第47話 銀狐、向きあう 其の四
何も悪くないのに泣いて欲しくなくて、目蓋に、涙の跡に接吻を落とす。
「お前は何も悪くない。悪いのはお前の気持ちを考えずに逃げた俺だ」
紫君とその番以外、誰にも知られずに自分の心と向き合う為の『逃げる』旅だった。覚悟を決める為の旅だった。それでも帰るのは銀狐の里だと、白竜の元だと決めていた。
紫君の作った式が見破られるなど、思ってもみなかった。そしてまさか白竜がこんな想いを抱えながら、姿を変えて自分を追い掛けてくるなど想像もしなかったのだ。
「悪かった……白竜」
そう言って晧は愛しい気持ちのままに、触れるだけの接吻を白竜の唇に落とす。気付けば白竜の腕が晧の細腰を抱き締める様に、晧はひどく安堵した。
拒まれてしまったら、耐えられない。
だが白竜はそれこそ、あの婚儀の相談の場から同じことを思っていたはずだ。
「ごめん……」
唇を離して吐息混じりにそう呟きながら晧は、白竜の上に腰を下ろした。腰に回されたままの白竜の腕が、丁度尻尾の上部辺りで手を組む。
白竜の気持ちを考えたら、触れられていることが堪らなく嬉しいなどと、思ってはいけないはずだ。だがどうしても嬉しくて、ぱたぱたりと銀灰黒の尻尾が動く。
「……お聞きしてもいいですか?」
涙の止まった白竜の、真摯に自分を見つめる瞳に晧はこくりと頷いた。
「どうして……私から逃げようと?」
「……っ」
晧はじっと白竜を見つめたあと、再びあからさまに視線を逸らした。何故姿を変えて自分を追い掛けて来たのか、白竜がここまで話してくれたのだ。だから自分も話さなくてはと思うのだが、理由が理由なだけに言い淀む。
「私の人形が怖かった……?」
「……」
無言のまま晧が首を横に振る。
確かに怖いと思った。だが白竜が思っている『怖さ』とは、また違うものだ。きっとこの怖さは強い者に隷属する、本能的な悦びに屈服することへの怖さだ。
そして何よりも一番が……。
「晧……私はですね、貴方が南の国にいる友人に会いに行くと聞いた時、その方が……貴方の本当に好きな方なのではないかって思ったんです」
「え……」
晧は耳を疑った。
逸らしていた視線を白竜に向ける。
「私は貴方が思う私とはかけ離れてしまったし、幼竜の時も臆病で貴方の後ろを付いて行くことしか出来なかった。だからその方に会うために、私から逃げたのではないかって思っ……」
「──違う! そうじゃねぇ! 第一、かけ離れてねぇよ! それにお前は臆病じゃない。臆病だったらあの時俺が熱を出したことで、薬の知識が欲しいって言って、麒澄に弟子入り志願なんて出来ねぇよ」
ここまで言って晧は、ふと気付く。
「……ってもしかして『白霆』の姿で俺を口説くって言ったのは……!」
「──その方よりも私の方が『いい男』だと思って頂きたくて」
どこかしゅんとした様子の白竜に、晧は悩ましさと呆れの混ざったような深いため息をついた。まさかそういう方向で勘違いされるとは、夢にも思わなかったのだ。
「ああ……違う、違うんだ。確かにお前から逃げたのは事実だけど、ちょっと考える時間が欲しくて。……紫君に教えて貰った宿に行くついでに、数度しか越えたことのない山越えの経験も積みたかったんだ。けど普通はそんな軽い理由で山越えなんてしないだろうから、いもしない『南の国にいる友人に会いにいく』っていう理由を作ったんだ」
「……いない、のですか……? 南の国にいる友人が……?」
「いない」
「では何故私から……?」
「──っ」
途端に晧が言葉を詰まらせた。
だが黙ることによって妙な勘違いが起きてしまって、拗れてしまうのなら素直に話してしまった方がいい。
そう思うのだが。
「理由があるのなら知りたいです……晧」
「……」
白竜の言葉に後押しされて、晧はそれはそれは腹の底から這い出るかのような、深いため息をついた。
思うことはたくさんある。
もうそれを全部この男に、ぶつけてしまってもいいのかもしれない。
晧は白竜の眠衣の合わせ目を両手でぐっと掴むと、白竜を自分の方へと引き寄せる。
「──ずっとずっと、可愛い可愛いって思ってた年下の小さな白竜が、いきなり体格もいい見目もいい、好みの雄竜になって現れたらびっくりするだろうが!」
「えっ……こ、う……?」
「しかも、絶対俺のことを抱くんだって言わんばかりの目で見られて!」
「えっ……」
「お前体格いいから絶対アレもでかいだろうし……怖いし……! だからちゃんと自分の気持ちが落ち着くまで旅に出ようって……」
「……」
「なぁ! お前のお前のアレ……その……『白霆』の時と……その……──って、やっぱいい何でもない、何も聞いてない!」




