運命への反逆
「みおこ…!!」
ましろが慌てて澪子に呼びかけたが、彼女の耳には入っていなかった。
今までの優しく従順な澪子は、もうそこにいなかった。絶望と紙一重の、山をも食い尽くせそうな大きな怒りが体を支配していた。大きく息を吸い込んで走ってゆけば、一足飛びにあの湖へと飛んでいけるような気がした。
そう、用があるのはあの、鏡のような湖だ。
猛る思いに足を動かし、澪子は霧の立ち込めるあの湖までたどり着いた。
そして着物を脱ぎもせず、ばしゃばしゃと湖へ分け入った。怖くなどなかった。ただあの社を破壊する。その一念だけが澪子を動かしていた。
(あの封印のせいで、百夜様が出られないのならば…壊してしまえばいい!!!)
そうすれば瓦礫をどかす助けも呼べる。百夜はもう虫の息だった。早くしなければならない。
中央まで泳いだ澪子は、ついにあの社へ手をかけた。古いものだからかその木は脆く、すぐにみしりと扉が開いた。澪はその中に奉ってあった丸い板を手に取った。
「これは…鏡?」
鏡で、この地は封印されていたのか。水の中で、澪子の手は怒りに震えた。
(壊して…壊してやる!こんなもの…!)
澪子は鏡をへし折ろうとした。だが体が水に浮いているので、足がふんばれず力が入らない。もどかしい。
「ええいっ…!」
澪子は怒りのまま、その鏡にかじりついた。
歯が折れたってかまわない。バチを当てるならあてればいい。自分がすべて引き受けて見せる―…!
(百夜様ではなく、私が!)
ぴしり、と口の中で音がした。澪子の歯が、鏡の表面にヒビを入れたのだ。
そのままパキパキパキ…と音が連鎖し、その響きは澪子の頭全体に広がった。そして口の中から喉へ、喉から五臓六腑へと落ちていき―…
(何これ…熱い…!体が、はじけるみたい…っ)
まるで花火を飲み込んでしまったかのように、澪子の体の中で何かがパチパチ爆ぜていた。そして―…
「っ――!!」
熱く白い光が、澪子の中で炸裂した。そして鏡の持っていた今までの記録が、全て澪子の頭へ直接流れ込んできた。
『決めた…お前の肝が私好みになるよう、しばらく調整してやりましょう』
『この手が触れたから、彼はよみがえった。…礼を言います、澪』
『澪…返事をしてください、目を、開けてください…!!』
鏡の記録の中で、澪子は何度も「死」を体験させられた。
ある時は煙に巻かれ、息ができなくなり。
ある時は嫉妬に狂った蝶子に心臓を一突きされ。
ある時は瓦礫に押しつぶされ―…
すべての「時間」を知って、澪子は衝撃で息が詰まった。頭はかき回されたかのように混乱している。
そしてすべてが通りすぎた後、胸中はきりきりとした痛みでいっぱいになった。百夜がずっと秘密にしていたことが、今やっとわかったからだ。
(百夜様は―…何度も、こうして…私が死ぬところを…!)
彼はずっと一人でこの時間を繰り返して、そのたびに澪子の死を目の当たりにしていたのだ。
口をつぐんで優しく微笑むばかりだった百夜の気持ちを想うと、澪子はいてもたってもいられなくて、ただ歯を食いしばった。
(百夜様は―…ずっと、この記憶を全部持っていたんだ…)
だから最初から、澪子の事を好きだと言っていたのだ。
二人は過去、すでに夫婦だったのだから。
(…早く、助けなきゃ)
我に返った澪子は、浮きながら当たりを見回した。水底を見下ろしても、鏡は見当たらなかった。そしてはっとした。
いつもあたりに立ち込めていた霧が、消えていた。
(封印が、溶けた―…!?)
いてもたってもいられなくなった澪子はざばりと水を掻いて岸へと上がった。不思議と、いつもより体が軽かった。少し走っただけであっという間に木々が後ろへと飛んでいく。先ほど痛めたはずの肩も、軽々と動かせる。そして額の上になにやらむず痒いような感覚が宿っていた。
だが、すべて今の澪子には些末な事だった。風のように翔け、澪子は屋敷へと戻った。ましろと風来による必死の消火で、蔵まで火がいくことはなんとか免れていたようだ。
二匹の背に、澪子は叫んだ。
「ましろ、風来さん!今私、封印を解いたと思います!!」
二匹は同時に澪子を振り返った。
「みおこが、フウインを…?」
ましろは首をかしげ、風来はうなずいた。
「ああ、たしかになんだか体が軽くなった感じがするぜ…よし、試してみよう」
風来は翼を広げて一回転した。するとカラスだった姿が先ほどの蓬髪の男へと変化した。
「すげぇや、たしかに解けてやがる…!よし、そうと決まりゃあ」
風来は積み重なる瓦礫に手をかけた。
「っ――!こりゃ重いな…っ」
澪子もあわてて手伝った。今ならば、風来の力になれる気がした。
「せぇ…のっ…!」
渾身の力で、澪子は瓦礫を持ち上げた。
(あれっ…さっきより軽い…!?)
さきほどはびくともしなかった重たい石の壁が、澪子の力でも持ち上げられてしまった。腕が、足が、体全体が、空気を吐き出す前のふいごのように力がみなぎっていた。今ならばなんでも持ち上げられそうだと思った澪子は、その瓦礫を頭の上まで上げ、逆側へと放り投げた。
「おい、澪子…!?」
風来が驚いて呼びかけ、ましろはただ目を剥いていた。
バキバキと音がし、漆喰のかけらやほこりが舞い上がる中、澪子は中に埋もれていた百夜を助け出した。
「百夜様…!大丈夫、ですか…!!」
うつ伏せに倒れる百夜の小石や割れ物をどかし、澪子は彼の肩に手をかけた。
「大丈夫、です…ああ、体が軽い。澪…封印を解いたのですね?どうやって…?」
やっとのことで上半身を起こした百夜は、澪子の顔を見下ろした。百夜の目が驚きに見開かれる。
「澪…あなた…!」
その紫の目は、相変わらず麗しく輝いている。それを見た澪子は、言いようがないほどほっとして、全身の力が抜けた。
「よかった…もう…別れるなんて…二度と言わないでくださ…」
急激に体が重たくなり、澪子はそのまま瓦礫の上へと崩れ落ちた。
「み、澪…!」
「大丈夫か?」
「大変、息ガ、弱ク…!」
3人が騒ぐ声が聞こえたが、澪子はたえられず目を閉じた。見合わぬ力を出したせいか、体全体が燃え尽きたように疲れていた。閉じた瞼の裏が真っ赤になり、澪子はそのまま気を失った。




