第15話 銀狐、口説かれる 其の三
第15話
将来の番がいることを承知の上で、あんなことを言ってくる男との旅なんて、たとえ恩があったとしても止めた方がいい。
そう思うというのに、心の一番奥が離れたくないと、離れるなと叫んでいる。
つきり、と。
何やら心の臓の上辺りが痛む気がして、晧は寝台から起き上がった。初めは突き刺すようなものだったそれが、じくりとした鈍痛に変わる。
(……ここは、確か……!)
寝台から降りた晧は何かを探すかのように辺りを見回した。目的のものを見つけてその前に立つ。
精度の良い鏡の嵌め込まれた姿見だった。
こくりと息を呑んでから晧は、衣着の左側をはだけさせる。
現れたのは透き通るような瑞々しいまでの白い肌と、程よく筋肉の付いた綺麗な肩だった。そして胸部にはまるで白磁器に紅筆で描かれたかのような、美しくも艶やかな紋様がある。
これこそ晧が生まれながらにして定められた、銀狐一族次期長としての証である紋様だ。紋様は広げた竜の片翼のような形をしている。番と定められた許婚竜も同様のものを持っていて、目合うことによって互いの紋様が刻まれ、両翼の紋様になるのだという。
だが……。
「──え……?」
晧の紋様は右翼だ。対というくらいなのだから、きっとこの辺りに左翼がくるのだろうという想像が出来る。
丁度そんな位置に、本来なら番だけが持つはずの左翼紋様の、角部分だけが浮き出ていた。
「……なんで……」
一体何が起こっているのか。可能性はひとつしかないというのに、色んなことがありすぎて目覚めたばかりの頭は、ぼぉうとして考えを纏めてくれない。
「──晧?」
不意に呼ばれて晧は、慌てて衣着を着て合わせ目をぎゅっと掴みながら、敏速に振り返った。
部屋の入口に、少しびっくりしたような表情を浮かべる白霆がいた。
「……ああ、すみません。お着替え中でしたか? もし身体が辛いようでしたらお手伝いしますが、大丈夫ですか?」
「──っ」
自分を口説くと言った口で着替えを手伝うと言う彼に、晧は開いた口が塞がらないような心境になる。白霆の親切心を疑うわけではないが、下心があるのだと分かっているから余計に。
「だ、大丈夫だ。じ、自分で出来るから。それよりもどうした?」
思わず上擦った声が出てしまって気恥ずかしい。そしてそんな晧の様子を見透かしたかのように、白霆はくすくすと笑うのだ。
「そんなすぐにとって食べたりしないので安心して下さい」
「……とっ……! 食べ……!」
「いま朝餉を用意して貰っているのですが、何か苦手な物があるのか、貴方に聞くのを忘れてしまって」
何だ朝餉のことなのかと一瞬安堵した晧だったが、多分絶対に違うばかりにぶんぶんと頭を振って、先程の思考を追い出す。
すぐではないとは言うが、いずれはそのつもりがあるということか──!?
晧の心の中の叫びに、口説くと言ってるんだからそれも含むのは当たり前じゃないかと、自分の冷静な部分が応える。
「……晧?」
「──へ!?」
「苦手なもの……」
「あ、ああ!」
銀灰黒の耳をぴんっと立たせながら、晧はいま考えたことをとりあえず頭の隅に追いやり、白霆に応えを返す。
「清白の香漬……」
「苦手、なんですね。お可愛い」
くすくすと笑う白霆に、銀灰黒の尻尾をぶんっと勢い良く振りながら、違うと強く否定した。
「違うんです?」
「──ああ、違う。食べられないわけじゃない。白霆は麗城の紫君を知っているか? あの人、お裾分けだって言って、よく里に清白と清白の香漬を持ってくるんだ。初めは有り難かったんだが、あまりにもたくさんあったんで、飽きてしまったんだ。だから……!」
「ああ、なるほど、紫君ですか。そういえば師匠の所に、よく持って来ていらっしゃいましたねぇ。師匠は薬屋を、清白屋にでもするつもりかと怒っていましたが。番の方が清白の香漬が大好物で、ついに自分で畑を持ったというお話は有名ですし」
「そ、そうなのか!?」
晧は驚きで目を丸くした。
紅麗の茶屋で会った美麗の雄竜を思い出す。まさかあの美丈夫が、畑を持つほど清白の香漬が好きだなんて、想像が付かなかったのだ。
「ええ。毎年春になると、竜形で畑を耕す姿が見られるとか」
「──っ……何だそれすっげぇ見たい!」