きな御殿がたっていた。
「こ、ここ本当におに…じゃなくて、あなたのご主人様のお家なの?」
名前といいこの屋敷構えといい、鬼の住処とは思えない。もしかして間違って案内されたのだろうか。
「ソウダ」
狐は萩や竜胆の咲く庭をずかずかと横切り、屋敷へと上がった。そしてやや広い床敷きの部屋へ、狐は澪子を案内した。
「ココデ待テ」
ぶっきらぼうにそう言い捨てて、狐はしゅっと姿を消した。澪子はにわかに、手に汗がにじむのを感じた。懐に差し入れた書状をぎゅっと握り目を閉じると、いやでもこの後起こる事が想像される。
(私は…食われるんだ)
痛いだろうか。けど、もう逃れようもない事だ。泰信さんのため、神社のため、せめて役に立たなければ。必死に自分にそう言い聞かせた時、誰かが吐息交じりに笑う声がした。澪子はぎょっとして目を開けた。
戸を開ける音も、誰かが入ってくる気配もなかったのに、露草色の単衣を着流した男が目の前に座っていた。澪子は思わずあとずさった。
「…あ…っ」
驚きで、澪子の声がひきつった。この男が、鬼なのだろうか?端正な顔立ちに、白い肌。あまりに鬼らしからぬ外見だ。だが、流れるような白銀の髪の間から、2本の角がのぞいている。薄紫のその目は、静かな笑みをたたえてじっと澪子を見ていた。
「やっと来ましたね。待っていたんですよ」
なめらかな低い声で鬼は言った。
澪子は震える手で書状を彼に差し出した。待っていた?それは、腹が減っているという事だろうか。
「どうぞこれを…私は、ふもとの青井神社の使いのものです」
彼はそれを受け取り、はらりと開いてさっと目を通した。
「…この庭の水源を明け渡す見返りとして、あなたを…」
静かにそう言った彼の前に、澪子はそろそろと両手をついて頭を下げた。
「は、はい…」
畳についた澪子の手のひらに、じわりと汗がにじむ。しかし、鬼は静かに言った。
「顔を上げて下さい」
命じられるままに、澪子は体を起こした。彼は書状に目を落としたまま言った。
「まず結論を言いますと…水源を明け渡す事はできません。この山の上の領域は封印されていて、私の自由にはできないのです。ですが…一つだけ、水源をあなたがたに開放する方法があります」
澪子は震える声で聞き返した。
「そ、それは…?」
彼は書状から目を上げて、じっと澪子を見た。それはまるで、ずっと会えなかった親しい人にやっと会えたような、熱のこもったまなざしだった。けれど身に覚えのない澪子は、ただただ体を小さくして答えを待っていた。
「私が死ねば、おそらく水源の封印は解けるでしょう」
鬼は澪子の前に、短い刀を置いた。
「なので、私を殺してかまいませんよ」
想像もしなかった展開に、澪子は息のんだ。自分がこの鬼を、殺す…?
言う通りにすれば、水が青井神社のものになるのだろうか?澪子はそっと短刀を手に取って彼を見た。
「さぁ、どうぞ」
鬼は単衣の襟を広げて、引き締まった胸板を晒した。自分などよりもよほど白くすべらかな肌だ。そこに刃を突き立てる事を想像すると、澪子の手は凍り付いた。
「で…でき、できないです」
短刀を畳の上に戻した澪子を見て、鬼は澪子の方へといざりよった。
「なぜですか?私は鬼なのですよ」
「で、でも…でも無理です」
鬼はさらに距離を詰めた。澪子は思わず後さずった。
「遠慮することなどないのですよ。私の命はあなたに差し上げますから」
なぜこの鬼は、こんな事を言うのだろう。迫られるままにずるずると後ろへ下がった澪子の背が、壁に当たった。もう下がれなかった。
「いきなり人を刺せと言われても…で、できません」
「悪い鬼でも?」
彼は至近距離で澪子の顔を覗き込んで言った。澪子は必死でうなずいた。そんな澪子の耳元に、彼は唇を寄せた。
「…ああ、あなたはやっぱり優しい」
彼の腕が、そのままぎゅっと澪子の身体を抱きしめた。その力の強さに、澪子は身を固くした。
(…食べられ…る…!)
そう思った澪子は、思わずぎゅっと目を閉じた。
(お父さん、お母さん……!)
が、痛みはいつまでたってもやってこない。澪子は恐る恐る目を開けた。
「あ、あの…食べない…んですか?」
鬼は、ふっとため息と共に笑んだ。
「せっかくあなたを貰ったのですから…もちろんありがたく頂きますよ」
彼は腕を緩めて、澪子の目をじっと見た。その目は笑いながらも、真剣だった。
「少し味見をしても?」
そういうと、彼はいきなり澪子の唇に唇をつけた。
(―そこからっ!?)
が、彼は牙を突き立てるのではなく、澪子の唇をその舌でなぞり、囁いた。
「口を…開けてください」
そんな所から食べるのか。澪子は震えながらも唇をあけた。すると、彼の舌が澪子の口の中にそっと挿入ってきた。がぶりと噛みつかれ、肉を裂かれるのかと思いきや、その舌は遠慮がちに澪子の舌に触れた。
「っ…は、澪、…っ」
苦し気な吐息と共に、自分の名前が彼の口から漏れた。導かれるように彼の舌と澪子の舌が絡む。澪子が抵抗しないでいると、彼の舌の動きは遠慮がなくなり、深く深く熱を移すかのように澪子の口内を貪る。
(ちょっと、まって…こ、これって…く、口づけ…?)
食われるのではなく、口づけされている。遅ればせながらそれに気が付いた澪子は、全身がカッと熱くなった。こんな事を男の人とするのは、初めてだった。
「ひゃ…め…っ!」
澪子は思わず両手で相手の胸板を押した。すると、彼はびくっと震えて唇から唇を放した。
「っ…」
鬼ははっと驚いた顔をして澪子を見ていた。その唇が、唾液で濡れている。しばしの沈黙のあと、彼はぽつりと言った。
「すみません…嫌、でしたよね」
「え、いや、あの」
澪子はわけがわからないのと、恥ずかしいので頭が白黒した。が、鬼は目を細め、乞うように澪子を見つめて言った。
「ごめんなさい、つい…。許していただけますか」
あまり必死なその様子に、澪子は思わずうなずいていた。
「だ、大丈夫です、少し…驚いただけ、です」
澪子がそういうと、鬼はほっとしたように肩を下げた。その様子を見て、澪子の頭の中に疑問が広がった。
(どうも、おかしい…。この鬼の人は、私の事を知っているような感じだし…そうだ、)
澪子は、頭の中にぱっと浮かんだ疑問を口にした。
「あの、何で私の名を…?」
彼の涼し気な目が、一瞬伏せられた。なぜか悲しんでいるような気配を感じたが、鬼は気を取り直したように微笑んで、澪子に言った。
「書状に書いてありました。」
「そうですか…」
鬼はじっと上目づかいで澪子を見た。
「澪、と呼んでもいいですか」
「あ、はい、どうぞ…」
「私は百夜といいます。どうぞ好きなように呼んでください」
名乗ったあとも、彼は依然として澪子を見つめていた。その優しいような、妖しいような視線を浴びていると、なんだか身の置き所がないような心地がして、澪子は下を向いた。艶々と黒光りする床板だ…。
「澪」
「は、はいっ…」
びくっと答えた私を見て、鬼は立ち上がった。
「ここまで登ってきて疲れたことでしょう。湯を浴びて、休まれるとよい。」
「えっ…?あの、」
澪子がまごついている間に、彼はすっと障子を開けて出て行ってしまった。
自分は食われるために来たはずじゃなかったのか?澪子はわけがわからなかった。
(湯を浴びる?休むといい?ど、どういう事なの…?)




