第13話 銀狐、口説かれる 其の一
須臾。
晧は彼の何気ない言葉に虚を衝かれたような、もしくは冷え切った手で心の蔵を柔く握られたような、そんな心地がした。
この男はあの時、自分の名を呼ばなかっただろうか。
だがあの時の自分は、媚薬と香りによって正気ではなかった為、確信が持てなかった。別の言葉を自分の都合のいい言葉として、解釈していた可能性も否定出来なかった。
(自分では耳聡く、鼻も利く方だと思ってたんだけどな……)
それほどあの媚薬は、魔妖にとって恐ろしいものだということだ。情報は回っているかもしれないが、紫君の耳に入れておいた方がいいかもしれない。そんなことを思いながら晧は、先程感じた『冷えた心地』に蓋をする。
「銀狐一族の晧という。あらためてよろしくな、白霆」
に、と笑いながら晧は白霆に手を差し出した。自分よりも熱くて大きい手が力強く握り返してくれる様に、自然と晧の銀灰黒の尾が揺れる。
「素敵な名前ですね。貴方にとてもよく似合う。晧、とお呼びしても?」
「……あ、ああ」
さりげなく名前を褒められて温かい気持ちになる反面、何とも言えないむず痒いものが、心の奥から這い上がってきた。それが何なのか分からないまま、晧は応えを返す。
「それでは、晧。晧は山を越えて、南のどちらへ行かれるのです?」
「──っ」
握手の手を解放しないまま、白霆がそんなことを聞いた。まるで暗に、答えるまで離さないと言われているかのようで晧は戸惑う。そしてどう答えていいものか、この辺りにも困惑する。
まさか正直には言えないだろう。
実は婚儀の相談までした許婚竜の姿が、昔とかなり違っていて格好良くなったことに戸惑ったこと。尚且つ体格の良さからきっとアレもでかいと怖くて逃げ、気持ちを定める為に旅をすることに決めたなどと。
しかも南の山越えの動機は『あまり経験がないから、この際に色々と経験しておこう』という軽いもので、特に南の国に目的があるわけではない。
人にとって森越え山越えは命懸けだ。先人達によって南の国まで石畳みの街道が敷かれてからは、道中に迷うことはなくなった。だが森や山の中は獣や原始的な魔妖達の住処であり、彼らにとって人は生きる糧なのだ。彼らに襲われる危険性は決して皆無ではない。
魔妖も同様だ。
現に『魔妖狩り』が存在し、晧は襲われたばかりだ。
それなのに『なんとなく経験を積む為に』山越えして南へ、などと言ってしまえば、かなり怪しい奴ではないか。
(……助けて貰った恩人に、妙な奴だと思われながら旅をするのもなぁ)
晧は心の中で意を決し、小さく息をつく。
「国境近くの街だ。そちらに友人が住んでいて、久々に会いに行く予定をしている」
ここまで嘘を塗り重ねるつもりなどなかった。だが気付けば晧の口からはさらりと言葉が出ていた。
「──ご友人に? 危険な山越えをして会いに行かれるなんて、貴方にとって大切な方、なんですね」
にこりと白霆が笑う。
晧は曖昧に返事をしてから、彼から視線を逸らした。嘘をついてしまったことについて罪悪感がしたのだ。正直に言わなくても物見遊山だ、ぐらいにしておけばよかったのではないか。そんなことを思ってしまったがもう遅い。
そして須臾にして目を逸らしてしまったが故に、見ることが出来なかったこの時の白霆の表情について、のちに晧は後悔することになるのだがまだ先の話だ。
晧、と白霆が呼ぶ。
まるで自分の方を向いて欲しいのだと言っているかのような呼び声に、晧は視線を上げた。
(──ひ)
まさにそれは刹那の間だったのだろう。
白霆の銀白色の瞳の奥に、ゆらりと揺らめく焔を見た気がした。だがすぐに優しげな眼差しに覆われてしまって見えなくなる。
「……不躾かとは思うのですが……あともうひとつお願いがあるのです、晧」
「ん? 何だ」
「言っても……いいですか?」
「白霆の恩に報いるって言ったろ? 何でも言ってくれ」
自分の気のせいか。
そんなことを思っていると、未だに解かれていない手を更にぎゅっと握られる。
気付けば手の甲に寄せられる形の良い白霆の唇を、晧はただ茫然と見ていた。




