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4.青い孤島の怪物

いってらっしゃいのキスをするお父さんとお母さん。笑うと可愛いお隣のおばあちゃん。川辺でぼんやり空を眺め、釣れない魚を待っていたおじさん。

半年前に発足した新政権である軍事体制と、反政府を掲げる武装勢力との争いを、何処か遠い国の出来事のように感じていた。この国は、民主体制と独裁体制を繰り返し、その覇権争いは首都とその近郊を度々戦場としてきたが、首都から離れた第二の都市である富裕層の多く住むこの地域では、人々は戦争を知らずに暮らしていたのだ。

武装勢力の拠点がこの都市であると報じられた翌日、政府軍の市街地への爆撃が開始された。それは、昨日まであった日常を一変させた。

道端に倒れ、動かない人たち。それは、お庭のお花に水をあげていたおばあちゃんであり、釣り場へ犬の散歩がてら向かうおじさんであり、異常事態に子供達を逃がそうとして捕まり、その場で処刑されたお父さんとお母さんだった。

建物は瓦礫と化し、侵攻してきた武装兵士は、動くものを見つけると、それが何であれ関係なく叩きつけて、二度と動かないようにしていった。

妹と瓦礫の下で身を寄せ合って、誰からも見つからないように震えていた。

もうずっと泣き続けていた。

暗い所にいないと安心できない。朝が来ると、今日が最期かと思う。

誰かが、兵達は暗い所でもこちらを見付けることが出来るから、暗がりに逃げても意味がないと言っていた。その誰かも、いつの間にかいなくなった。

年の離れた小さな妹が足手まといであった。恐怖がいつも、妹を置き去りにせよと囁き、寂しさが妹の手を繋がせた。

死ぬのは怖い、痛いのは嫌だ、自分だけでも助かりたい。小さな手を何度も振りほどいて逃げ、そしてまた妹を探しに戻って来る。

女の人は地獄だった。いくつもの悲鳴に耳を塞ぎ、私は自分の髪と、妹の髪を切って男物の服を着て、武器になる物を手にして暗闇を移動し、泥水を啜って、街から逃げる隙を伺っていた。

街を囲うバリケードの向こうには、陽の光の下を普通に歩ける世界が広がっているのだろうか。

もう壊す物なんて残っていないのに、一斉砲撃が瓦礫を焼く。

妹の手を握りしめる。

もう何日も、食べ物を口にしていない。


中央情報局、海兵隊航空部隊から集められ国籍をいとも簡単に捨て、中には元の自分の顔さえ思い出せないほど整形を繰り返し、任務完了と共に国に戻り帰化することを繰り返す、大統領直属の名前のない作戦部隊。個々が七十億の頂に立つ戦闘力を持つ戦場で暮らす自分達に、一つの作戦が言い渡された。

地理的な安全保障政策上、隣国の現政府による独裁政権の定着を阻止するため、反政府勢力に資金提供を行い、作戦部隊が投入された。この新興国家はすでに国庫資金が枯渇し、周辺諸国の圧力によって外貨獲得が出来ずに資金繰りが厳しくなり、紛争は鎮静化しつつあった。

最終的に停戦へと持ち込まれたのは、政府側の経済的窮地の他、現政権の最高指導者である男の家族が全て拘束され、反政府側に捉えられたことによって、この指導者が退陣したことに因るものだった。

政権の最高指導者の家族を攫ったのが、この名前のない作戦部隊であり、そして、停戦が掲げられてなお、情報が行き渡らない消耗した戦地に赴き、政府軍の強制撤退を指揮するのは、ダイマル・ハーロッズという作戦部隊の中でも最高戦闘力を誇る男だった。


最初の方こそ、景気よく自動小銃やマシンガンを撃ちまくり瓦礫に穴を開けていた政府軍は、武器供給が滞ってからは、ゲリラを警戒しつつ銃剣やナイフを手に、狩を楽しむように街に隠れる者達を追い詰めては、命を潰していた。

武装兵士が五人、雁のような陣形で歩を進め、穴を突いて這い出した小動物に食らいつく狐の様に、周囲の暗がりに火薬を投げ込み、煙で生物を燻りだす。

ネリネは妹の手を固く握った。

兵士たちに何度も追われ、命からがら狭い場所に潜り込んでやり過ごしてきたが、妹のネロはもう走る事はおろか、歩くこともままならないほどに衰弱していた。それでも、ネリネが手を繋げば立ち上がるし、引けば走って付いてくる。

口を引き結んで、余計な事は何も言わない。泣きもしない、悲鳴も上げない。ネロはまだ、六歳になったばかりで、自分は十五歳と、歳が離れた姉妹だった。

姉妹は血が繋がっていない。ネロは戦災孤児で、両親が家族として引き取った子供だったが、同じ国に戦争で親を亡くした子供達が居ると知って、妹が欲しいと言ったのはネリネだった。幼いネロは、再び戦争に翻弄されている。濡れたような黒く綺麗な瞳には、今、何が映っているのだろう。

一か所に留まらないよう、円を描くように逃走を続け、市内にあった立派だった教会の建物だった場所へとやって来る。

神様が様子を見に来てくれないだろうかと、その青銅色の屋根の残骸を見て思うのだ。

瓦礫が崩壊し、地面が揺れて尻もちをついた。

辛うじて教会だったと分かる屋根が砕け、骨のような鈍色の柱が空に突き出していた。

「そこか」

後ろで声がした。

カーキ色単色の野戦服を着た兵士たちが、子猫を見つけたような喜色を浮かべてこちらを見る。彼らは、動くものなら何でも握りつぶして血を啜り、ナイフで腸を取り出して炙って食する。

政府軍の兵隊達は、字を書く事より、戦闘を覚えさせられる。

不幸な境遇の子供たちが集められ、読み書きのできない劣等感は、戦闘の技術を覚えることで薄れ、同じように集められた不幸な子供たちに戦闘を教え、上下関係を形成していく。

知っていることの全ては戦闘技術と、上下関係による下位の者を虐げる事によって得る快楽だけであり、彼らはこの戦争に正義や思想を持って参加しているわけではなかった。

ナイフどころか、あの太い腕に掴まれば、生きたまま手足を引き千切られてしまう。絶対に掴まってはいけない。

この近くに、大人が通り抜けることのできない狭い道がある。そこまで、何とか走って逃げなくては。ネロの手を掴み、踵を返す。

その時、思いがけない事が起こった。

ネロが手を振り払って、兵士たちの方へ歩いていく。

兵士の手が、ネロの首を片手で掴んで持ち上げ、ネロの喉から、ネロの民族の言葉で「逃げて」と掠れた声が漏れた。

あれだけ足手まといだと思っていた妹のネロが作ってくれた、ネリネを逃がすための時間だと分かっていたのに、気が付くとフェンスだった金属の棒を振り上げ、妹を掴む兵士に向かっていた。

まるで車に撥ねられたのかと思うような衝撃を体の側面に感じ、地面に叩きつけられて息が詰まった。息を無理矢理吸おうとして、胃液がせり上がり喉を焼きながら地面に飛び散る。

笑い声と共に、髪を捕まれて首が仰け反る。

兵士の一人が、それは嬉しそうに酷い言葉を呟いている。

体中が恐怖で粟立ち、諦観が藻掻く気力すら奪って身体を動けなくした。

無理矢理仰向かされた空、狂気を浮かべた獣の顔の向こうに黒い塊が見えた。それは、空気を規則的に叩きながら、こちらへと近づいて来る一機のヘリだった。

兵士たちが俄かに騒ぎ出し、ヘリの所属を確認するように双眼鏡を取り出すが、間もなくこの教会前の広場上空にホバリングした機体から、数本の紐を伝って黒い戦闘服の男が二人降りてくる。

「撃て!」

政府軍の男たちが慌てて、ライフルを上空に向けるが、数秒とかからずに黒い戦闘服の男たちは地面に達し、ライフルを構える兵士たちに突進してきた。

政府軍の兵士は後方に退きながら、拳銃に持ち替え二手に分かれた男たちを狙うが、片方の巨体の男が俊敏な動きで距離を詰めてきて、漣のように広がる動揺に陣形が崩れた。巨体の男は、兵士の手首を撫でるようにナイフで切り裂いたあと、ナイフの柄ともう片方の掌底で挟むように頭蓋骨を砕いて一人を無力化し、倒れた兵士の足首を掴んで銃を乱射する他の兵士の方へと投げ飛ばした。

ネリネは、この状況に驚愕しながらも地面に腹ばいのまま首だけを巡らせて妹を探した。何の気配も感じないまま、突然腹に腕が回され、そして浮遊感を覚えた。

もう一人いた黒い戦闘服の男がネリネを持ち上げ、もう片方の腕にはネロを抱えていた。

男はコンクリートの壁の裏に飛び込むようにして、ネリネとネロをそっと下す。

灰色に晴れた日のこの国の空の色を混ぜた光彩が、フェイスガードの隙間から覗き「よく頑張った」とこの国の言葉で言い、ネリネとネロの頭を撫でた。

男は戦闘が繰り広げられる広場に戻るように、立ち上がる。ネロが戦闘服の男の裾を掴むのを、優しく「直ぐに終わるから、ここに隠れていなさい」と言って頭を撫でた。

その後の光景は、ネリネは一生忘れないだろうと思った。

残酷な戦闘が、暴力行為が、あんなに神々しく見えたのは、自分たちを避難させた男の圧倒的な強さに他ならない。

先に戦っている、二メートル近い巨漢の戦闘員が二人を倒している間に、広場に戻って行った男が、銃を撃ちまくる兵士の射線を制御しながら間を詰める速度は、人の視力で追えるものではなく、気が付くと一人の兵士の懐に飛び込み、踵で兵士の顎を蹴りぬいて、傾く頭を掴んで地面に叩きつけた時には、もう二人の兵士の利き腕の肩に投擲されたナイフが深く突き刺さっているという事態になっていた。

さらに男は低い姿勢から、ナイフを当てた兵士の足を諸手で刈って引き倒し、倒した兵士の鳩尾を踏み抜いた反動からの跳躍で、もう一人の後頭部に飛び蹴りを当てて、そのまま踏みつぶすように男の頭に着地した。

殺してはいないが、軽傷では済まないやり方だ。

意識を戻したとしても、兵士たちは体が動かせず、もう二度と戦う事は叶わないだろう。また、傷が回復しても後遺症は免れないほどには、ダメージを与えられていた。

「制圧完了、周辺市民の保護を開始する」

ダイマルは通信を終えると、フェイスガードを外し相棒のハサンと共に、先ほど避難させた二人の少女の元に戻る。

ブラウンの髪に鷲鼻で髭を蓄えた、椎の実色の肌の軍人らしい筋肉の張った、見るからに強そうな大男がハサンで、少女二人を避難させた黒髪で灰色の瞳の男がダイマルであった。

ダイマルの顔はここら辺ではあまり見かけない、アジア人と思われた。また、軍人というよりはアスリートのようで、血や暴力とは無縁のような澄んだ目をしていた。

戦火を生き延びた子供たちは、人の本性を嗅ぎ取れるようになっていた。そして少女二人は、このダイマル・ハーロッズという男から、決して離れようとしなくなったのだった。

ダイマルはこの時、二十歳になったばかりの青年だった。

十六から戦場に駆り出される国で生まれて兵士となり、身寄りのない日系人だったダイマルは、所属する組織では、いつも蔑まれ底辺にいた。かつて、アジアの大国の軍部に配属された遺伝子操作による強化兵が国際的に問題視され、国際法に則り、遺伝子操作による身体強化が禁止されてなお、紛争地域ではこの強化兵が金で雇われ需要が後を絶たなかった。

強化兵は情操に大きな問題を抱え、知能が低く凶暴であることが多く、負傷した後は秘密裏に処分される非人道的な扱いを受ける被害者となっていた。

人並外れた身体能力を持つダイマルは、こうした強化兵であると噂されていた。だが、ダイマルは欧米四カ国、アジア三カ国の言語を話し、知能が高く、情緒は安定し道徳的と言える人格を持っていた。

ダイマルは遺伝子操作などではなく、ダイマルの先祖が遭遇した「天使の助言」と呼ばれる、家系の掟により、生まれるべくして生まれた天才だった。

ダイマル自身は、孤児だったため、その祖先の掟が如何なるものかは知らずに育ったが、天使の助言というものは「故郷を持たない」という掟だった。

彼の祖先は、決して同じ民族と結婚せず、また生まれた所から出来るだけ遠い土地で生きることを自分たちに課した。

そうした掟で生きて来たダイマルの父は、どこの民族とも言えない混血で、日本人女性との間に出来た子がダイマルだった。

そのためダイマルはアジア人の特徴が濃く、アジア人としては高身長ではあるが、キングコングのような肉付きの軍人達の中では、やや見劣りする。しかし、いまや彼を見下す者はいないほどの功績を重ねていた。

ダイマルはこの新興国での作戦後、両親を失った二人の少女を養子に迎えた。正確には、妹のネロを養子とし、ネリネの身元引受人となった。

ネリネは頑なに、ダイマル・ハーロッズの養子になることを拒んだ。

ネリネは養子ではなく、ダイマルの妻になることを願っていたのだ。

ダイマル自身、家族というものを持ったことがなく、知能は高いが人付き合いがあまり得意ではなかったため、ネリネの要望を断り続けた。

仕事柄戦地に赴く事が多く、命の危険が伴う作戦に身を置く立場で、妻帯してよいものか迷っていたのだ。だが、戦争体験の影響でネリネの情緒が不安定な事もあり、また、数年したら彼女の気持ちも変わるかも知れないと、彼女が二十一歳になったら結婚するという約束をして、彼女の望みに寄り添うことにした。

ダイマルの首には、姉妹と自分が写る家族写真を入れたロケットが掛かっている。

ネリネは髪を伸ばし、年々と女性らしく美しくなった。対して、ネロは髪を短くして、少年と見分けがつかない格好を好み、言葉遣いもいくら直しても男の子の様に話すのだった。これも、戦争体験による心の置き方を、彼女なりに模索した結果なのかもしれないと、ダイマルは好きなようにさせることにした。

彼女たちを引き取ってから五年、いよいよネリネとの結婚が実現する事となり、ダイマルは用意した婚約指輪をネリネへプレゼントした。

ネリネはこの五年間で一番嬉しそうな笑顔を見せ、喜びを口にした。

ダイマルは初めて、幸福というものが胸の奥から湧き上がってくる感覚を覚えた。

その数日後、ダイマルに一つの作戦が言い渡された。ダイマルはまだ二十五歳だったが、この作戦を最後に、作戦チームからは引退することを決意した。

結婚をするなら、明日が保証されない仕事からは手を引き、安月給でも戦地からは遠い場所で生きることにしたのだ。

この五年間、任務の度に辛い思いをさせてきた姉妹に、失われることのない安心を与えたいと思うようになっていた。

栗色の髪を長く伸ばし、赤みがかった茶色の瞳を持つ、ヨーロッパ系の特徴のある顔立ちをしたネリネ。妹のネロは、インディヘナの特徴があり、何処か神秘的な黒い瞳を持ち、同じ黒髪のダイマルを父親のように慕ってくる。

ダイマルが参加する最後の作戦は、アジアのとある島で作られている第六世代無人戦闘機の奪取及び、製造工場の破壊だった。

島はヨーロッパの植民地だったが、戦闘機製造は多国籍企業出資によるもので、アジアの先進国の企業も参加していた。

「ダイマルさん、絶対に、生きて帰って来てくださいね」

ネリネが遠慮がちに手を握って来る。ネリネはダイマルを尊敬するあまり、いつも少し緊張して、少し引いた接触をしてくる。

「ボク、マルが帰ってきたら、うどん作って食べさせてあげる。うどんはいっぱい踏むと美味しくなるから、いっぱい踏んどく」

十一歳になったネロは、子犬の様にダイマルに懐いていて、ダイマルのことを「マル」と呼んでいた。また、最近進出してきた日本の饂飩チェーンにはまっているネロは、自分が食べたいものはダイマルも食べたいはずだと思っているようだ。

「ああ、ありがとう。直ぐに終わらせて戻る」

ダイマルは姉妹の頭を撫でて、玄関を出て行く。

だがダイマルが三人の家に戻ることは、それきりなかった。


クレイ・エリースは降り立った島の地面が、異様な色をしていることに気が付いた。

上空から見た時は、木々に覆われた、いくつかの高い山を持つ大きな島だと思っただけだったが、大地は紺に近い青い色をしていたのだ。

植生も、よく見ると馴染みの木々は一つもなく、節足動物がやたらと多い。そして、それらにとって、自分たちは餌だと直ぐに思い知らされた。大陸の虫とは比べものにならない大きさのそれらが、雲霞のように群がり、ひっきりなしに襲ってくるのだ。

こんなところに長居は無用だ。

クレイは防護魔法を展開しながら、地表に転送用の魔法陣を描き始める。

あともう一息と言うところで、手が止まった。手がピクリとも動かない。

クレイの視線は、地面に寝っ転がって暢気に寝息をたてている、鈍色の髪のエルフに向いていた。やがて、その派手な服の襟首を掴んで、頬を左右に叩いて起こす。

「おう、いつまで寝ておるんや、起きろ!」

自分の声が、自分の意思とは関係なく発せられた。

どういう事だ。

クレイは体を動かそうと必死に手指に神経を集めるが、夢の中の自分を見ているように、体は無関係に動いている。

眠らせていたエルフが、徐に起き上がってブルルっと体を震わせた。

「ヨド、お手や」

クレイが噛みつかれると、身構えていると、目の前のエルフがフンフンとこちらに鼻を寄せて嗅いで、尻尾を元気よく振り出した。

「お手」

「フォフ」

エルフは、こちらが差し出した手のひらに、片手を乗せた。

「よーしよしよし、グッボーイ」

柔らかい犬耳をワシワシと揉んで、立ち上がる。

「ほな、ソゴゥを探しに行こか。ああ、そうそう、あんた何て名前や?この体の持ち主のあんたや。俺は、ミトゥコッシー・ノディマー。人の体を乗っ取るのが得意でのう、あんたの意識があろうがなかろうが、支配した体を優位に動かせるから、抵抗しても無駄や」

『ミトゥコッシー・ノディマー、まさか憑依の能力なのか。だが、体の持ち主の意思を上回る支配など、聞いたことがないが』

「我ながら怖い能力よ、俺が逆にされたらゾッとするわ。そんで、あんたの名前を聞いとるんや、ヨドゥバシーとソゴゥを攫った理由は?目的はなんや?」

『・・・・・・』

「ほう、さっきまであれだけお喋りだったのに、だんまりか」

ミトゥコッシーは、乗っ取ったクレイの指の骨を折った。

『ギャアア!!』

「俺も痛いんよ、全部の指の次は、目を潰す」

『ッツ、正気なのか!』

「俺たちはのう、兄弟に手を出されるんが一番嫌いなんよ。お前が抵抗するなら、俺はこの体を、有史以来最悪の自殺を遂げた遺体にしてやる」

体中の毛細血管から、凍るような怒りが侵食してくるのをクレイは感じた。

『今ここで死ぬわけにはいかないのだ、分かった、この島を出るまでは協力しよう。私はクレイ・エリースだ』

「王家に次ぐ古い名家の者が、弟たちに何の用や?天界に連れて行くみたいやったがのう、イセ兄さんが発動寸前であんたの魔法陣に干渉したおかげで、ここはこんな異様な島だが、人界で間違いないんよ」

『この島が人界だと、信じられない』

「世界は広いんやな。その内、俺たちを探してイグドラムの軍隊がこの島にやって来るはずや、何せ、そこで後ろ脚で頭を掻いているヨドゥバシーの他に行方不明になっているソゴゥは、イグドラシルの第一司書だからのう」

『落ちた方が、第一司書だったのか。しかし、あの高さから落下して無事な生物は竜種くらいだ』

「問題ない。俺たちの魔術は自動で発動するからのう、ただ、この島はソゴゥとは相性が悪いようや」

ミトゥコッシーは「可哀そうに、きっと末っ子は今頃耳を伏せて怯えておるわ」と周囲の巨大な虫たちを見て言った。

「とにかく、闇雲にこの広い島を探しても始まらんし、あんたの魔力量で島中を飛行して探すのは無理そうやから、まずは人の居るところを探そう。ヨド、行くぞ」

「ウォフッ!」

草を搔き分けるミトゥコッシーに、ヨドゥバシーが四足歩行でついて来る。

『弟の扱いは、それで正しいのかね?』

「ヨドはいつもこんなもんや、ソゴゥは扱いを間違えると噛みついて来るから要注意だけどのう。ところで、この獣化はどうにかならんのか?」

『おそらくこれ以上の悪化はないだろう、回復は時間の問題だ』

尻尾をフリフリついて来るヨドゥバシーを振り返り、ミトゥコッシーは可哀そうと、面白いと、情けないが混在する複雑な気持ちをクレイの表情に乗せて苦笑した。

第十三貴族、ノディマー伯爵家の当主として、十三領民のためにも他の貴族から侮られないよう身形に気を使っていたヨドゥバシーの、いつもの背筋の伸びた姿とはかけ離れ、犬そのものの仕草で、道の花をフンフンと嗅いでいる。

「頼むから、マーキングしないでくれよ」

ハラハラして見ていると、ヨドゥバシーは近寄って来る羽虫を鬱陶しそうに、身を左右に振って払うが、払ったそばから纏わり付かれていた。やがて、ヨドゥバシーは空中に何かを吐き出すように、空吠えした。

その途端、ヨドゥバシーの躰から青白い光が波紋のように周囲に広がり、ミントのような清涼な香りと空気が広がった。

虫たちは、この匂いを嫌うように散ってゆき、群がっていた虫がいっぺんに周辺から居なくなった。

「おお、やるのう」

『治癒魔法の応用のようだ』

当の本人は、耳の後ろを脚で搔いている。

「ノミは追い払えんかったんか?いつから風呂に入っとらんのや、ヨド」

ヨドゥバシーの耳を一緒に掻いてやりながら、ノミがいるのか見ていると、ヨドゥバシーが頭をクレイの体に擦りつけて来た。

「おいやめや、こっちにノミを寄こすんじゃない」

『ただ痒いだけでしょう。病棟は、出入口に除菌消毒はもとより、微細な寄生生物を取り除くための装置が付いていたのだから、不潔なはずはない』

「そうか、お兄ちゃん安心したわ。ただ、結局このジャングルを四足で歩いとったら、あっという間にノミやダニだらけになりそうだがのう」

ミトゥコッシーは木の枝からボタボタ落ちて来るヒルを手で振り払いながら、ヨドゥバシーを連れて人のいる場所を目指した。

しばらく鬱蒼としたジャングルを歩いていると、体が引き倒されそうなほど地面が大きく揺れた。近くの木々から、止まっていた虫たちが驚いて一斉に空に飛びあがっていく。

揺れは二度三度と島を襲い、頑丈な根を張る大木の下で、ヨドゥバシーを遠くへ行かないように抱えながら、ミトゥコッシーは揺れが収まるのを待った。

「この揺れは何なんや」

『これほどまでに地面が揺れるのは、火山が噴火したのではないか』

「それにしては、爆音は聞こえなかったがのう?」

大木の枝の隙間から見える空は茜色に近く、もうじき夜が来ると告げていた。

ミトゥコッシーの感覚から、この島の緯度はイグドラムよりやや東寄りで、経度はだいぶ南に位置する場所にあると推測された。

それほど気温が高く感じられないのは、今いる場所が島でも標高が高い場所のためだろう。

「日が暮れる前に、村を見付けたいのう。ヨド、人の匂いとか分からんか?水場でもええ」

ヨドゥバシーはミトゥコッシーの言葉を理解しているらしく、周囲の匂いを頻りに嗅いでいる。

『獣化はしていても、身体能力までもが変化しているわけではない、彼に犬の嗅覚を期待するのは無理だと思うが』

「なんや、見た目だけか」

ヨドゥバシーは不満そうにミトゥコッシーを見上げ「見てろ」と言わんばかりに、近くの大木に駆け上って行った。

「おい!ヨド!」

ヨドゥバシーはあっという間に木の天辺まで辿り着くと、周囲を見回した。やがて木と木を足掛かりにジグザグに跳びながら降りて戻って来ると、ミトゥコッシーの服の裾を噛んで引き、先を歩きだした。

「なんや、自信満々やな」

「ワフッ」

こっちこっちと、先導するヨドゥバシーに着いて行くと、滝の音が聞こえて来た。

木々が途絶え、開けた空の下、重なった滝と豊富な水を湛える川に出た。

「おお、偉いぞヨド」

ミトゥコッシーが、ヨドゥバシーの頭をワシワシとかき混ぜる。

『やはりそれが、正しいエルフの扱いとは思えないのだが』

「ヨドが喜んどるからええんや」

『後で正気に戻った時、傷つくのではないかね』

「いや、ヨドは結構正気を取り戻しとる。目を見ればわかる。ただ、俺に乗っ取られたあんたのように、ヨドもまた自由に体を動かせないようや」

『それは本当かね』

「病気のことは分からんがのう、ヨドの状態は見ていれば分かる」

『私達医者は、症状にばかり目がいきがちでね、人を見るという事も大事なようだ』

「なあ、どうしてあんたは弟たちを誘拐したんや」

『それを口にした途端、私の身体は朽ち果てる呪いを受けているのだ。ヒントになるような事も同様にだ。ただ、我々エルフは、とある者からすると、霊薬に等しい。とくに魔力量の多い、若いエルフは』

「なるほど、ルキから聞いている、序列第十位の邪神ナヘマーか。ナヘマーは、第一の邪神の妻だったのう。今回のセイヴへ第一が出現したのも、ナヘマーがあんたを使って手引きさせたんやな」

『・・・・・・』

「まあええわ、答えんでいい。イグドラムに帰ったら、解呪のエキスパートを呼んで吐かすから覚悟しときや」

『親切なのか、横暴なのか。それにしても、ここは奇妙な土地だ。岩も滝の裏の洞窟も、大地が全て、ラピスラズリのような青さだ』

「ここは、ニルヤカナヤと同じ地層のようやな。おそらく、海底五千メートルの地層が隆起してできた島や」

『ニルヤカナヤに行ったことがあるかね』

「俺は海軍所属だからのう、海洋人国家への王族警護や、海賊に囚われた人魚助けて送り届けたりしたことがあるんよ。あの国の土地や建物もこの大地のように青色で、質感も似とる。水に濡らすと、光る筋が浮かび上がるはずや」

ミトゥコッシーが川の水を手ですくって、乾いた地面に撒くとミトゥコッシーの言う通り湿った青い地面に、光の筋が浮かび上がった。

「ニルヤカナヤが深海にありながら、光り輝く美しい都市を形成しとる理由の一つは、この地層の性質があるからや」

『しかし、この硬い土に、植物がよく根を張れるものだ』

「確かにのう、ここらの地面は固めた粘土のようや。けれど、普通に木が根付いて、水が浸透しているのを見る限り、根を張る隙間も、植物が育つための栄養もあるんやろう。それはさておき、どうしたヨド?」

ヨドゥバシーは身を低くして警戒するように、滝の裏にある洞窟を見ている。

ミトゥコッシーは周囲を見回して、洞窟付近の植物の異様な生え方に気が付いた。

海風に晒され続けたかのように、洞窟側には枝が一本も伸びておらず、洞窟と逆側に傾いた生え方をしている。

やがて獣の咆哮のような低い音が、洞窟の奥から響いたかと思うと、止めていた息を吐き出すように、洞窟から強烈な風が噴き出して来た。

「グウッ」

ミトゥコッシーは、憑りついているクレイの顔が、強酸を浴びたように一瞬で焼け爛れるのを感じ、防護魔法を張って風の来ない場所へと急いで避難した。

風の通る道からそれた場所に落ち着いて、風をやり過ごす。ヨドゥバシーの高等治癒魔法が、クレイの身体を再生し続ける。

クレイの融けた角膜が再生して視力が戻ると、風の影響を受けた様子のないヨドゥバシーを見て安心した。

ヨドゥバシーの周囲には、クレイを含んで白い魔法円が幾重にも重なり、再生魔法が展開し続けている。

「危うく死ぬところやった、クレイが。いやあ、しかし、眼鏡は無事なのに、目をやられたわ。何のための眼鏡なんや」

『視力を補うためだ!ミトゥコッシー殿、貴方もっとこの体に責任を持って行動してもらえないかね。私はあなた方ノディマー家のような化け物とは違って、ごく普通の魔力量のエルフなのだよ』

「いや、第一貴族は普通やないと思うがのう」

『ノディマー家と比べたら、貴族も一般のエルフも誤差程度だ!あなた方の魔力量は異常なのだよ、化け物と言っていい!』

「ヨド、クレイがお前の事を化け物言うてるで、噛みつきや」

『ちょっと待ちたまえ!痛いのは貴方も一緒ではないか!』

「そうやった『待て』やヨド、って遅かったわ」

腕に噛みついたヨドゥバシーを剥がし、再生魔法で塞がっていく穴を見て「結構深めに噛まれとった」と暢気に呟くミトゥコッシーに、クレイがキレ気味に『他人の身体だと思って、適当にしないでくれたまえ!』と喚いた。

「いやあ、すまんのう。これくらい、兄弟ではよくあるじゃれあいの範疇や」

『腕一本持っていかれるところだった!あなた方の普通が、私の身体では適用されない事を覚えておきたまえ!』

「今後は気をつけるわ。でもまあ、さっき折った指の骨も、ヨドの魔法で戻っとるしのう、ヨドが側に居れば、不死身のようなものよ」

『超高等魔法が自動展開し続けていることに、驚きより恐怖が勝るのだがね。それにしても、物騒な島だ、沈殿していた火山性ガスが吹き上がる地形なのだろうか。水を汲むにも命がけではないか』

「火山性ガスが発生する場所は、温度で分るもんや。さっき水を触った時は冷たくて、匂いもない普通の水やった。火山とは別の理由やないかと思う。あの水が飲めるかは、試してみんと分からんのう」

『くれぐれも、この体で試さないでいただきたいね』

「しかし、喉が渇いてきたのう」

日が暮れかかり、薄暗くなった周囲を見渡す。

辺りは曲がりくねった不気味な木の茂る森だ。

蛇行して伸びる幹と、その白く滑らかな樹肌が、まるで身を捩って苦悶する人々に見える。

「こう馴染みのない木々ばかりだと、幹に水を溜め込んどる木を見つけるのは無理そうや」

先ほどの場所から風上に遠ざかるようにして、歩きだす。

木に駆け上っては降りてを繰り返していたヨドゥバシーが、頭上でひと鳴きしてミトゥコッシーを呼ぶ。太い枝の上にいるヨドゥバシーを見上げると、薄っすらと光る丸いものを爪で引っ搔いている。

「ソレは何や?」

木の幹に填め込まれた丸い石に魔力をぶつけると、石が強く光り出した。

「ヨド、降りてこい!」

ヨドゥバシーが木々を伝って跳びながら降りて戻って来ると、石の光を嫌うように近くにいた虫が一斉に飛び去っていく。

『虫除けではないかね』

「この付近に、人がおるかもしれんのう」

ミトゥコッシーは三十秒に一回「水」と呟きながら、ヨドゥバシーを連れて同じような石の填め込まれた木を探しながら、森を歩いた。

やがて石を辿った先に、幅の広い濁った川が現れた。

川の向こう側には、木で出来た高い柵が奥の景色を塞いでいる。

明らかな人工物にテンションが上がる一方で、川の水にはため息が出た。

『私の鑑定眼では、煮沸しても疫病感染が免れないと出ている。くれぐれも飲まないように』

「俺としては、喉の渇きさえ収まれば、この体が疫病にかかろうが構わんがのう」

『鬼畜としか言いようがない!』

「ほう、あんたが俺を鬼畜と言うんか」とクレイの顔でミトゥコッシーが凄絶に嗤う。

「ソゴゥにもしものことがあったら、一センチ刻みにこの体をバラすからのう」

口先だけでない事が、背筋を凍らせるような、身の内から這い上がって来る悪意で分る。

『・・・・・・』

「まあええ、とりあえずあの柵の向こうへ行ってみるか」

川向こうに跳ね橋が吊り上げられているのを見つけ、ミトゥコッシーが叫ぶ。

「おおーい、橋を下ろしてくれい!」

反応を待つが、音沙汰はない。

橋を吊っている左右の柱には、木々に填め込まれていたのと同じ石が薄く発光しており、こちら側の橋が渡る場所にある柱には、弓矢が用意されている。

「もしかして、これか?」

矢じりに魔力を帯びた矢を手に取って弓を構え、対岸の柱の石に狙いを定めた。エルフにとって弓術は親から子へと教えられるものの一つであり、ミトゥコッシー達が育った園でも弓を引くのは日課であった。そしてミトゥコッシーは、狙った的を外したことはない。

放った矢は対岸の小さな石の中央に当たり、石が炸裂するように光り輝くと、橋を吊るす紐が緩んで橋桁が降りてくる。

弓をもとの場所におさめ、下りて来た橋を渡って対岸へ向かっていると、橋の先にある門扉が開かれ、人が姿を現した。

『人・・・・・・なのだろうか?』

灯の下に現れた二人の男からは、生気が感じられなかった。

まるで、屍が動いているような、実際近づいて詳細が見て取れる位置まで来ると、彼らの皮膚から透ける血管は黒っぽく、艶のない皮膚は灰色に近かった。頭部からは獣の耳の他に、いくつもの角の様なコブがある。

『食人鬼か、屍人族のようだな。しかし、耳や尻尾からすると獣人の立屍症のようでもあるな。服装は清潔で、装飾や意匠から見るに、それなりに文明を感じられる』

ミトゥコッシーはクレイの考察を聞きながら、二人の男の元まで行くと話しかけた。

「夜分すまんが、道に迷うてのう。水と寝床を分けてもらえんか?」

男たちは無言でこちらを見ている。その顔に表情はない。

『言葉が通じていないのではないかね』

ミトゥコッシーは試しに、ニルヤカナヤで使われている海洋人の公用語で話しかけた。地層が一緒だからという思い付きだったが、これには男たちの反応があった。

男の一人が、頭部にある獣の耳を動かして、手にしている先がカギ状に曲がった槍のような物をミトゥコッシーの方に突き出した。

「ここは、健康な者の来る場所ではない。死にゆくものが静かに過ごす場所だ」

男たちの服装は、宗教的な物に見えなくもない。

灰色の肌に施された白や青のペイントは、神官のような趣もある。

「あんた達は、獣人族か?」

「我々は人間だ。誕生時に獣の霊を下ろして、獣と一体化して生きていく。降りてきた獣により、個々の形状が変わる。この場は、病魔に冒された者達ばかりが集められている。珍しいエルフの訪問を歓迎できなくて悪いが、この中に案内することは出来ない。そちらの罹患者でない同胞も連れて帰ってもらいたい」と、ヨドゥバシーを見て、狐のような耳をした男が告げた。

「そこをなんとか、せめて明るくなるまで、ここに居させてもらえんかのう」

男たちと交渉するミトゥコッシーの横で、ヨドゥバシーが耳を立てて、門の奥を伺っている。大人しくお座りをしていたヨドゥバシーだが、突然走り出すと、立ち塞がる二人の男の間をすり抜けて、門の中に駆け抜けていった。

「あ、ヨド!」

男たちが慌て、門の中に走って行ったヨドゥバシーを追いかける後ろを、ミトゥコッシーもどさくさに紛れて追いかける。

柵の中には、紺色の土と布で出来た円形の移動式テントのような住居が点在し、主道から住居に枝のような道が繋がっている。道には上へ漏れないように笠のついた明かりが道を照らしていて、集落全体が薄ぼんやりと明るくなっていた。その突き当りには、ひと際大きな建物があり、ヨドゥバシーはそこへまっしぐらに走って行く。

走るヨドゥバシーとそれを追う男たちを、集落の人達が道に立ち止まって傍観している。彼らは皆痩せていて弱々しく、枯れ木のようだった。

道は掃き清められ無駄な物が何もなく、生活の臭いもない。静謐で無機質なこの柵の中の世界は、まるで大きな棺桶の中のようだった。

見ると、小さな子供の姿まである。ここに居る者は、老若男女問わず、病に冒された者達なのだと分かる。

ヨドゥバシーを呼び止めたかったが、大きな声が彼らの害となってはいけないと、ミトゥコッシーは呼びかけるのをやめた。

ヨドゥバシーは奥の建物までやって来ると、入り口の布をくぐり抜けて中へと踏み込んだ。建物の内部は、いくつかの柱があるだけの広い空間が広がり、床には多くの人々がうめき声を上げて横たわっていた。

助けて・・・・・・。

ヨドゥバシーは犬耳を頻りに動かし、声の元を探る。

小さな命が今にも尽きようとしていた。

門の前に居た男たちと似た神官のような服を纏った女性たちが、切れ切れに息を吐く少女の枕元に集まっていた。

飛び込んできた侵入者に、何事かと振り返る彼女たちの元へ駆け寄って、ヨドゥバシーはグルルルルと喉を鳴らす。

ヨドゥバシーを中心に、光が一閃し建物内へ広がった。

広い建物の床一面に高等治癒魔法を展開する魔法円が写し出される。

『足りない』

二人の男と、その後から建物に辿り着いたミトゥコッシーの耳に、ヨドゥバシーの声が聞こえた。

ヨドゥバシーは手で自分の髪を掴んで低く唸りながら、自身の制御を取り戻すように、苦悶の表情を浮かべて全身から汗を吹き出している。

「ヨド!」

「兄、さん・・・・・・貴族書を」

ミトゥコッシーは着物のような構造の服を着たヨドゥバシーの懐を漁って、貴族書を取り出す。

「これか」

貴族書をヨドゥバシーの目の前に出すと、本は意思を持ったようにひとりでに開いてページが捲り上がり、やがて白い獣の描かれたページで止まった。

ミトゥコッシーが思わず、そのページに記された神獣の名を意図せず呟くと、呼応するようにヨドゥバシーの身体から爆発的な白い光が放出された。

ヨドゥバシーの深い紫色の瞳が奥行きを持ったように透き通り、竜に似た角が生えて、身体中を白い絹糸のような魔力が波打ち始める。その様は、あらゆる神獣の頂にある、まさに「麒麟」の様相であった。

全ての命に寄り添い、一寸の虫さえ避けて歩く心優しい神獣。

ヨドゥバシーが咆哮を上げると、展開途中だった魔法円が完成し、そこから治癒魔法が拡散して命の救済へと向かった。

ミトゥコッシー達を止めようとしていた、二人の男は理解が追い付かず静止し、傍観していた女性たちもただ眩しい光に目を細める。この場に満ちていた、病人たちのうめき声が、やがて消えていったことに、彼らは、みな命を終えてしまったのだと落胆した。

だが、そうではない事を、起き上がって来た病人たちを目にして直ぐに知ることになる。

「信じられない・・・・・・」

もう二度と自力で起き上がることは不可能と思われていた人々の顔に、生気が戻っている。そればかりか、症状が進行していなかっただけで、同じく生気を失っていた自分たちの手が、健康な色を取り戻しているのを見て、遅れて来た歓喜に全身が震えた。

「エルフが、神獣様を連れてこられた!」

ヨドゥバシーが首をブルルと振ると、角が消え、瞳の色もいつもの深い紫へと戻った。

『これが十三領に託された貴族書なのかね、まさか、麒麟を顕現させるとは恐れ入る』

ヨドゥバシーはいまだ四足歩行ながら、人のような動きも取り戻しつつあった。

「あの、神獣様方にお礼を言わせてください」と、少女に付き添っていた女性が、目の端に涙を溜めて感極まった声で言う。

周囲の者達が片膝を付いて腕を組み、頭を下げる。

「いや、勝手に上がり込んで済まんかった。それで、相談なんだが、俺たちに水と寝床を分けてもらえんかのう」

「もちろんでございます!粗末ではございますが、食事もご用意いたします」

「助かるわ」

「いえ、あなた方は我々の恩人でございます」

「神獣様がこの場所にお出で下さるとは」

門のところから追ってきた男たちが、こちらも先ほどまでの無表情が嘘のように、喜びを浮かべた明るい表情を見せた。

頭部にあったコブも消え、人間というより健康な獣人の見た目を取り戻していた。

少女が起き上がり、ヨドゥバシーの手を掴んで「ありがとう」と微笑む。

ヨドゥバシーが神獣などではなく獣風邪に罹患しただけのただのエルフだと伝えるのもややこしくなると思い、ミトゥコッシーはこの場では黙っておくことにした。

「まずは食堂へご案内いたします、どうぞこちらへ」

集落の人達が利用する食堂へと連れられ、診療所となっていた建物を後にする。

移動途中井戸を見つけて、クレイに鑑定させると、川の水ほどではないが、やはり危険な水に変わりないことが分かった。

『飲む前に、煮沸の他、浄化できるすべての方法を試した方が良いだろう。口にするのはそれからだ。それにしても、何故井戸水まで汚染されているのかね』

「水を調べたら、病気のことが分かるか?」

『私の研究室に持ち込めば、何か分かるかもしれんが』

「まずは、ソゴゥを探さんとのう。ここの座標は、あんたが本来行こうとしていた場所の一万メートル下に位置する人界や、一旦イグドラムに戻って水の解析が済んだら、転移魔術でここへ戻ってくりゃあいい」

『・・・・・・』

「転移魔術の解析が開始されれば、本来の行先はいずれ調べがつく。あんたが罰に処される前に、ここの状況改善に役立ってもらうから、そのつもりでおれよ」

『我々には、何の関係もない人達だが』

先を歩く獣の魂を宿した人間達を見て、クレイが言う。

「一宿一飯の恩をいただく予定やからのう、関係ないことないわ」

緩やかな坂を下った先は下草が生い茂り、鈴の音に似た虫の声が聞こえる。虫の音のする場所が淡く発光して、星のような瞬きを見せていた。

「あの光には近付かないでください」と忠告を受ける。

ミトゥコッシーは空を見上げ、星の位置を確認する。先ほど推測した座標とほぼ一致した場所に、自分たちがいることが確認できた。

ニッチにこの場所を知らせとくか。

ミトゥコッシーは双子のニトゥリーに意思を飛ばそうと試みるも、思うようにいかず、数度試して、失敗の原因を考えた。

幽体離脱しているときも、意思を飛ばすことが出来るのに何でや?

距離が離れ過ぎとるせいか?あるいは、自分の身体からの距離、時間?

憑依に魔力を裂き過ぎたからか?

でもまあイセ兄さんとニッチとヨルが、何が何でもここを見つけ出してくれるやろ。

ミトゥコッシーは思念伝達を諦めた。

食堂に入ると、案内されたテーブルの正面には壁が無く、草原に虫の光が明滅する幻想的な風景が見え、外からの風が心地よい。

期待していなかった食事も、決して悪いものではなかった。野菜中心ではあるものの、焼いた果実が肉のように塩気と歯ごたえを持っていて美味しく、肉を食べるタイプの美食なエルフに満足感を十分与えた。

「虫料理が出んで、よかったわ」

ヨドゥバシーが同意するようにひと吠えする。

「ところで今日、ここに俺たちと同じように尋ねてくる者はおらんかったかのう?」

「いえ、おりませんでしたが」と、門のところに居た男はフェネックとジャッカルと呼ばれ、より耳の大きなフェネックという方が随行しており、ミトゥコッシーの質問に答えた。

「俺たちの仲間が一人行方不明でのう、どう探したものか困っとるんよ。ここ以外で、人がおるところはないんか?」

「いま人がいるところは、山を下りて北に向かった先の岬にある、コリカンチヤという街だけです。昔は、島の平地に人が住んでいない所はないほど人口があったのですが、十分の一ほどに減ってしまいました」

「疫病のせいでか?」

「それもありますが、人口が激減した原因は、海から来る化け物に因るものです」

「化け物?」

「百年おきに現れる魔獣です。最初の魔獣がこの島に上陸したのが五百年ほど前です、その時、多くの街と人々が犠牲となりました。この島の北側の沖に小さな黒い島が出現すると、海から毎日のように魔獣がやってきて、やがて沖の島が消えると襲来が止みます」

「島が出現するんか?」

「はい、何もなかった海域に、突然特徴的な三角の山を持つ小島が、海中から浮かび上がってくるのです」

ミトゥコッシーは想像もつかない現象に、ただ「ほう」と声を出した。

「島が出現している期間は、魔獣を島に上陸させないように、魔獣がやって来る方角に防壁を張り、コリカンチヤに暮らす者達が総出で応戦して食い止めます。そのため、病で戦えない者は、この場所へ移り住むようになったのです」

「川の水は汚染されとるようや、もっといい場所はなかったんか?」

「この島で唯一、綺麗な水があるのがこの先の滝なのです。しかし滝の奥の洞窟からは有毒ガスが噴出するので、少し離れたこの場所に落ち着きました」

「ここの井戸の水を、飲んでおるんやないのか?」

「いいえ、飲み水は我々のような症状の軽い者が、滝まで行って汲んできており、井戸水は清掃や洗濯、体を清めるために利用しております」

「そうやったんか、なら安心したわ」

ミトゥコッシーは、今にもテーブルに頭を打ち付けそうになりながら船をこいでいるヨドゥバシーの前から皿を退かし、手にしたコップの水を眺めた。

「ところでのう、何で、この島の水は汚染されとるんや?」

ミトゥコッシーがフェネックに問う。

「水が汚染され始めたのは、この土地がニルヤカナヤから切り離されて浮上し、島となって、数百年が経った頃、上空から飛来した星が、島を穿って大穴を開けたあたりからのようです。その頃から、生まれて来る子の身体が不自由だったり、短命だったりという事が多発したと、そう伝えられています」

「えっ、ニルヤカナヤ人だったんか、人間なのに?」

「はい、我々の先祖は海底王国で暮らしていたそうです。ニルヤカナヤには、我々のような特殊な交霊術を有し海洋生物と一体化した人間と、海洋人が暮らしていましたが、双方の間で戦争となり、時の王がニルヤカナヤの一部を海底から隆起させて島を作り、海上で暮らすことのできる人間をこの島へ移住させたと言います。もう何千年も昔の話ですので、伝説とも御伽噺ともつかないのですが」

「いや、分かるわ。あんたらの話す言葉は、ニルヤカナヤの公用語だしのう。それにこの土地も、まんまニルヤカナヤの地層や」

「そうなんですか?我々は海洋人に会ったことすらなく、ましてや海底にあるニルヤカナヤへ行ったことがある者は、この島には居りませんので」

テーブルに何かが打ち付けられる音がして、見ると限界が来たヨドゥバシーがテーブルに頭をぶつけたまま突っ伏して眠っていた。

「お泊り頂く棟へご案内しますか?」

「いや、もう少し話を聞かせてくれんかのう。あんたの話だと、疫病が流行り出したのはもう何千年も昔、島が出来て数百年後やな」

「はい、原因は、島の地下にある飛来した物体であることは分かっているのですが、近寄ることが出来ないのです。クレーター付近は毒の風が生物を寄せ付けず、周囲に柵や壁を作ってもその影響を封じ込めることは出来ません。先祖はニルヤカナヤと決別してから、海洋生物と一体化する術を封印していましたが、毒の影響下にある赤子に、獣の霊を下すことを試したところ、生来の形状に近い体と、寿命を取り戻すことができたのです。しかし、完全に影響を取り去ることは出来ず、ここの者達のように病を発症して衰弱していく者もおります。下した獣の力が弱かったせいだと、我々はそう考えていますが、交霊は一生に一度しか出来ないため、やり直しはきかないのです」

『数千年もの間、毒をまき散らす物体とは一体何なのだ』

ミトゥコッシーは「わからん」と首を振り、「それで」とフェネックに向き直る。

「魔獣の方は、五百年前から出現して、こっちの方が、被害が甚大だと言うんやな?」

「はい、今日も現れたようです。災厄の島が沖に現れたのは三日前です。通例ですと、魔獣の襲来は十日間ほど続きますので、あと七日耐えないとなりません」

「もしかして、さっき島が揺れたのは、魔獣の仕業なんか?」

「そうです。非常に巨大で、貪欲な食欲をもつ化け物です。魔獣の形状はまちまちですが、海洋生物を巨大化させたような姿から、ニルヤカナヤが我々を滅ぼすために送りつけて来ているのだと考えられております」

「何のためにや?」

「それは、分かりませんが」

「少なくとも、俺の知る海洋人は、敵を魔獣に襲わせるような姑息な真似はせん。自ら武器を持って戦う誇り高い民族や。それに、理由なく人間を襲う意味も解らんしのう。ニルヤカナヤの王は、戦争を嫌ったからこそ、ニルヤカナヤの土地を分断し浮上させて島にしたんやろ?そうまでして守ったのは、海洋人ではなく、人間だったんやないのか?」

「それは・・・・・・」

「それにのう、ニルヤカナヤはこの付近にはない。さっき星の位置を見て、ここの場所がだいたいわかった。ニルヤカナヤはもっとずっと西にある。島が動いたんか、ニルヤカナヤが移動したのかは分からんがのう」

「そんな、ではあの化け物は一体どこから・・・・・・」

「さあ、時空に亀裂が発生しとるのか、召喚されたのか分からんがのう。それを、毎回島民だけで持ち堪えておったんか」

「はい、しかし今回は、十年前に突如現れた姫巫女様がおられるので、安心しております。姫巫女様の強力な防御魔法が街を守っているので、今回はそれほど人口を減らさずにすむでしょう」

「島に突如現れたんか」

「姫巫女様は獣を憑けない人間の姿のまま、森の中で倒れているのを発見されました。出自の分からない者だったので、突如現れたという表現をいたしました。また、姫巫女様はこの島の言葉を話せませんでしたが、保護されたのち言葉や魔術を理解していくにつれ、その類稀なる才覚が顕わになりました。いまや防衛の要である神殿の中心人物です。その姫巫女様と、神殿の兵士たちが主軸となり化け物を退けているのです」

「そうか、しかし魔獣に疫病、どちらもこのままにしておくことはできんのう。クレイ、第一(第一の邪神)を召喚して、魔獣にぶつけることはできんのか?」

『島そのものが無くなってしまうでしょうな』

「あんたは、それをセイヴに召喚しよったがのう」

『・・・・・・』

「まあええ、冗談や」

「何か?」

「いや、こっちの話や。おかげでこの島の事がわかったわ。ところでのう、さっきの高等治癒魔法では、この島の抱える根本的な疫病問題の解決にはなっとらん。済まんのう」

「やはり、原因を取り除かない限り、同じ症状に再びなる可能性があるのですね」

「そうや、しかし、もしかしたらだけどのう、今行方不明となっとる方のエルフが持つ知識の力があれば、この問題に対処する方法を探し出すことが出来るかもしれん」

フェネックは分かりやすく落ち込んで垂れていた耳を、ピンと立ててミトゥコッシーを見た。

「明日、コリカンチヤへ行ってみるわ、とにかく行方不明のソゴゥを見つけ出さんと」

「我々も協力します!」

フリフリ揺れる尻尾を見ながら、ミトゥコッシーは「おう、頼むわ」と応えた。


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