リトルガールブルー
あの女の恰好は部屋着のまま飛び出してきたという風で、対して僕は家にあったベージュのアロハシャツを着ている。お互い信号を目途に向かい合い、一体僕はどんな顔をして歩きだせばいいというのだろう。僕は昼から夕方にかけて労働に駆り出される。
僕はコンベアの前に立って、そこに流れてくる大量のグミにビタミンを注入するバイト。隣のコンベアではグミを避けながらワルツを踊るバイト。経験を求められるのであちらの方が報酬が良い。工場にはうっすらと音楽が流れている。コンベア上のシャープな線を描く見事な足運び。涼しい顔を浮かべて汗をかかない。一粒のグミも踏まない。僕はよそ見をしてしまう。壁越しに外から子供たちの遊ぶ声が聞こえていた。この工場と隣接した、水色を基調とした保育園から、新生活のブームの過ぎ去ったシャボン玉、膨らんだ石鹸水の香りがここまで漂ってくる。疲弊した顔の裏で予感の弾ける予感。僕はバイトに励むうちに、甘味料と単調なワルツ音楽に対しての不感症を患っていたが、そのことに気がつかないまま日給を受け取って帰った。
季節の変わり目の白けた夜。観客はまばら。寂しいライトのついた狭いステージの上に風変りな女と男が現れる。
女の方はグランドピアノに乗っていた。原動機付で自走可能なピアノだった。排気ガスがまだステージに残留している。男の方は背中にバイオリンを乗せ、ショウリョウバッタのような体勢で跳び跳ねながら登場した。そのまま男は音の鳴るススキ畑へ向かってステージをはけていく……。ピアニストだけがステージに残った。演奏が始まる。
『Unhappy little girl blue…』
落ち着いたピアノ。ブルース調で女の声は低い。簡単に良いと言えてしまう音楽だった。歌からピアノが引き継ぎ、名前を知らないだけで馴染みあるエレガントな奏法。やはり簡単に良いと言えてしまう音楽だ。自分がいかに若いか、僕は音楽批評を通して自ら進んで思い知った。演奏が終わる。女は深いため息をつき、一瞬だけ主婦の表情をみせた。そしてさっさとピアノのエンジンをかけて帰ってしまう。勢いで壁をぶち抜き、ステージにはライトを透過して排気ガスが滞留していた。僕はあっけに取られながらも、背中から突き出た4つの空洞から世界中の兎を噴出し、高速推進で家まで帰った。
帰ると玄関は兎だらけになった。同棲中の彼女が出迎えてくれる。
「これみてよ! 本物の大東亜帝国事業計画書2025年版!」
そして彼女は残念なくらい陰謀論者なんだ。根が明るいだけマシとはいえ、僕はマジメな顔をして彼女の頬を引っぱたく。これは全く正当なDVだが、当然訴えられる覚悟もできている。僕は彼女のためにもう一度、反対側の頬を引っぱたく。
「頼むからどうか目を覚ましてくれ……。」
「今日初めて知ったんだけどさ、星座はユークリッド空間から外れているから、たとえば夏の大三角の内角和は日によって変わるの。今日はその変動が大きいから、カモメのマスクを被ってお風呂に入った方が安全なんだって。だから帰りに2つ買って来た。」
スピリチュアルにも走る。僕は彼女のことを抱きしめていると時々、話を遮るよりも話に付き合ってあげるべきなんじゃないかと反省することがあった。そんな心情になるときは大抵、こっそり背中の穴から出てきた2匹の兎が素早く交尾を始めて猛烈に痒くなるんだ。こうなると僕はどうしても観念してしまう。浴槽からお湯と一緒に大量の兎たちが溢れ返り、僕と彼女は一緒に、湯気と新品臭いカモメのマスクで酸欠状態の夢見心地だった。




