第30話 銀狐、助ける 其の一
大きな麗河を渡し舟で越えた二人は、麗南の山越え経路の入り口に差し掛かった。
南の国境までは、なだらかで低い山から始まり、だんだんと険しい山への登山となる。物資を運ぶ商用の荷車を始め、裕福な旅人の乗る荷車は、通行料を払って石畳の敷かれた隧道を通るが、その額は高額だ。一般の旅人は山の入り口にある小さな街で装備を整え、自分の足で登る。
晧は元々、山越えの経験を積みたいという理由で、荷車を使う予定などない。白霆は帰りに荷が大きくなった時に使いたいという理由で、晧と同じく行きは自分の足で登山の予定をしていたという。
街で買うものは簡易食と水だ。靴は鱗皮で覆っているものをこのまま使うことができるし、寒さや風を凌ぐ外套は元々二人とも常備している。
二人は穏やかに話をしながら山に入った。
山といえども初めのうちは、なだらかな丘だ。だが歩いていく内にだんだんと木々に覆われた山道へと変わっていく。
やがて陽は南中を越えた。
二人は登山道から少し外れたところで、昼餉の準備をする。森抜けの時は、野生の魔妖の行動が活発になる時間帯と重ならないように宿に到着、もしくは森を抜ける必要があった為、歩きながら干肉を少し齧っていた。
だが山越えの時に一番始めに登るこの山は、謂われがあって野生の魔妖は一切近付かない。それに山の中腹には紫君が言っていた温泉で有名な宿もある。ゆっくり歩いても日暮れには辿り着く距離だ。
晧と白霆は腰掛けることが出来る岩を日陰に見つけると、やれやれと言った感じで座った。
布鞄から取り出したのは乾飯と干肉だ。
それらを齧りながら晧は、これから歩く方向の景色を見て小さく息をつく。
そう、温泉のある宿なのだ。今宵の宿は。
(──約束、するんじゃなかった……!)
今朝のことを思うと約束とはいえ、公共の場の温泉であっても、お互いに肌を晒すのは良くないのではないかと思ってしまうのだ。
(そういえば、あの香り……)
一体自分はどこで嗅いだのだろう。
白霆から匂い立つ、春の野原の草花のような瑞々しい香りは、昔どこかで嗅いだことのある懐かしい香りなのだ。
「──なぁ? 白霆。お前何か香りのするもの、身体に付けてたりするのか?」
晧の唐突な質問に、白霆がきょとんとした表情をする。
「いえ、職業柄そういった類のものは付けておりませんが……どうしました?」
「え、そうなのか? お前から時々、懐かしい何かいい匂いがするんだが、どこで嗅いだのか覚えてなくてな。だから何の匂いか聞こうと……──白霆?」
白霆が息を呑むのが分かった。
途端に変わった顔色に、晧の方が驚愕した。
香りのことを尋ねただけで、どうしてこんなに白霆が動揺するのか分からない。何か怪しい薬や薫香でも使っているのかと思ったが、そういった類は独特の気配や匂いがする為、鼻の利く晧にはすぐに分かるのだ。
可能性はただひとつ。この香りは白霆が本来持っている香りだということだ。
「──晧、私は……」
「ん?」
白霆が神妙な顔付きでじっと晧を見つめる。
首を傾げながらも、晧が白霆の話を聞こうとした、その時だった。
ぴん、と晧の灰銀黒の耳が真っ直ぐに立つ。何か聞こえた気がして左右前後に耳を動かす。まるで遠くのものを、より聞こうとしているかのように。
「晧……」
「しっ! 静かに。いま……確かに何か聞こえた」
晧は乾飯と干肉を布鞄にしまうと岩から立ち上がった。
灰銀黒の狐耳に手を宛い、物音のした方向に向かって歩き出す。
晧と白霆は登山道から少し離れたところで休憩していた。音が聞こえたのは、更に奥の道の方だ。
実は登山道の他にも、いくつか道が存在している。そのほとんどがこの山に住む者達が、隣の集落と行き来をしたり、枝を広い集めたり、木を切ったり、必要最低限の獣を狩ったりと、生活の為に毎日歩いて踏みしめた道なき道だ。頻繁に山に入っている者以外は、迷うことを怖れてほとんど使われることはない。
この道もその一部なのだろう。
木漏れ日が差し込んで、背の長い草を倒して出来た道が綺羅綺羅と輝いている。
(……ああ、この先だ)
物音は確かに道の奥から聞こえてくる。
「白霆……声だ! 人の苦しそうな声が聞こえる!」




