第20話 銀狐、白蛇に会う
晧と白霆の泊まったこの碧麗という名の街は、麗南に広がる『愚者の森』の入口と接している為、昔から森抜けに利用されている。
日の出と共に森に入り、日の入りと共に森の切れ目にある小さな宿場街に辿り着くこと。そして森を抜けるまでは決して夜に出歩いてはならないことが、かつての暗黙のしきたりだった。『愚者の森』は様々な魔妖の住み処だ。
ほとんどの魔妖は夜に行動が活発になり、妖力も増す者も多い。野生に近い魔妖ならば狩りの時間でもある。夜間に森を歩くのは余程の剛の者ではない限り、自殺行為に等しい。
だが近年、森の中央にある開けた場所に宿泊所を造った剛の者がいた。主は人と魔妖の混血だったが妖力が高く、宿泊所を自分の縄張りだと牽制して、野生の魔妖を遠ざけたという。
この宿のおかげで森抜けは、昔に比べて格段に楽になったのだ。
晧と白霆の二人は朝餉の後、宿を出て旅の準備の為に大通りの屋台で買い物をした。保存食と水が主だが、一番の目的は白霆の靴と足を覆う為の鱗皮だ。
街道の石畳は実は『愚者の森』の中には存在しない。道を石畳にする為の工事を行える剛の者がいないのだ。だが森の木を開き、長年人々の踏みしめた土がちゃんと道になっていて迷うことはない。しかし整備されていない道の為、天気が崩れれば途端に泥に足を取られてしまう。しかも雨上がりの泥の中に、人や魔妖の足の肉が好物な妖蛭が潜んでいることもある。
白霆の靴は膝まである、旅用のしっかりとした皮靴だ。だがこれでも妖蛭の牙に掛かれば、容赦なく皮ごと足の肉を持っていかれるだろう。
鱗皮はその名の通り、ある鱗に術を加えて大きく引き伸ばし、皮状にしたものだ。この鱗は熱にも寒さにも強く、何よりも丈夫で固い。妖蛭が食らい付いても足まで届くことはない。
数日前に『愚者の森』に雨が降ったことを知っていた晧は、予め里を出る時に用意していた。森は生い茂った木々の葉によって陽が遮られている為、一度雨が降るとなかなか地面が乾かない。
「助かりました、晧」
森の道を共に歩きながら白霆が言う。
案の定、道は泥濘んでいたが、水にも強い鱗皮のおかげで足を取られることもなく歩くことが出来たのだ。
「森抜けも以前に比べれば随分と楽になったしな。これで森に街道が通れば言うことはないんだがなぁ」
「流石にこの森を工事しながら進むとなると、色々と割に合わないでしょうからね。それに街道が出来ない方が都合のいい方というのが、一定数いらっしゃいますし」
街道が出来ないことで商売が成り立ち、それで生活している様々な者がいる。実は銀狐の里も、勢力を二分する鬼族の里も例外ではない。
「──ああ……確かにな。俺のところも……」
不意に晧は話を中断し、立ち止まった。
「……どうしました?」
「──しっ! 静かに」
ぴんと立てた銀灰黒の耳が、何かしらの音を捉えてせわしく動く。さんさんさわさわと葉擦れの音がした。森の中では当たり前にある音だ。だが枝の折れるような乾いた音も聞こえて、晧は敏速に音のする方向を見上げる。
思わず手を伸ばしてしまったのは、落ちてくるものに対する条件反射か。
しっかりと抱き止めたそれは、子供の腕ほどの太さを持った白蛇だった。
「……っと! 大丈夫かお前」
「きゅう!」
つぶらな紫闇の瞳を綺羅綺羅とさせながら、頷くように鎌首をこくりこくりと動かして白蛇は鳴く。
「お前、白蛇神のとこの眷族だろう? いくらお前でもあの高さから落ちたら怪我するぞ」
晧の言葉に白蛇は再び、何か言いたげにきゅうと鳴く。
『愚者の森』の入口周辺は、大きな蛇身を持つ白蛇神と呼ばれる白い蛇の縄張りだ。彼の大蛇は人や魔妖を警戒し滅多にその姿を見せることはない。その為、縄張りが侵されていないか見て回るのは、眷族の白蛇の役目だ。
「……え? 懐かしい顔を見たから挨拶に来たって? 何言ってるんだ? 俺は数日前にもここを通ったぞ」
「きゅう?」
「……え? 何だって? まあいいや。白霆、こいつ白蛇神の眷族の……ってあれ?」
横にいたはずの白霆の姿がない。気配の感じるがままに後ろを振り向けば、自分から数人分の距離をあけて白霆が立っていた。
どこか強張った蒼白な顔をして。
「白霆……?」
呼び掛けながら晧が一歩近付くと、白霆は二歩離れる。もう一歩近付くと更に離れる。
そんな白霆の様子に晧はようやく思い当たる。
「──あ、もしかして白蛇苦手だったか?」
「得意な人の方が少ないのでは?」
その口調はいたって冷静であり平坦だ。だがその淡々さが拒絶を物語っている。
晧は白蛇を見た。白蛇も白霆をじっと見ていたが、晧の視線を感じたのか、きゅうと鳴いて鎌首を晧に向ける。
「挨拶ありがとうな。でも俺の連れが苦手みたいだからさ、この近辺を通る間だけ、眷族の皆に姿を見せないようにお願い出来るか?」
任せろとばかりに、きゅきゅうと鳴いた白蛇が晧から離れた。このまま森に帰るのだろうと思っていた白蛇は、何を思ったのかこれ見よがしとばかりに、白霆の立っているすぐ近くに進んでいく。
「……っ」
ちょっとした悪戯だったのだろう。
尾を軽く白霆の足に当てて、白蛇は森の中に消えていった。
残された彼は……。
「──あ……大丈夫か? 白霆」
驚いて泥濘に尻餅を付いてしまっていた。
晧がくすりと笑って差し伸べる手を、どこか釈然としないむすっとした表情を浮かべながら、白霆が掴む。
立ち上がる彼の子供っぽい様子に、晧は自分よりも体格のいい彼のことを何故か可愛らしいと思った。そしてふと思い出してしまうのだ。
昔、白蛇が怖くて自分の足を掴んで怯えていた白竜のことを。
白蛇は確か白竜のことを気に入っていた。友達になりたいのに怯える白竜が嫌だったのだろう。蛇身でぐるぐる巻きにしていたのを覚えている。助けてと、きゅうきゅう鳴く白竜を救助し、白蛇を諭したのは一度や二度ではない。
その時の白竜の雰囲気と、今の白霆の雰囲気が似ている気がした。
だが本当に気がしただけだと晧は思い直す。
人と竜とでは、気配の根本のようなものの感じ方が全く違うのだ。
白霆は確かに『人』の気配がする。
こんなに図体の良い男を見て、あの時の小さな竜を思い出す自分がとても可笑しく感じられて、晧は再びくすりと笑った。
「泥濘に妖蛭がいなくて良かったな」
「全くです。こんなところ齧られてしまったら、薬も塗りにくいですし。晧に手伝って頂かないといけないですね」
「……っ対に塗らねぇ……!」
「あ、もし晧が齧られてしまったら、ちゃんと塗って差し上げますからね。すぐに治るようにとても丁寧に塗り込んで差し上げます」
「──……っっ対に! 塗らさねぇし、そもそも怪我しねぇ!」
辟易とした表情で言う晧に対し、先程の鬱々とした雰囲気をどこへいったのか。それとも笑われたことに対する腹いせか。
白霆がにっこりと笑ってそんなことを言ったのだ。




