主人と使用人(ヒーロー視点)
朝の光が瞼の裏側をまぶしく刺す。百夜は目を開けた。
(…ああ、また何の益体もない一日がはじまった。)
だが、体を起こした百夜は違和感を感じて額に手を当てた。
(おかしい、いつも朝は二日酔いの頭痛がひどいのに)
ここ何十年ないほど、爽やかな寝起きだった。そこで思い出した。自分は昨晩、あの娘を抱いて眠りについたのだと。
(――どこへ行った?あれは)
ばっと百夜は部屋を見回した。彼女の姿が見当たらない。
(まさか、逃げたか―…?)
そう思うと、百夜の背筋に戦慄が走った。やっと手に入れた「生き餌」なのに―!
血相を変えて屋敷中を探し回ったが、どこにもいない。百夜はうつむいて柱に手をついた、その時だった。
「あ、おに…ええと、百夜様…」
炊事場から、澪子がすっと顔を出した。
「朝はいつも、何を召し上がって…?」
まさかそんな場所にいるとは思わなかったので、百夜はあっけにとられた。澪子は髪を顔の横でくくり、粗末な着物にたすきをかけて、完全に下働きの恰好であった。
「お前…なんでそんな事を」
「ここには使用人もいないようですし…よかったら私が用意します」
無表情ながらも、当たり前のようにそう答えられ、百夜は毒気を抜かれた。彼女は寝首を掻いて去ったのではなく、朝早く起きて働こうとしていたのだ。だが、昨日あれほど乱暴にしたのに、起き上がって働いている事に百夜は驚いた。
「お前…よく平気で起きれましたね」
その言葉の意味に気がついたのか、澪子は気まずげに目をそらした。
「いえ…な、慣れてますので」
その言葉は聞き捨てならず、百夜は澪子を鋭く見た。
「慣れている?あなたは生娘だったでしょう」
「そ、そういうわけじゃなくて…」
慌てる澪子を、百夜はなおも問い詰めた。
「ではどういうわけですか」
「ね、眠くても、どこか痛くても…こうして朝起きて動くのが、習慣、なので…」
とぎれとぎれのその説明に、百夜はふっと肩の力が抜けた。
「痛いのならば、休んでいればいいものを」
その言葉に、澪子は頬を赤く染め、蚊の鳴くような声で言った。
「だ、大丈夫です!あ、あまり…おっしゃらないでください」
そんなに嫌だったのか。昨日あんなに、熱に浮いた顔を見せたくせに。百夜はそう思うと面白くなかった。
「ふん…ならば好きにすれば、よい」
百夜がはぁとため息をついてそういうと、澪子が少し困ったような顔になった。
「それはありがたいのですが…あのう、食材は…どこにありますか?」
そういわれて、百夜は顔をしかめた。ずっと酒ばかり飲んできたので、炊事場にまともな食材などない。面倒になった百夜は庭の蔵を指さした。
「あるとしたらあそこです」
澪子のために、百夜は蔵の鍵を開けてやった。ずらりと並んだ薬に澪子は驚き、ついで眉根を寄せた。
「すごいお酒のにおい…」
が、奥にしまってあった壺や櫃を見て、澪子は驚いたように声を上げた。
「こ、これ…穀物や塩がこんなに…!こっちは…果物?」
澪子がばっとこちらを振り向いた。
「なぜこんな、食材がたくさん…?」
百夜は蔵の扉にもたれ、物憂げに彼女の様子を見ていた。
「…それは食材というより、薬の材料で仕入れたものです。もう使わないので、好きにするといい」
それを見て、澪子の表情がぱあっと明るくなった。
「わ、ありがとうございます…!ではお米をたいて、朝餉にしますね!」
初めて見る彼女の明るい顔に、百夜は目をそらした。他人にそんな目を向けられると、ひどくまぶしいような妙な心地がした。
が、彼女はそんな百夜の心の内など知りもせず、くるくるとよく働いた。最初は握り飯に若菜汁だけだった食卓は、だんだんと木の実や魚がならぶようになり、埃まみれで荒れた屋敷は掃除されこざっぱりとしていった。
そんな風にして働く澪子の背中は無言ながらもどこか嬉しそうで、最初百夜に抱かれた時よりもよほどいきいきとしていた。
その様子に、百夜はなぜかいら立った。
「…なぜそんなに働くんです?ここに居るのが、嫌ではないのですか」
朝餉の膳を置いて出て行こうとした彼女は、少し驚いたように振り向いた。
「えっ?」
「怖くないのですか?なぜそんな平気な顔で、鬼の世話などしているのですか」
その問いに、澪子は少し首をかしげて考えた。
「とりあえず、喰われなかったので…目の前の事を、しようかと」
「目の前のこと?」
「はい。掃除に炊事に…このお屋敷は立派なので、床を磨くのは楽しいです」
控えめにそう言った彼女の心のうちが、百夜はどうしてもわからなかった。肝を抜くと言われているばかりか、鬼に体を弄ばれたのだ。さぞかし自分の境遇に絶望しているだろうと思ったのに…。
納得いかない百夜に、澪子はぽつりと言った。
「死ぬと思っていましたが…存外ここで、良い目を見させてもらっていますので」
「…いい目?この鬼の住処で?」
澪子はくすっと笑った。
「ここに来る前のほうが、よほどひどい待遇でした。私はいつも、自分に言い聞かせていました。生きていれば、いつかいい事が起こるかもしれないから、頑張ろう…と。そしたら本当に、良い事が起こった」
ここよりひどい待遇とは、いったいどういう事だろう。百夜は疑問に思ったが、澪子の細い体、継のあたった着物をみてはっと気が付いた。
(そうか…食事も満足に与えられず、邪魔にされ―…挙句生贄として追い出されたのか、この娘は)
それはまるで、以前の百夜と同じだった。だが、黙り込んだ百夜を見て、澪子は明るい笑みを浮かべた。
「私にも食べ物をいただいて、ありがとうございます」
その一瞬の笑顔は控えめだったが、百夜の心に鮮烈な印象を残した。
(私は嫌われてはいない…という事か?あんなひどいことをした後なのに?)
百夜は疑問に思ったが、それを本人に聞く勇気はなかった。
なので、その疑問に数日間苦しむ事となった。そしてとうとう、食事の際に彼女に声をかけた。
「待ちなさい。お前はいつ、食事をとっているのですか」
「あ…このあと裏で残ったものを、いただいております」
「…私と同じ席につくのは、嫌だという事ですか」
その言葉に、澪子は目を丸くして首をふった。
「ち、ちがいますよ。使用人と屋敷の主人が、同じ場所で物を食べるなんて…失礼かと」
少しはにかむように、彼女はうつむいた。顔の横で緩く括られた髪が、動物の耳のようにふわりと揺れて、その様は可憐だった。
―もっと、彼女を近くで眺めていたい。
そんな思いを抱いてしまった百夜は、思わず言っていた。
「…いいですか、今から私と一緒に食事を摂りなさい」
「えっ…よろしいのですか」
おずおずと言う澪子に、百夜は咳払いをして言い訳をした。
「お前は使用人ではなく生贄でしょう。ちゃんと餌を食べているか、確認しなければなりません。太らなくてはならないのだから」
その言葉に、澪子はかすかにうなずいた。その目は様子をうかがうように、こちらを見ている。
「わ、わかりました…」
少し怯えたその声に、百夜は自分の発言を後悔した。
(ああ、やはり、一緒に食事などと、言わないほうがよかった…)
どうすれば彼女がこちらにおびえず、働いている時のようにいきいきと過ごしてくれるのかわからない。
…今まで、誰かとそのように過ごした事などなかったからだ。百夜はいつもひとりぼっちか、家族にさげすまれているかのどちらかだった。優しくしてくれたのは、野の狐だけ。百夜は狐が昔、ヨモギの葉をくれた事を思い出した。
(自分の食べ物をあげれば…怯えずにいて、くれるだろうか)
自分の膳を持ってきて、横にそっと腰かけた澪子に、百夜は自分の握り飯を差しだした。しかし澪子は驚いて百夜を見上げた。
「えっ?ど、どうされました」
「…お前にやります」
「お口に、あいませんでした…?」
彼女は困ったように言った。
「そういうわけでは…」
百夜は口ごもった。握り飯をおずおずと受け取った澪子の手首は、何度見ても折れそうなほど細い。それを見て、百夜は再び言い訳するように言った。
「お前があまりに細いからです。もっと太らなくてはいけません」
「は、はぁ…」
「早く食べなさい」
百夜がそう命令すると、澪子は握り飯を口元へもっていった。彼女の小さい桃色の唇が、かぷりと白飯にかぶりつく。ただそれだけの事なのに、なんとなく百夜は嬉しかった。
(私のあげたものを…食べて、くれた)
じいっと百夜が観察する中、澪子は食事を終えた。
「あの百夜様…ありがとう、ございました」
頭を下げたあと、澪子は膳をもって去ってしまった。
…もっと一緒にいたかった。
なぜだかわからないまま、百夜はそう願ってしまったのだった。




