親が決めた婚約なので
エリシア・アルトゥシー子爵令嬢とロレンス・ガルテン子爵令息との婚約は家同士で決めたものに過ぎない。
王家が命じただとか、事業提携に関して、という理由も特にない。
たまたま、親が交流していて他に丁度いい相手がいなかったからとりあえずで結ばれた婚約であった。
婚約というが、実際には婚約の後に(仮)という言葉がつく程度のもの。
いずれ、成人を間近に控え年頃になった令嬢や令息たちが通う事になる学園で他に良い相手がみつかれば簡単に解消できる程度の拘束力しかないものであった。
二人の婚約はそういうものである、と勿論エリシアは親から説明を受けていたし、それはロレンスだってそのはずだ。
けれどもロレンスは、親に勝手に決められたという事実がお気に召さないのか最初の頃からエリシアに対してあまり良い態度とは言えなかった。
「女のくせにでしゃばるな」
だとか。
「もっと男を立てろ」
だとか。
何かと偉ぶりたいというのはエリシアにもわかったけれど、エリシアからすると別にでしゃばった覚えはない。業務連絡くらいの会話でそう言われると、えぇじゃあどうしろっていうの……? と困惑するのは当然だった。
一応両親にも相談したのだ。
何故ってロレンスの言動があまりにも一貫性がなさすぎたので。
やれみすぼらしい服装で自分の前に出てくるんじゃないだとか。
※別にみすぼらしくはなかった。あくまでも子爵令嬢にとって常識の範囲内の普段着である。
逆にちょっと気合を入れてお洒落すれば、男に媚を売るつもりか、なんて言い出す始末。
※大勢の集まりに参加するわけではなく、婚約者としてロレンスに会う以外の用事は無かった。
エリシアは絶世の美女というわけでもないが、別に周囲が二度見するレベルの不細工というわけでもない。
可もなく不可もなくと言ってしまえばそれまでかもしれないが、着飾ればそれなりである。
パッと見では周囲を惹きつける程の魅力はないかもしれないが、それでも良く見れば愛らしいとか、綺麗とか言われないわけではないのだ。
ガルテン子爵家の跡継ぎはロレンスではない。彼の兄だ。
だからこそ、ロレンスは結婚したらアルトゥシー家に婿入りという形になる。
かつては家の跡継ぎになれるのは長子――それも男子であるとされていたが、長女しかいない家だっていくらでもあった。長女に結婚できそうにない事情があれば養子を迎える事もあったが、長女が結婚できるのならばその場合は婿が家の当主となる。
だが、そこで何を勘違いしたのかやらかした者がいたために、法律が変わったのだ。
すなわち、女性であっても後を継げるように――
婿入りした者が妻と子を作ってその家の血を絶やさない、というのが常識であるはずだったのに、我こそが当主だと愛人を引き入れ妻を冷遇し愛人の子を跡取りに、なんてやらかせば普通にお家乗っ取りなのに。
恐らくは実家の跡取りになれず、スペアとしても用済みだとされたのもあって、結婚した先の家で当主になり権力を得た事ではっちゃけたのだとは思うが、それにしたって……という話だ。
もしかしたら、ロレンスもそういう勘違いをしつつあるのではないかしら……と思い始めていたのもあって、エリシアの心はロレンスに歩み寄るどころか少しずつ距離を取り始めていた。
その考えが間違いではなかったと知ったのは、学園に入ってからだ。
学園には今まで婚約者を仮でも決めていない令嬢や令息たちがいた。大抵は低位身分の家柄である。高位身分の家だと仮どころかきっちりしっかり契約を結んでいる事の方が多いので。
仮でも婚約していなかったところは大体周囲に丁度いい年頃の相手がいなかったとか、領地で過ごしていると出会いがなかったとか、まぁそういった理由が大半である。
ところが学園に通うようになると、そういった事情を抱えている家の同じ年頃の者たちが集う形となるのだ。
成人前の社交場と言っても過言ではない学園は、友人と言う人脈を築くだけではなく将来の伴侶を見つける場でもあったのだ。
実際に、今まであまり大勢と交流する機会がなかった者たちからすると、一気に世界が広がるような錯覚を覚えるのも学園であった。
交友関係が広がって良い方向にいく者もいれば、その逆に悪い方に転がる者もいたが、成人前にそれらを選別する篩のような場としても学園は機能していた。
成人してからやらかすのと未成年のうちにやらかすのなら、まだ未成年の内の方が傷は浅い。
どうやらロレンスは学園で知り合ったマーサ・ロヒアリー男爵令嬢と親しくなっていったようだった。
確かに、マーサの見た目はパッと目を惹くものがある。
とはいえ、男爵令嬢なので高位身分の華々しい令嬢の方々と比べれば見劣りするが、それでもエリシアと比べるのならマーサの方が印象に残るだろう。
マーサには婚約者もいなかったので、学園で結婚相手を見つけなければ卒業後、結婚相手を探すとなれば今以上に苦労するだろう。それもあって、気合が入っているのも間違いではなかった。
婚約者のいない令嬢と令息だと、お相手を探すにしてもアプローチのしやすさが異なる。
令嬢の場合は婚約者がいる男性であっても身分が同等だとか、婚約を結んでいてもそれがとりあえずで結ばれているようならば、その相手に近づいたところでそこまで咎められるものではないが、しかし令息の場合はそうはならない。
婚約者がいるうちから他の令息に靡くようであれば、令嬢の方に瑕疵が付きかねないからだ。
下手をすれば仮婚約であっても令嬢の婚約者である令息の家から婚約者を略奪しようとした、なんて言われて争いが勃発しないとも限らない。
令嬢同士での争いは水面下で行われる事が多いが、令息同士の争いになると途端に周囲を巻き込む騒動になるのである。
だからこそ、令息たちの方が行動に出るにしても中々に厳しい状態なのだが、しかしもしロレンスとエリシアの婚約が解消されるような事になれば、その時には令息たちも大手を振ってアピールができるようになる。
実際、ロレンスがマーサと仲睦まじい様子で学園内のそこかしこで目撃されるようになってからは、エリシアの方にも数名の令息たちがもし婚約がなくなったら是非自分の事も考えてみてください……ととても控えめなアピールをされた。
なので、もしロレンスとの婚約がなくなってもエリシアの結婚相手がみつからない、なんていう事にはならないだろう。
未だに反抗期拗らせたような態度のロレンスとはエリシアもわざわざ個人的に関わりに行こうとはしていなかったので、周囲もエリシアがロレンスと関わらない事に何かを言うでもなかった。
もしエリシアがそれでもロレンスが好きだ、というのであれば。
エリシアだけがロレンスと歩み寄ろうとしてすげない態度を取られていたのなら、場合によっては捨てられそうな婚約者に縋りつく惨めな令嬢扱いされていたかもしれないが、生憎とそうではなかったので周囲も特にエリシアに対してあてこするような態度を取るでもなかった。
周囲だってわかっていたのだ。
エリシアとロレンスの婚約がとりあえず仮で結ばれただけのものでしかないという事を。
「ところで最近ロレンスとはどうなんだ?」
そんな疑問なのかもわからない事がエリシアに投げかけられたのは、夕食時、父からだった。
「最近、ですか? ガルテン様はロヒアリー男爵令嬢と最近仲睦まじい様子ですね」
もしこれが仮の婚約ではなく、もっと意味をもったものであったなら、内心はどうあれ表面上ではつつがなくやっております、だとか、特に問題はありませんわ、なんて淑女の回答をするべきだったのかもしれないが、何が何でも繋げないといけない関係でもないためにエリシアはあっさりと答えた。
「えっ、それではあちらは婚約を解消するつもりなのかしら……?」
「そうなんじゃないでしょうか。だってうちに婿入りするのにロヒアリー男爵令嬢まで連れてはこれないでしょう? 流石に」
母の言葉にもあっさりと返す。
エリシアの記憶に間違いがなければ、マーサ・ロヒアリーもまた次の当主となる存在だ。
彼女は嫁ぎ先ではなく婿を欲している。
そして、ロレンスに目を付けたのは、男爵家よりは子爵家の方が教育に関しても多少高度なものを受けている事がわかっているからだろうとも。
「最近ガルテン様とお話をする事があっても大体会話のほとんどはロヒアリー男爵令嬢に結びついておりましたし、むしろこの婚約はあちらにとっても枷でしかないでしょう」
やれマーサのようにもっと愛嬌を持てだとか、マーサのようにもっと自分を立てろだとか、なんだか他にも色々と言っていたが要するにもっと自分に媚び諂え、というような内容だったのでエリシアの脳内にロレンスの言葉の大半は残されていない。
彼女にとっては死活問題なのでしょうね……と思っているからエリシア本人はマーサの事を悪く思うつもりはない。自分の領地だけではなく、他の土地に関しても学んでいれば自ずと理解できようというものなので。
男爵家であるからこそ、高位身分の相手が婿入りしてくるという望みは薄い。
仮にいたとしても、そういうのは大抵没落寸前の身分だけが取り柄の貧乏貴族で、プライドは一丁前にあるくせに実力が伴っていなさそうな……要するにマーサの望む男性ではない可能性が高かった。
婚約をしていない令息や、仮婚約をしている令息の中で、恐らくロレンスがマーサが手出しできる相手の中で好物件だった。だからこそ彼女はロレンスに近づいたのだろう。
エリシアとしては別に何が何でもロレンスと結婚しないといけないわけではないし、彼との婚約がなくなった後にと売り込んできた令息たちの誰かと新たに婚約する事も何も問題がない。
「……婚約の件に関しましては、お父様とお母様の考えに従いますわ」
だからこそ、エリシアは自分に売り込みに来た令息たちの情報をぽろっと漏らしながらも、最終的にそう言って会話を終わらせたのであった。どのみち領地にいた時も、こうして学園がある王都のタウンハウスにいても、ロレンスとの交流などそこまでしていないのだから、恐らくは解消されるのだろうなと内心で思いながら。
――婚約は案外簡単に解消された。まぁ当然だろう。
エリシアにだけ相手が見つかって、ロレンスに相手がいないとなれば向こうの家ももうちょっと粘ったかもしれないが、しかし既に新たな相手を見つけているとなれば、学園を卒業後行き場を失った息子が家に居座り続けるような事にもならない。
エリシアに捨てられたロレンスがやけくそになってろくでもない相手を見つけてきた、とかならまだしも、婚約を結んだ最初の時点から彼はこの婚約に不服であるという態度を隠しもしていなかった。両親やロレンスの兄が言い聞かせても頑なであったので、最初からきっとエリシアとロレンスの間に縁なんてものはなかったのだろう。
自分の人生を自力で掴み取るべくして彼は行動した。
そう思うしかなかった。
婚約が解消された事を公表すれば、エリシアには複数名から釣書が届けられる事になった。以前売り込みにきた令息たちと、それ以外からも数名。
その中からエリシアの両親が選んだ相手と、エリシアは新たに婚約を結んだ。
相手は伯爵家の四男という、ロレンス以上に結婚相手を探すとなると大変だろう相手だった。実際諦めかけていたらしいので、婚約が決まって彼は快哉を叫んだ程であった。
結婚できなかったら家を出た後文官の道を目指すしかないと思っていたらしき彼は、アルトゥシー子爵領を発展させるべく学園を卒業後、エリシアの良き伴侶として働いてくれた。
子宝にも恵まれて、大発展とはいかなくてもそこそこ発展した領地での生活を、エリシアは悪くないと思いながら天寿を全うしたのである。
愛する夫、愛する子、発展して幸せに暮らす領民たち。
エリシアの周囲には笑顔が溢れていた。
――さて、一方のロレンスはというと。
ある日あまりにもあっさりと、エリシアとの婚約は解消されたと父から伝えられただけだった。
聞けばお前には好きな相手がいるのだろう、とも。
学園での噂はどうやら両親の耳にも届いていたらしい。
婚約が決まった最初の頃はエリシアと歩み寄れと言われていたものの、それでもやっぱり自分の意思とは無関係に勝手に決められたそれに反発しかできなくて、エリシアにも冷たい態度をとってしまっていたけれど。
学園に入る前まではそれでも一応ロレンスはエリシアの事を嫌ってはいなかった。
エリシアの方から歩み寄ってくれていれば、ロレンスだって少しくらいは譲歩してやってもいい、と思っていた。
お互いの家格は同等なので、ロレンスのその考えは大いに思い上がったものでしかなかったのだが、彼はそれに気付かなかったけれど。
ロレンスの家族はその思い上がりに気付いて、どうにか矯正を試みたけれど、しかしロレンスは言われれば言われた分だけ反発するので、どうしようもなかったのだ。
仮にこのままエリシアと結婚したところで、そのうちエリシアに見捨てられる可能性が高い。
そうなってから実家に出戻られても困るのは、ガルテン家だ。父と母はロレンスの兄、バンデルに当主の座を譲った後は領地の片隅に小さな屋敷を建ててあるのでそちらでのんびり過ごそうと思っていたし、その頃にはバンデルだって結婚している。そこにロレンスが戻ってこられても、バンデルの妻やその時にいるなら子供だってロレンスの扱いに困るだろう事は考えるまでもない。
これが、何かしらの事情があって帰ってきたとか、一時的に帰省しただけ、とかならまだしも離縁されて追い出されました、などが理由ではそのまま居座られる可能性すらある。
家族が暖かく迎え入れるにしても、それだけの事情がなければ難しい。
思い上がった態度と勘違いを拗らせて離縁されて追い出されました、となればロレンスを家に置いてやるにしても、あまりに長期間だと社交界で一体どんな噂が流れる事か。
バンデルの友人経由で学園のロレンスの態度に関しても噂は聞いていた。だからこそ、ロレンスの家族たちはどうにか彼の思い上がりをなんとかしなければ……と思っていたのだけれど。
まぁ、他に結婚したい相手を見つけたというのなら、もうそれでいいんじゃないかな……
アルトゥシー子爵家との仲が悪くならないうちに婚約を解消させた方が、ガルテン子爵家にとっても……となったのもあって、婚約はとてもあっさりと解消されたのである。
彼に他の相手がいないうちであったなら、せめてもうちょっと待ってほしいと頼むつもりではいた。相手がいないならいないなりに騎士団にぶち込む準備だとか、そういう準備を整えるまでは……と。
婚約解消して相手がいない状態で騎士団に入るのと、騎士団に入る事を決めてから婚約解消するのとでは、結果が同じでも色々と異なるのだ。主に社会的な評判とかが。
なのであまりにもあっさりと、ロレンスはマーサ・ロヒアリーとの仲を咎められる事もなく、お前はそのまま彼女と添い遂げるために頑張りなさい、と家族から言われたのである。
その時のロレンスは、今まで散々エリシアを大切にしろと言われていたのに、こうもあっさり……とどこか拍子抜けした気持ちであった。
エリシアとの婚約がなくなった以上、マーサとどうなろうと問題はない。今までは婚約者であるエリシアがいるのに、そちらを蔑ろにするような態度だったから言われていたに過ぎないのだ。
解消後、学園でエリシアを見かけても、エリシアはこちらを一瞥する事すらなかった。
それが、ロレンスにとって内心で面白くなかったのだが、しかしすぐさまマーサが腕に絡みついてきたのでその考えも霧散する。
ロレンスにとってエリシアは結婚してもまぁ構わないかな、という相手ではあった。
ただ親の言いなりなのが嫌だっただけで。
見た目はロレンス的にも悪くなかったと思っている。ただ、自分に対する態度が冷ややかなのが面白くなかった。
いずれは結婚するのだから、もっと相応の態度があるだろうに……と思っていたのだ。
エリシアがそういう態度であったのは、ロレンスの態度や言葉が原因であったにも関わらず、彼はそれを華麗に棚上げしていた。
ロレンスは子爵家の人間とするならば、それなりに優秀な方ではあった。だからこそ、思い上がっていたと言える。
婚約解消されて、てっきり後になってからエリシアが縋りついてくるだろうと思っていたのに、しかし実際そうはならなかった。
後になって後悔してももう遅いんだからな……! なんて思いながらも、ロレンスはマーサとの仲を深めていって、そうして学園を卒業し、マーサの家でもあるロヒアリー男爵家へ婿入りしたのだ。
いずれ、社交界で逃した魚は大きかったのだと後悔させてやる……! という野望と共に。
ところが、そんなロレンスの思惑は早々にぶち壊された。
ロヒアリー男爵領は辺境にほど近い場所で、土地だけはあるがそれだけという、如何ともしがたい土地であった。人がいないわけではない。けれど、土地と人がいても発展しているわけでもないという、なんとも微妙な土地。
マーサの親でもあるロヒアリー男爵は領地を富ませられるだけの才はなかった。悪化させていないだけマシではあったが、このままではいずれ、マーサの次かその次か、更にその次かはわからないがいずれ没落するのではないか……と思えるような低迷具合。がっつり落ち込むわけではなく、徐々に下がっていっているのが現状だった。
マーサはそんな現状をどうにかするために、優秀な婿を求めていた。
ところがマーサの家は男爵家。貴族の中では下から数えた方が早い。マーサ本人もそこまで優秀と言えるわけでもないために、本人の努力や頑張りだけで何とかなるとも思っていない。
であるからこその優秀な伴侶なのだが、身分が下なせいで優秀な相手は中々縁付かない。婚約者がまだいない令息であっても、選ぶ権利はある。旨味もない家の当主の婿、という立場に魅力なんてあるはずがなかった。
それならまだ、未婚のまま己の力で成り上がる選択をした方がマシ。
マーサに靡かなかった令息たちの考えは、概ねそのような感じだったのだ。
実のところ、それでもそういった土地をいかにして富ませるか、という事を考えて実験的ではあるかもしれないが、婿入りしたいと思っていた令息は数名存在していたのだが、しかしそちらをマーサは選ばなかった。
贅沢を言える立場ではないが、しかしそれでも長い年月を共に過ごす事になるのだ。面白半分で手を出そうとするような相手をマーサは選びたくなかったのである。
自分に手を出すか、領地に手を出すかの差こそあれど、そこで失敗されて責任だけ押し付けられて逃げられでもしたなら……と考えてしまう程度には、マーサのところへ婿入りしようと自分から売り込んできた令息の評判は低かった。
だからこそ、それなりに優秀で、身分もそこまで差がなくて、それでいて自分の掌の上で簡単に転がってくれそうな相手――ロレンスを選んだ。
マーサとて自身の未来に若干切羽詰まっていたといっても、それでもその時点ではまだエリシアの仮の婚約者であったので、一応それとなく確認はしたのだ。もしエリシアがロレンスの事を真に思っているようなら、略奪はよくない、と考える程度の倫理観をマーサだって持ち合わせていたので。
ところが、ロレンスのエリシアに対する態度のせいで、エリシアもまたロレンスの事などなんとも思っていない様子。
男爵令嬢であるマーサより子爵令嬢であるエリシアの方が学園で婚約者を新たに探すのであれば、選択の幅が存在していたというのもあってマーサはロレンスに近づいたのだ。エリシアからするといらない相手かもしれないが、マーサにとっては自分で選べる相手の中ではマシだったので。
エリシアはロレンスに媚を売るような真似をするつもりなどなかったようだが、マーサにとっては簡単な事だ。
その程度で勝手に気持ちよくなって自分の思う方向に転がってくれるのなら、むしろ安いものである。
……なんて思惑があった事なんてこれっぽっちも理解していなかったロレンスは、想像すらしていなかった。
ロヒアリー領の寂れ具合を。
寂れているといっても困窮しているわけではないので、治安はそこまで悪いわけではないが、とにかく色々と足りていないのである。言葉を選ばず正直に言うのなら、ロクな娯楽も存在していないド田舎。ロレンスの実家があるガルテン領やその近所であるアルトゥシー子爵家の領地もお世辞にも都会とは言えなかったが、ロヒアリー領はしかし軽くその上をいっていた。アルトゥシー領とは反対のガルテン領の隣にある領地も同じく田舎だが、しかしそちらは保養地としてそれなりに人がいる。
同じ田舎のはずなのに、この違いはなんなんだ……とロレンスは思い切り困惑していた。
いずれアルトゥシー子爵家に婿入りするとなれば、当主代行としてロレンスが領地に赴く事もあるだろうと、一応それなりに領地経営に関しても学んではいたのだが、それはあくまでも実家であるガルテン家の領地や、アルトゥシー領を想定したものだ。自分とは無縁の土地までロレンスは手を伸ばすつもりなどなかったし、マーサが言っていたうちの実家も田舎の方なんですよ~なんてのんきな言葉を素直に受け取ってしまっていた。
田舎と言われて、ロレンスは実家のあるガルテン領と同じようなものなのだろうと勝手に思い込んでしまっていたのである。
ロレンス様素敵~とか、頼もし~い、とか散々持ち上げられていたのもあって、どうせ同じく婿入りする先が田舎なら、自分を立てて頼ってくれるマーサと結婚する方がいいと思った結果が――
実はとんでもなく洒落にならない事態である、と気付く結果となってしまったのである。
エリシアと結婚してアルトゥシー領を盛り立てるのであれば、そこまで苦労はしなかったと思う。
だがしかし、ロヒアリー領をそちらと同じノリでやらかせば間違いなく失敗するのが目に見えている。
ロレンスの中ではアルトゥシー領くらいなら、自分でも充分に盛り立てていけるだろうと思っていた。
それと同じようにロヒアリー領も余裕だろうと根拠もなく思い込んでしまっていた。
ところがいざ蓋を開けてみれば、盛り立てる以前にまず土台部分からどうにかしないといけないレベルとでも言おうか。領地経営以前に、スタート地点にすら立っていない状態。
自分の実力ならかる~く領地を盛り立てて、そうして社交界でそれなりに優秀さが噂になって、エリシアが自分との婚約を解消した事を後悔するはずだったのに……
下手をすれば盛り立てるどころか失敗を重ねるような事になりかねないし、挙句の果てにロヒアリー家が没落の憂き目にあう可能性すら漂い始めてきた。
自分の関係ないところで没落するならまだしも、マーサと結婚し婿入りした後でそうなれば、没落の原因にロレンスが無関係だと言い張れるはずもない。そしてもし没落するような事になれば、確かに社交界で噂にはなるだろう。ただし、ロレンスが思い描く方向とは真逆の意味で。
正直今からでも逃げ出したい気持ちになったものの、しかし既にマーサとは学園を卒業し領地へ戻る前に王都で婚姻届けを出してしまった。式を挙げるのは領地に戻ってから、という話をしていたが、恐らくはその結婚式だってロレンスが思い描くようなものとは思い切り異なるのだろう。
いや、今は式についてはどうでもいい。
問題は既に籍を入れてしまった事だ。
今からやっぱりなかったことに、なんて言えばどう足掻いてもロレンスの我侭からくる離縁となるので、マーサやその家族だって簡単に受け入れたりしないだろうし、そうなれば泥沼離婚裁判の始まりである。
そして恐らくそんな事になれば、きっと自分が負けるのは目に見えていた。
そうでなくともエリシアという婚約者がいたのにも関わらずマーサに靡いてエリシアとの婚約を解消し、学園でマーサと常に共にいたのだ。
それで今更離婚しました、なんて事になったとして、次の結婚相手なんて果たして見つかるだろうか。
答えは否だ。どうにか離婚できたとしても、ロレンスは確実にマーサに多額の慰謝料を支払う事になる。実家がそれを工面したり立て替えてくれるとは思えない。
エリシアとの婚約を解消した後から、実のところ両親や兄の態度は以前と比べてちょっとだけ素っ気なくなっていたのだから。
そうなれば、多額の借金持ちの男を婿に、なんて言う女性は恐らくいない、とロレンスですらわかりきった話だ。ロレンスの何かしらがどうしようもない程に恋焦がれるのだと、借金くらいどうにでもしてみせると言えるような女性はもしかしたら探せば世界のどこかにいるかもしれないが、しかしそれを見つけるよりも先に借金の取り立てに追われる方が早いだろう。
離婚して実家に戻ったところで、きっと追い出される。
そうなれば行くアテもないだけではなく、借金まで抱え込むという割とお先真っ暗な未来が待ち構えている事になってしまう。
その未来を回避するためには、マーサと今更離婚しようなんて言うのではなく、マーサの夫として妻と共に領地を発展させるしかない。たとえ発展できなくとも、数代先までどうにか持ちこたえられるだけの地盤を整えられれば……!
「頼りにしていますね、ロレンス様っ♪」
既に自分の妻となったマーサの、弾むような声に。
「あぁ、うん。頑張るよ……」
ロレンスは乾いた笑みを浮かべた。
今は、それが精一杯だったのだ。
彼がもう少しマトモに笑えるようになるかどうかは……ロレンスの頑張り次第である。
次回短編予告
どうしたの姉さん、え? 嫌な夢を見た? そう。
それで、どんな夢?
次回 夢の中での仕事くらいもっと夢あふれろよ、と姉さんは言った
拙作の中できっと一番短い文字数です。