3.人に至るための病
朝晩とすっかり冷え込むようになった、十三領の秋。夏の間に作った羽毛布団の恩恵を、満天星は噛みしめる。
満天星は、成長期を過ぎた成人した年齢だったが、ここへ来て背が二十センチ近く伸び、毎晩膝の痛みに苦しんでいた。自分だけではなく、他の成人を過ぎた人間達も皆、背が伸びていた。また、骨と皮だけだった体は、しなやかな筋肉をつけ活動的になった。
最初はゆっくりとしか歩けなかった者も、今では風のように山を駆け抜けるようになり、疲れにくい丈夫な肉体を手に入れていた。
この健康な体が作られたのは、エルフの方々が教えてくれる栄養バランスの良い食事や、生活習慣、毎日の運動のお陰である。だが、人間達の急激な成長は、土地神様となられた金剛様の加護に因るものだと、何故が渋い顔で領主の父君であるカデン様が仰っていた。
満天星は乾燥した肌の痒みに、足首を掻いてしまい悶絶した。
満天星の体には、あちこちに目がある。うっかり掻いた場所に、目があったのだ。この目に視力はないが、痛覚はある。
極東の島国の国主であるアサ様の元に、イグドラシルの使者であるソゴゥ様を案内したのが自分だった。
その際ソゴゥ様の視線は、自分の足元の目を捉えていたが、それについて何も尋ねてこられなかった。
他国の人間は、自分たちのことを化け物と呼んだ。
だが、十三領のエルフの方々は、自分たちのこの姿は個性であり、人であることに何ら変わりなく、人である尊厳を持って生きて欲しいと言う。そして、生き物である尊さ、生まれて来た奇跡は、この空に輝く宇宙の星と同等に神秘であり大切なのだと。
ソゴゥ様は自分のことを、広目天という神様のようだと仰った。
その神様の沢山の目は沢山のものを見て、いち早く困った者を見つけ、救おうとしているのだそうだ。だから、満天星が守る西棟、白虎館は安心だと微笑まれた。
これらの目に視力はないが、二つの目で、ソゴゥ様の期待に応えることが、今の自分の誇りである。自分は昔、この目をくり抜いて潰してしまいたいと考えていた。今となっては、そうしなくて本当によかったと思った。
今日は湖に近い青龍館へ、昨日までに取った卵を届ける日だ。
馬の尾を持ち、足の指が一つに纏まって、蹄のようになった体を持つ同室の馬酔木を起し、不在時の守りをお願いする。
馬酔木は島にいた頃から特に大きな体を持っていたが、ここへ来て庭石菖と並ぶ高身長の巨体となった。
また、偶に出没する大鹿と素手でやり合えるのではと思うほどの怪力でもあった。
「気を付けて行ってこい、護衛もちゃんと連れていくんだ、一人で何もかもしてはならない」
「ああ、分かっているよ」
「分かっているならいい、お前は一人で抱え込みがちだからな。ソゴゥ様に褒められたいのだな?」
「それは・・・・・・それもあるけれど」
「なら、なおさら一人で何でもしようとするな。俺たちの仕事は、皆の仕事量が均等になるようにすること。効率が図れるように、適任者に振り分けることだ」
「それと好きな事を伸ばしてやる事だな。心得ている」
「ならいい。お前が青龍館に行きたがるのは、ジキタリス様が常駐されているからでもあるのだろうしな」
「グゥ」と満天星は喉を鳴らし、着替えを済ませて馬酔木に「行ってくる」と告げた。
子供達は四人部屋、大人たちは二人部屋となっている。
また、夫婦や幼い子がいる親子の部屋は低層階に、体力のある若者は上層階が居住階となっていた。
馬酔木は満天星が当番の数人を連れて、馬車を引いて湖方面の道を行くのを、部屋から見届けてから、自分も起き出して大鳥の小屋の戸を開けに掛かる。
卵をとる大鳥たちを、夜露や狐や蛇から守るために、大きな木の小屋の中に集め、朝になると野に放つ。大鳥は賢い鳥で、日が暮れる頃になると、小屋に自ら集まって来て眠る。
大鳥が野に産み付けている卵を取って頂くが、肉は食べない。肉は狩猟に出かけて、野鳥をとる。卵をくれる大鳥を殺すのが忍びないからと、ストレスを与えると大鳥が卵を産まなくなるからだった。大鳥としては、人に自らの身を守らせ、その代償に無精卵を与えていると言ったところだろう。有精卵は、木の高い所に巣を作り、人や害獣に見つからないように工夫されている。
また、大鳥からは羽毛もとれるし、フンが畑の肥料になる。
西棟の畜産は、この大鳥が主となっていた。
大鳥は基本的には鳴かないが、狐や蛇を見掛けるとグケケケーンと大きな警戒音を発する。また、大鳥同士で喧嘩しているときなども、同じような大きな声を上げる。
馬酔木は、このグケケケーンっと鳴く声を聞いて、大鳥が喧嘩しているのかと思い、小屋の中に踏み入れて、喧嘩している鳥を引き剥がそうと探す。
大鳥は、跳躍はするが、基本的には空を飛ばない鳥で、体高が一メートルを超す大きな鳥だ。子供達では、大鳥を捕まえることは難しい。
早朝の光が小屋の中に差し込んで、小屋の中が見渡せるが、大鳥達はすでに戸を開けた途端、野に元気よく走って行ったため、残っている鳥はいなかった。
一体どこから声がしたのか周囲を探していると、小屋の側で一羽の大鳥に何かが覆い被さり、その首元に噛みついていた。
馬酔木は大鳥を助けようと走り、そして大鳥に噛みついているものの正体を見て愕然とした。彼女は、西棟に住んでいる子供で、紫御殿だった。
馬酔木は、紫御殿と大鳥を引き剥がす。紫御殿は、フーフーと興奮気味に犬歯をカチカチと鳴らし、目がまだ大鳥を狙っている。
「紫御殿、一体何をしている!」
小さな少女の体を押さえ、その目を覗き込む。
グウウウウッと獣が発するような声を出していた紫御殿は、目をパチパチと瞬たかせてから、フッと力を抜いた。
「あれ?」
紫御殿が、辺りを見回す。
遠くから「紫ちゃーん」と声が三つ近づいて来る。
同室の露草と田平子と忍冬だ。
「紫ちゃん、一体どうしちゃったの?」
「寝間着のまま、寒いのに!」
「しかも裸足!あれ、馬酔木様、紫ちゃん抱っこしている!」
三人が、地面に膝を付いて紫御殿を抱えている馬酔木の腕の中によじ登ってくる。
「紫ちゃんだけずるい、私も抱っこ」
子猫のように、するすると腕の中に潜り込んで来るが、流石に四人は定員オーバーだ。
この同室の四人は、ネコ科の動物の特徴をそれぞれに持っているため、性格もそれに引っ張られているところがあるのかもしれない。先ほど、紫御殿が大鳥を襲ったのも、そうした遺伝子操作実験の弊害なのだろうと、馬酔木は思い、今回の出来事を誰にも報告しないでいた。だがこの出来事が、後に十三領の人間全員を襲う災いの兆しだったのだ。
目を覚ますと、枕が湿るくらい汗をかいていた。
昨日は、目が覚めると何故か鳥小屋の近くにいて、周りに馬酔木様や皆がいた。
今朝はちゃんと、自分のお部屋だ。お部屋は明るくて、もう朝だと思ったけど、まだ自分以外に起きている子はいなかった。
おトイレに行きたくて、二段ベッドから飛び降りると、いつもより大きな音がして、上手く着地できなかった。それに、立ち上がると、目が回っていて、まっすぐ歩けない。
すごく胸が苦しい、吐き気がする。
苦しくて、助けてほしくて露ちゃんたちを呼ぼうと思ったけど、口を開こうとすると吐いてしまいそうで、手摺や壁にぶつかりながらもトイレへと急いだ。
トイレまで我慢できずに吐いてしまい、床を汚してしまったことが申し訳なくて、恥ずかしくて、苦しくて、色々いっぺんに考えて、ぐるぐるして、泣きながら戻した。
辛い、苦しい、怖い。
「紫ちゃん、どうしたの、具合悪いの?真っ暗なのに、明かりも点けないで」
誰かがトイレの灯を付けると、びっくりするくらい眩しくて目を開けられなくなった。
「露ちゃん、私、誰か大人の人を呼んで来る!」
「私は床を拭いておくね」
同じ部屋の露ちゃんと、タビちゃん、忍ちゃんの声がする。皆を起してしまったみたいだ。
露ちゃんが、私の背中を擦ってくれる。
その温かい感触で、怖い気持ちはなくなって、そして辛いも苦しいも薄れていった。
「大丈夫だよ紫ちゃん、大丈夫だよ」
大人の人達がやって来て、熱と脱水症状があるから水を飲むように言われ、吐くのが落ち着いてから水を沢山飲んだ。
一息ついて、目を開けると、周りが凄く明るくて、どうして明るいのに灯を点けるのだろうと思った。
「わういい(眩しい)」
声が上手く出せなかった。
大人の人が、顔を覗き込んできて、頭を探るように触ってきて変な感じがした。
くすぐったくて身を捩る。
「これは・・・・・・こんな離れた場所でも、この病は起こるのか」
子供たちの様子がおかしい。
十三領の人間の生活をサポートしているジキタリスは、同じく、彼らの体調管理に厳しい目を向けていたエルフのカピタツムと共に、明らかに熱っぽい数人の子供たちを発見した。
高原にある十三領は冬を前に寒さが厳しくなってきており、そのせいか頬に赤みがさす子供たちが多かったが、目はしっかりとしていた。
しかし今日の子供たちの様子は、目が潤み、ぼんやりとした表情をしている。
熱があるに違いない。
ジキタリスは子供を医務室へ連れて行き、ベッドに寝かせた。
その後も、山道の入口に集まって来る子供達の多くが同じ様子で、医務室のベッドだけでは足らず、休憩室としても使っている広い講堂に寝具を並べで子供たちを寝かせ、温度と湿度を調整して様子を見ることにした。
領民は、四つの棟に別れて一棟に三千人弱が暮らしており、西棟はピリカと数人のエルフが担当し、棟の管理は満天星と馬酔木が行っている。
全棟をジキタリスが管理しているが、普段は東棟の青龍館を担当している。
そして北棟、南棟をそれぞれ、領主のノディマー家に仕えるエルフが数名ずつ担当し、人間の管理者が二名ずついて、更に役割分担された人間で管理をしていた。
ジキタリスは増え続ける罹患者に、高等治癒魔法を使えるヨドゥバシーを呼んできてもらうよう、東棟管理をしているエルフのカピタツムに頼んだ。
ヨドゥバシーの日課は、十三領の人間が暮らす四つの居住棟を、それぞれ見て回ることから始まる。
この日はまず、北棟の玄武館に馬で向かい、馬を厩に繋ぐと、朝の駆けっこを行っている山門へ顔を出そうと徒歩で向かう。一人建物の裏の道を歩いていると、獣が吠えるような音を聞いた。
この辺りは竹が茂っており、音源を探るべく周囲の竹林を見回す。
適度に竹が間引かれて、光が差し込むように整備された明るい竹林には、生き物の気配はなく、特に変わった様子もない。
再び吠える音がする。竹林からではなく、居住棟の陰より音が近づいて来ているようだ。
ヨドゥバシーが振り返ると、雄叫びを上げて突進してくるものがあった。その姿を、ヨドゥバシーは信じられない思いで凝視した。
茶色い毛で覆われた熊の様な姿だが、それは紛れもなく十三領の人間だった。
大きく開けた顎から涎を垂らして、こちらへと向かってくる。
ヨドゥバシーは、突進してきた熊の様な姿となった人間と掴みあう。
「ガウウウッ、ヨドゥバシーサマ、オハヨウ、ゴザイマス!」
興奮しているようだが、彼はこちらを襲おうとしてきたわけでも、食べようしてきたわけでもなく、ヨドゥバシーを見つけて喜んで駆け寄り、挨拶がしたかったようだ。
ヨドゥバシーは腕を放し、その顔を見て、彼が熊笹という少年であることに気づいた。
熊笹は嬉しそうに、背中から勢いをつけて頭を下げ、ビヨンビヨンとお辞儀を繰り返す。
熊笹の状態をどう判断してよいのか分からずにいる所へ、東棟の管理を任されているエルフのカピタツムがヨドゥバシーを呼んだ。
「ヨドゥバシー様、東棟へ来ていただけますか、子供たちが皆熱を出しておりまして」
「それは大変だ、直ぐに行こう。ところで、彼の状態なんだけど、何か知っている?」と、ヨドゥバシーはカピタツムに、熊の様な姿となった十三領民の熊笹を指して尋ねる。
「あれ、熊だと思っていました。彼は、遺伝子操作により後天的に、獣化が進んでしまったのでしょうか?」
熊だと思っていたのに、ノーリアクションってどういうことだ?
ヨドゥバシーは、彼女の感性に疑問を抱きつつ、恐ろしい見解を聞いて全身の毛が逆立った。
カピタツムもピリカも、十三領の山奥に祖父ヤナ・ノディマーが開いた総本山がある武道を習得した者達で、護身術などを人間に教えている。彼女たちはいつも静かに微笑んでおり、感情をあまり見せることがない。物静かで、礼儀正しい。
この総本山からノディマー家に派遣されてくるエルフは、実は高い競争率を勝ち抜いた猛者で、まだまだノディマー家に直に仕えたいと熱望する者が多く控えている。
十三領で一万人の人間を受け入れた際、その手伝いとして、総本山から雇われたエルフ達は、歓喜に打ち震えたのだと言う。
「ひとまず熊笹を、北棟の管理者に預けてから行こう」
そして、ヨドゥバシーは、北棟が既に思いもよらない事態となっていることを、この時知るのだった。
ソゴゥは図書館の業務を終え、休前日ともあり久しぶりに十三領の実家に帰省していた。
この時期になると日が早く沈むため、図書館の閉館時間も早い。
夕飯を実家で食べると伝えていたため、ヒャッカが和食を用意してくれていた。
ご飯、味噌汁、白和え、里芋の衣かつぎ、干物が並ぶ食卓には、ソゴゥの他に、ヒャッカとカデンとヨルがいる。
以前からヒャッカ達は十三領で稲作を行っていたが、領民が増えたことで本格的に水田を増やして、今秋は豊作となった。味噌も試行錯誤して、塩加減と旨味が丁度良いものが出来ている。豆腐は失敗したため、白和えとなったようだ。
「すごいよ母さん、懐かしい味がする。醤油とかはあったりする?」
「味噌はこっちにも似た調味料があったから、応用して作れたんだけど、醤油がいまいち作り方が分からなくて」
「魚醤はあるのに、醬油はないんだね。でも俺、リシチに色々なスパイスを加えて作った、この『ほり〇し』みたいな万能調味料好きだよ、ご飯にかけるとフリカケにもなる」
ソゴゥは瓶に入った、粉状の調味料を干物に掛ける。
ヨルも気に入ったようで、色々なものに掛けている。
「このリシチブレンドスパイス、もう少し味を調整してから、大量生産して売り出そうと思っているのよ」
「いいね、売れると思うよ」
「なら、俺は営業を頑張るとしよう」とカデン。
「ああ、うん」と、ソゴゥとヒャッカが微苦笑を浮かべる。
「押し売りにならないようにね」
「脅迫と取られないようにね」
「いや、俺だって営業スマイルくらいできるからな」
玄関から「ただいま」の声が響き、青い顔をしたヨドゥバシーが食堂へやって来た。
「お疲れ様ヨド君、何かあったの?」
「ああ、母さん、大変なんだ、四棟に妙な現象が起きていて、病気だとは思うんだけれど、俺の治癒魔法も、貴族書の魔法もきかないんだ」
「どんな症状なんだ?」とソゴゥが尋ねる。
「ソゴゥ、帰っていたのか。丁度よかった、調べて欲しいことがあるんだ」
「いいよ、でもその前にちゃんとご飯を食べたほうがいい、顔色が悪いぞ」
ヨドゥバシーがソゴゥの隣の席に着くと、ヒャッカがご飯を出した。
今日はもう屋敷の使用人は上がらせていた。
ソゴゥはお茶を飲みながら、ヨドゥバシーの話を聞いて、ガイドに検索を掛けた。
「その症状は、人間特有の伝染病のようだ」
「エルフには感染しないのか?」
「この本には、人間だけが罹る病気と書かれている。また、主に子供の頃に罹る病気だそうだよ。通常、発症から二三日で完治し、一度感染すると、二度は罹らないらしい」
「命にかかわるものではないんだな?」
「高熱からの脱水症状や、意識錯誤による行動での怪我を避ける様にとのことだ。重篤化すると、変形や意識混濁が進むけれど、命を落とすほどではないようだ」
「それならよかった」
ヨドゥバシーはほっとして、肩から息を吐き出した。
「今日見て回ったんだけどな、四棟全てに広まっていて、ほぼ全員が発症していた。発熱の後、獣化が起こって身体が変形している。だけど、意識はあるし、言葉も通じていた。ただ知性の退行か、舌構造や牙の変化のせいか、話しにくそうにはしていた」
「何か俺にも手伝えることはないか?看病にエルフの人手がいるだろ」
「ありがとう、ソゴゥ」
「我も手伝おう」
「ありがとうなヨル」
夕食後、ソゴゥとヨルは、ノディマー家の屋敷でそれぞれに割り当てられた自分達の部屋へ行き、就寝の準備をする。
そろそろベッドに入ろうかと思っているところで、部屋のドアがノックされた。
開けると、ヨドゥバシーが肌掛けを持って寝間着で立っていた。
ソゴゥは無言でドアを閉める。
「ちょ、閉めるなって」
「ふざけんなよ、もう一緒には寝ないからな、いい大人が何してんだ」
「だから、俺らまだ幼年期だって」
「エルフの幼年期は、イコール子供ではないからな?」
エルフは二十五までが幼年期、五十までが少年期、五十で成人し、その後、百までが青年期、百以降が成熟期、二百を超えると平常期、三百を超えると老成期となる。
ソゴゥの抗議を聞かず、枕と肌掛けを部屋から持ってきたヨドゥバシーが、ずかずかと部屋に入りベッドに寝そべる。
ソゴゥの枕を端に寄せ、自分の枕を置いて頭を乗せる。
「最近どうだ、困ったことなないかぁ、お兄ちゃん、話を聞くぞ~」とヨドゥバシー。
ソゴゥはヨドゥバシーの枕元に立って、ヨドゥバシーを見下ろした。
「おい、冗談だよな」
ヨドゥバシーは、もう寝息をたてている。
「話しかけておいて、三秒もかからず寝やがった」
まったく起きる様子のないヨドゥバシーに若干の恐怖を覚えソゴゥは両腕を擦り、ただ邪魔な185㎝が転がっているだけのベッドを見下ろした。
夜中、背中に膝蹴りをくらいソゴゥは目を覚ました。
「おい、いてぇな、庭に放り出すぞ」
覚醒しきらずに、ソゴゥはヨドゥバシーにもごもごと文句を言う。
ドスンとバランスを崩したヨドゥバシーが倒れ込んできて、ソゴゥは片腕でヨドゥバシーの体を剥して、向こう側に投げる。
「何だよ、トイレか?」
ソゴゥは上体を起こし、ベッドに倒れ込むヨドゥバシーを見る。
「ゴメン、立ち上がろうとしたら、目が回った。気持ち悪い」
暗所に慣れた目に、ヨドゥバシーの服の背中が汗で変色しているのを見て、ソゴゥはただごとではないと、ヨドゥバシーを俵の様に担いでベッドを飛び降りる。
「うう、吐きそう」
「すぐにトイレに連れて行くから」
ヨドゥバシーをトイレに連れて行き、明かりを点ける。
顔が赤く汗もひどい。かなり熱があるようだった。
「大丈夫であるか」
音もなく背後に立つヨルに、軽く飛び上がってから、ソゴゥは水を持って来るよう頼んだ。
「ヨド君、大丈夫?」
それ程騒いでいたわけではないが、いつの間にかヒャッカも集まっていた。ヒャッカにヨドゥバシーの背を擦っていてもらい、ソゴゥは部屋に置いた自分の荷物から、胃のむかつきがとれる葉を持って来ると、ヨルの持って来た水と共に、ヨドゥバシーが落ち着いてから、これを飲ませた。
「熱による脱水症状のようね、熱の原因は風邪かしら」
「疲れかもしれないよ、昨日は大変だったようだし」
「吐いて水を飲んだら、ちょっと楽になった。けど、まだ目が回っている」
ヨドゥバシーは壁に手を付いたまま、浅い呼吸を繰り返している。
「じゃあ、もう少し水を飲んだ方がいいな、服も着替えて、直ぐ横になろう、母さん、ヨドは、俺が見ておくから」
「ありがとう、ソーちゃん」
「ヨルもありがとう、後は大丈夫だ」
ヒャッカとヨルが、それぞれの部屋に戻って行く。
ヨドゥバシーは、来るときの様にソゴゥに担がれてベッドに運ばれた。
ヨドゥバシーが着替えている間に、ソゴゥはヨドゥバシーの汗で湿った枕カバーを外して、乾いた枕カバーに取り換える。
「暫く様子を見ているけど、俺も寝るから。具合が悪くなったら、直ぐに起こせよ」
「ああ」と、ヨドゥバシーは、ため息の様な返事をした。
「大丈夫かよ」
鈍色の髪が枕に散るのを眺めながら、ソゴゥは寝つきだけは良いヨドゥバシーを暫く観察していた。
何だろうこの感じ。
ソゴゥは覚醒しかけた頭で、回答を探すように記憶を辿っていた。
群がって来る子狼達を、ちぎっては投げを繰り返し、うっかり足をとられて転んだ隙に、顔や首周りに鼻先を押し付けて、匂いを嗅いでくるあの音に似ている。
フンフンと吐く息が、首にあたってくすぐったい。
何か硬質なものが、頭にガツッと刺さり、その後湿ったもので顔を拭われた。
ソゴゥは徐に目を開けて、頭に噛みついたあと、顔をもうひと舐めしてくるヨドゥバシーを見上げて、屋敷中に響き渡るような絶叫を上げた。
「テメェ!クソキメェことしてんじゃねえ!」
ヨドゥバシーの頭に掴みかかり、そこで、ソゴゥは柔らかい獣の耳の感触に、驚いて手を引いた。
ヨドゥバシーの頭には、灰色の犬の様な耳がついており、エルフの特徴的な尖った耳がなくなっていた。
「お前、耳が、それに尻尾が!」
「どうしたのだ!」
ヨルが部屋に駆けこんで来る。
「ヨドゥバシーの様子が、変なんだよ」
ソゴゥはベッドの上で、お座りをして尻尾でシーツをガサガサ言わせているヨドゥバシーの様子を改めて見た。
「獣化であるか?」と、ヨルがヨドゥバシーとこちらを比べる様に視線を向ける。
遊んでほしそうに圧し掛かってくるヨドゥバシーを持ち上げて、ベッドに叩きつける。
「こら!待てだ、待て!お座り!」
ヨドゥバシーは、首の後ろを足で器用に搔いている。
まるっきり犬の仕草だ。
「おい、ふざけんな、本当に獣風邪が移ったんじゃないよな?エルフには発症例のない病気だぞ?何でお前が・・・・・・」
お構いなしに、じゃれついて来るヨドゥバシーの首を腕で固めて押さえ込んでいるところに、カデンとヒャッカが部屋にやって来た。
「ソーちゃん、すごい悲鳴が響き渡っていたけれど、何があったの?」
「母さん、ヨドゥバシーのやつ獣風邪に感染したみたいなんだよ、エルフには移らないって思っていたのに」
「ソーちゃん、言いにくいんだけれど」
「ん?」
「ソーちゃんも手遅れみたいよ」
「え?」
ソゴゥは自分の頭を恐る恐る触って、そこにないはずの感触に再び悲鳴を上げた。
「獣風邪には、人間の国でもワクチンがなく、解熱や、鎮静剤の投与を行って、自然回復を待つより他ない。発症からおよそ二三日で完治する病気で、一度感染すると、終生免疫を取得し、二度は罹らない。人間が進化の過程で捨てて来た、野生的な部分が顕著に表層に現れ、獣のような姿や声、思考仕草に至るまで、変化する。どんな獣となるのかは、個人差があり、大型肉食獣だった場合は、鎮静剤か睡眠剤で、獣化が解けるまでベッドに縛り付けられるなどの荒療治となる。また、獣風邪には高等治癒魔法などが効かず、安静にして完治を待つより他ない」
ヒャッカがイグドラシルから取り寄せた情報を読みあげ、カデンが首を傾げる。
「なんでこいつらは、この病気に感染したんだ?」
「不思議よねえ、エルフは罹らないはずだし、この子達以外のエルフは、実際に発症していなのに。十三領で幼年期のエルフはこの二人だけなのと、子供が掛かりやすいという特徴でそうなったのかしら。とりあえず、他の長男、次男、三男には絶対に十三領に帰ってこないように言っておいたわ」
「ソゴゥは屋敷に帰ってきたタイミングが悪かったな、それにしても、なんでこいつらだけこんなに重症なんだ」
カデンは目頭を押さえた。
十三領の人間は、大人も子供も関係なく、ほとんどの者がこの獣風邪に感染していた。
各棟を見て回ったカデンは、ノアの箱舟に乗船するために集まった動物達のようだと、様々な獣の姿へと変貌した領民たちを見て思った。
最初は子供達から、そして獣風邪に罹ったことがなかった大人たちへと広がり、爆発的な感染が始まった日から三日が経過していた。
四棟のほとんどの者が回復傾向にある中で、いまだ獣の姿で暴れまわっている者がいた。
「木登り犬」という、珍しい犬がいる。
この犬は普通の犬と違い、鎖骨が退化せず残っているため、木登りが得意で、豪快に木に飛び移っては、とにかく高い場所を目指す習性がある。
高い針葉樹の頂で、左右に揺れて今にも落ちそうになりながらも、ご満悦なヨドゥバシーに、カデンは雷魔法を当てて叩き落とそうか悩み、カデンの召喚獣である、巨大な白い怪鳥のトリヨシに回収させた。
また「川猫」という、イグドラム国の固有種で、ネコ科の動物でありながら、泳ぎが得意で、川や湖に潜って魚を捕まえて食べる大猫がいる。
厚く張った湖の氷を粉砕して、豪快に湖にダイブして魚を咥えて戻って来たソゴゥに、カデンは大急ぎで魚を回収し、ヨルに取り押さえさせて、屋敷に運んだ。
十三領民でも、人語を全く話さないほど獣化している者はいなかったが、ヨドゥバシーとソゴゥだけが、言語を発せないほど重症化してしまったのだった。
木登り犬は今、川猫に頭部を両前脚で押さえ込まれたうえで、後ろ脚でガガガガっと蹴りをくらっている。
木登り犬こと、ヨドゥバシーが身を捩って躱すと、川猫のソゴゥが飛び上がって距離を取り、詰め寄るヨドゥバシーの頭に、前脚で猫パンチ連打をくらわせている。
先ほどから、ヨドゥバシーはソゴゥに全く歯が立っていないようだ。
元々川猫は凶暴で気性が荒く、自然界でも強い部類に属する。
白金の髪に同色の耳と長く揺れる尻尾、縦長の金色の瞳孔に黄緑色の光彩と、神獣のような姿となっているソゴゥに、灰色の耳とフサフサの尻尾、深い紫色の光彩に、やはり金色の瞳孔のヨドゥバシー。
カデンは笑いを堪え過ぎて流れそうになる涙を、目頭を押さえて止めている。
「可愛いわ」と暢気な妻。
ここは父である自分がしっかりしないといけないと思いつつも、どうしてもケモ耳と尻尾の生えた大きな図体をした息子たちの様子が、可哀想であるほど、可笑しくてしかたがないのだ。
「大人は罹らなくて、本当に良かったな」
「ウフフ、まだ油断はできないわ、大人だから大丈夫という保証はないもの」
「こいつらと、距離をとろう」
カデンが、飛沫や空気感染を恐れて息子たちとの間に、空壁のような防護壁を張る。
「今更だと思うが」とヨル。
先程から兄弟の喧嘩を止めようとして、噛まれたり蹴られたりしている。
とりわけ、ソゴゥがヨルの腕をガブガブ噛んで来るのにショックを受けていた。
とは言え、この二人に全く理性が残っていないわけではなく、着衣と排泄は、何とか人としての尊厳を保っていた。
二人の着ている服は、十三領の人間のため行われた首都セイヴでのファッションショーで兄弟達が着ていたものだ。ショーのための豪華で華やかなものとなっているが、機能的で、動きやすく、尻尾が通せるように作られているため、動きを制限されることなく、二匹は元気にはしゃぎまわっている。
もともと水が好きな木登り犬と川猫だから、シャワーを毎日浴びて衛生も問題ない。
ソゴゥは身も心も犬となった兄を見て「俺は、こんな風にはなりたくない」とかなりの抵抗を見せていたが、高熱を出して寝込んだ後、目が覚めると言葉を話さなくなっていた。
エルフの罹患に、ヒャッカは直ぐにイグドラシルと首都の国立病院に連絡を取った。
国立病院からは、六日後からなら受け入れが可能だとの折り返しの連絡があり、それまでに回復しないようであれば、二人を入院させることにした。
そして五日が過ぎても獣化が進む二人を、いよいよ入院させることになりそうだと、病院側に受け入れ準備をお願いした。
イグドラシルからは、連日の心配の手紙が届いており、ソゴゥに代わってヒャッカやヨルが状況を報告していた。また、ヨルの目を通して、樹精獣たちが大騒ぎで、こちらも毎日心配の感情が伝わって来ていた。
いよいよ六日が経過し七日目の朝、ヒャッカとカデンは屋敷の外門まで馬車を見送りに出ていた。二人は発症していないだけで、感染している恐れがあるため、十三領を出るのを控え、サジタリアス領の精霊の森から邪神のルキを呼んで、ヨルと共に息子たちを王都の国立病院に連れていってもらうように頼んだ。
「二人とも、ヨド君とソーちゃんをお願いね」
「承知した」
「兄達をちゃんと王都に届けるノス」
兄弟二人は移動中暴れないようにと眠らされた上で、厳重な防護壁の張られた座席に固定され、ヨルが操縦する馬車をルキが護衛を担当して王都へと出立した。
国立病院の副院長で、感染症の治療を専門とするクレイ・エリースは細いフレームの眼鏡の位置を直しながら、深いため息を吐いた。
七日前、十三領の人間の間で広まった獣風邪に、幼年期のエルフの兄弟が感染したとの知らせが入り、今日この国立病院にやって来る予定となっていた。
件の兄弟は昼過ぎに馬車で病院正面口に到着し、そのまま隔離病棟付近まで運ばれて、防護服に身を包んだ看護班に引き渡された。
隔離病棟は三段階の陰圧室が連なった構造で、菌を封じ込め、綺麗な空気が循環するように設計されている。その部屋に運び込まれたエルフの兄弟は、それぞれの診察台に乗せられ、四肢を台に固定されていた。
クレイのため息の理由は、この二人の内一人が、あのイグドラシルの第一司書であり、国の重要人物であるためだった。
兄弟はどちらも派手な服を着ており、一人は白金の髪、一人は鈍色の髪をしている。どちらも、獣化しており、髪と同色の耳と尻尾を持っている。第一司書を遠目でしか見たことのないクレイには、どちらがそうなのか判断がつかなかった。
第一司書の特徴は、黒目黒髪で丸い耳と聞いていたが、どちらも耳は頭部にある獣の耳しかないため分からず、また頭髪は鈍色の髪の方も、黒と言うほど暗くはなく、こちらが第一司書なのかは判断しかねた。
連絡を受けてから、クレイと看護班は入念な受け入れ準備を行ってきた。
これまでを振り返りながら、何か漏れはないかと脳内で納得するまで確認作業を繰り返す。
十三領へは、応急手当てや衛生管理の講師として一度訪れたことがある。
そこで暮らす人間達は遺伝子操作実験をされた親や祖父母をもち、身体に変容を来たしていたが、健康状態は良く、身体的特徴に対し、それぞれに合った行動を妨げない衣服や、プロテクターなどで守られていた。
ノディマー家を筆頭とした、十三領のエルフの慈愛の深さが伺える光景だった。
十三領に移り住んだ彼らの幸運は、計り知れないだろう。
楽しそうに笑う藤色の髪とオッドアイのエルフの女性を見掛けたとき、胸を裂くような痛みと共に、雪原に閉ざされた大地に眠る美しく哀しい神の姿が過った。
クレイは目の前の二人に意識を戻し、十三領のヒャッカ・ノディマーからこれまでの二人の検温と心拍数の記録に目を通した。
看護班の者達が既に採血と検温、心拍数、血圧、瞳孔の収縮確認を行っており、獣化部位を念入りに記録して、解熱と水分補給と鎮静効果のある点滴を仕掛けていた。
記録があるお陰で、経過による現時点の状況が、回復に向かっているのか否かを調べることが出来る。
「点滴が終わるころ、また様子を見に戻る。目を覚まして、彼らが落ち着ているようなら、拘束を外して、奥の病室に移していいだろう」
看護師の邪魔にならないよう、壁際に立っていた悪魔が「承知した」と応える。
無防備な主から、決して離れないと言う無言の圧力により、誰も彼を陰圧室から追い出すことは出来なかった。
看護師らと共に、血液や魔力変動などの解析を行うため、護衛の悪魔だけを残し、処置室を後にした。
朝には陽が射していた空は、今は雲に覆われ、冷たい風が吹いていた。
先に研究室へ向かった看護師らを追って歩くクレイは、人の気配に、中庭に面した回廊を振り返った。
「どちら様かな?」
「あんたが、ここの副院長のクレイ・エリースか?」
「ご認識の通りだが、貴方は何者だね?」
「警察や。ニトゥリー・ノディマー」
クレイは、後ろの人物に向き直り、正面から彼の顔を見据えた。
「警察が何の用だね」
「街で起きとる、幽霊事件のことで話を聞きに来たんや」
「幽霊について、医者の意見が必要なのかね?」
「いや、大魔術についてや。幽霊は、セイヴの街に陰の気を溜めとく装置として、昨夜までに六ヶ所、地縛の術を施されとった。事が起きるなら、今夜というのが警察の見解や。幽霊は皆、この病院で亡くなった者達でのう、この病院に今回の幽霊騒動を起こした者が居ると睨んでおるんよ」
「それでは、院内での捜査許可を得に来られたのかね?医院長は執務室に居られるはずだから、そちらを訪ねるといいだろう。私は、これより隔離病棟の患者の処置があるので、そちらに集中させていただきたいのだが」
「聞いとる、うちの四男と五男が世話になっとるそうやな」
「治療はまだ、これからだが」
「俺は、あんたのこの六日間の深夜のアリバイを聞きに来たんや、他の職員にも、既に捜査員たちが聴取にあたっておる。あんたは、あの大魔術を得意とする、第一貴族のエリース家のエルフだからな、最重要参考人ってとこや」
クレイはニトゥリーの歪みのない鋭い眼差しに、忙しさを理由にここを辞すことは不可能だと悟った。
息を吐き、細いフレームの眼鏡を外し、胸ポケットへしまうクレイを見て、ニトゥリーは口元を歪める。
「俺に精神支配系の魔術は通用せんよ、例えばのう、記憶からその存在を消すとかのう」
「一体、何の話ですかな。第一貴族と言うだけで、疑われているように聞こえるのだが、そのような理由なら、出直して来ていただきたいものだ」
「ロブスタス殿下が執念であげた、太陽の石を盗み出した犯人候補に、あんたの名前があった。六十年前から、あんたは王族の専門医に補佐として城に呼ばれとるのう。記憶には残らんでも、記録には残っておったようや」
「それが私の仕事だからだが、それが何だと言うのだ?」
「太陽の石が盗まれた日、六十年前の大司書の娘が誘拐された日、第二貴族のティフォン・トーラスが登城した日、これらの日に共通して城に居った人物があんたや。ティフォンは赤い服を着た男を見たと言った、幽霊たちもや。普段、白い服を着ている医者のあんたを想起することのない真逆の色のイメージだけをあえて残したんか」
クレイは、空を見上げた。
白く曇った空に目を細め、そして「何故私が」と理由を問う。
「さてね、それはこれからあんたに教えてもらう予定や」
「そちらの言い分は理解できなくもないが、偶然居合わせただけで犯人とされては、運悪く通りがかっただけの者が、罪を着せられるという冤罪が生まれる」
「署にお出でいただいて、あんたの『やましくない記憶』を見せてもらえりゃあ、はっきりするわ」
「私はこの国立病院の副院長なのだよ、そんな曖昧な理由で、ここを空けることに納得は出来んね」
食い下がるクレイに、ニトゥリーは「そう言ってものう」と困ったような表情を見せながらも、クレイの前に立ち塞がり続ける。
そこへ「室長」と声を掛けて、フォグ・スコーピオが駆け寄り、ニトゥリーに書状を手渡して耳打ちする。
ニトゥリーは、口の端を上げるとクレイに向き直った。
「逮捕状が出た。クレイ・エリース、あんたをこの場で逮捕する」
ニトゥリーが、クレイに逮捕状を掲げる。
「どういう事だね?」
困惑するクレイに、ニトゥリーはいまフォグから報告を受けた、幽霊たちに掛かっている地縛魔術の魔力痕と、クレイにより治癒魔法を受けた者に残留する魔力と比較した結果、クレイのものと同一であることが確認されたと説明した。
「魔力紋の個人特定の精度は、それほど高くないはずだ。それこそ、運悪く通りがかった際に、光魔法などで道を照らした場合、偶々そこに幽霊が地に縛り付けられていただけかもしれないではないか」
「いや、使用魔術の識別も済んどる。少なくとも、逮捕状が取れるほどには、証拠能力が認められておる。これで、あんたを署にご案内できるのう」とニトゥリーが口角を上げる。
「弟さんたちは、どうするんだね」
「医者はあんただけじゃない、それに、何を企んでいるか分からん医者に、可愛い弟たちを任せられるか」
「そういう事なら、仕方がないようだ」
クレイは肩を落とし「これは、脱がせてもらおう」と白衣の前を開けた。
ニトゥリーと同じくらいの高身長に、青白い顔、柔らかくうねるクリーム色の髪は顔にかからないように後ろで束ねられ、白い光彩が白目と同化して、瞳孔の黒が目立つ。
手が長く、また指も長いため、ボタンを外す指の動きがまるで肢の細い蜘蛛が蠢いているように見える。
全てのボタンを外し終わると、クレイは脱いだ白衣の中から、一冊の本を取り出して広げた。
ニトゥリーがそれに気づいた時には、クレイはもうカギとなる言葉を唱えていた。
「室長!!そりゃあ、第一貴族の貴族書ですわ!!」
「クソが!!」
ニトゥリーはクレイを地面にひき倒して拘束し、供物も契約も必要としない一方的な強制召喚を実行できる第一貴族の「召喚の書」を奪い取る。
しかし術は発動し、アイボリーの装丁の魔導書を中心に、空と大地に白い魔法円が出現した。
クレイが唱えた言葉は「邪神召喚」であり、目当ての邪神の顕現に必要な条件は、陰の気で満ちた空間だった。
セイヴの街に、幽霊たちを起点とした赤い六芒星の光が奔る。上空には暗雲が立ち込めて回転を始め、渦の中心からはダウンバーストした瘴気が大地へと降り注いで、地表を舐めるように四方へ広がり、やがてドーム状に首都の空を覆った。
爆発的に広がった瘴気の層が太陽を遮り、セイヴの街を陰鬱な黄昏の世界へと変える。
暗い空には、邪悪の樹を象る光が「第一」を指す部分を強調し浮かび上がっていた。
「嘘だろ・・・・・・」
「はあ・・・・・・まさか、アテはこの目で世界の終焉を見ることになるとは」
ニトゥリーとフォグは血の気の失せた青白い顔で、呆然とそれを見上げた。
「敵対」の悪徳をもつ第一の邪神は、序列二位以下とは次元の異なる突出した存在として知られる、最悪中の最悪である。それが今、空間を歪ませるほどのエネルギーを放って、世界を呪うような陰惨な表情で、雲間よりその姿を見せた。
だが、その姿を見上げることが出来たセイヴの住人は、それほど多くない。
魔力量の少ない者は、邪神の出現と同時に昏倒し、意識ある者もまた、数倍にも増した重力に押しつぶされる様に自由に動けずにいた。
大地は地響きを上げて振動し、耐えきれずに亀裂を走らせ地面が割れ始める。
広がった瘴気を吸い込んでニトゥリーは喉が塞がり、胸が潰れるような息苦しさを覚えた。耳の奥からは、草刈り機が枝を削り裂くような耳障りな音が響いている。邪神の圧力とは別に、瘴気は生物の意識を混濁させるとともに、強烈な飢餓を刷り込む魔力を帯びており、ニトゥリー自身の生態を保護する魔力が、それを拒み衝突することで発生している音だった。
「ウウッ、グウウッ」
獣の様な声を上げているのは、隣にいたフォグだった。目を血走らせ、小鬼の魔物の様に背を丸めて、鼻をヒクつかせながら、獲物を狙うような目でこちらを見ている。
「しっかりせい!」
昏倒を免れたフォグは、瘴気を吸い込み、これまでに経験したことのない飢餓感に正気を失っていた。フォグだけではない、病院中の意識あるエルフ達が咆哮を上げ、餌を求める様に建物から這い出してくる。
背を丸めたり、姿勢を低くしているのは、上空にいる邪神の圧力を受けてまっすぐ立っていられないからであり、それでもなお肉を求め徘徊を始める。
ニトゥリーは視界に入れた自分より魔力量の少ない者の動きを封じる能力で、フォグを始め、共喰いを始めそうなエルフ達の動きを封じる。
「おい、あれを戻せや!」
八方を睨み据えた後、地面に転がしていたクレイに目を向け、そしてそこにクレイがいない事に気付いた。
いつの間にか、クレイの存在を忘れさせる能力にかかってしまっていたようだ。
ニトゥリーは、ミトゥコッシーに脳内で話しかける。
『おい、街が大変なことになっとる、そっちは大丈夫なんか?今どこにおる』
『俺は問題ない、国立病院にイセ兄さんと向かっとったところや、ヨドとソゴゥの様子が少しでも見られんかと思うてのう、お前こそ大丈夫なんか?』
『今のところ俺も無事や。それと、俺も病院や。あの邪神の顕現は、ここの副院長のクレイ・エリースの仕業や』
『やはりあれは邪神なのか。そのクレイとやらを捕まえて、邪神にお戻り頂けや』
『おう、貴族書は奪ってあるが、クレイがどこに行ったか分からん。とにかく探して、お前の言う通り、あれを帰還さすわ』
『俺とイセ兄さんは、このままヨドとソゴゥのところに行く。皆、正気を失のうておるなか、病人の二人をほっておけんからのう』
『ああ、頼むわ、二人は隔離病棟や』
ミトゥコッシーはニトゥリーと思念伝達を終えると、イセトゥアンと共に自動運転のトラムから飛翔して降車する。こちらを襲ってきた、まるで餓鬼の様なエルフ達は、全員手足を拘束してトラム内に転がしたままにしておいた。
見上げると、終末を思わせるような暗雲が渦巻く空には、遥か上空に居ながらにして、まるで側にいるような存在感を放つ禍々しい邪神が、こちらの次元に顕現を果たしていた。
邪神は怪鳥や魔獣の死骸にも見える九つの輪を背に生やし、炭化した樹木のような黒い躰の中央にある、数十億年と癒えることのない胸の傷を掻きむしるようにして、自ら流した血を空へ放った。
邪神の翼は輪の形に留まり、体の大きさは十メートルほどで、伝説の中の十三の翼と、大陸の一番大きな山ほどの躰を持つと伝わる姿よりは大分控えめであった。
傷より放たれた血が、上空に無数の黒い魔法円を作る。そこに集約されていく魔力に、見上げていたミトゥコッシーとイセトゥアンは、次の瞬間世界が終わるかもしれないと、天空を睨み付けた。
「マジかよ、ふざけんなや!」
「死んだら殺してやる!」
成す術もなく見上げる空で、邪神の魔法円の全てから、現世を「隠府」に変える「死」が降り注ぐ。
太陽の光が遮断されたセイヴは「死」を受け入れる他なく、イグドラム国でこの場だけが「死者の国」に変えられてしまう事を覚悟したその時、全ての魔法円に蓋をするように金色の光の円が無数に出現した。
黄金の光の放射照度は太陽に近く、直視すると目が潰れると、二人は直ぐに光から焦点をずらした。幸い空を見上げる余裕のある者は、強い魔力を持った一部のエルフで、生体防御能力が非常に高く、目が焼かれた者はないだろう。
空は曙光により、闇がみるみると払拭されていく。
翼と角と尻尾を持ち、その姿は悪魔そのものでありながら、体内から溢れる太陽のエネルギーは、光属性の最高位、数多の大いなる存在を敗者とし邪神へ位置付けた、この世では唯一の「神」と呼ばれる存在のようであった。
「ヨルや」
「ヨルだな、あいつ光魔法を使えたのか。とにかく助かったが、あいつがあそこにいるってことは、ソゴゥ達を守る者が側にいないってことだ」
「ああ、早う、二人の所へ行こう」
「おう」
国立病院の正門を潜り、二人は隔離病棟を探して走った。
ニトゥリーはクレイを探して院内を奔走し、ついでに周囲のエルフの動きを封じて回っていた。獣の声を上げ、涎を垂らし人を見ると腕を伸ばして追って来る姿は、まるで前世で観たゾンビ映画の様な光景だった。
「この世界は、あと何分もつかのう」
上空に出現したヨルが、「第一」の前に立ち塞がっている。
だが、それは生物が星に墜落する巨大彗星の衝突を素手で防ぐようなものだ。直ぐに、あれを元いた次元に戻さないと、セイヴは人類史上最も凄惨な地獄を見た都市となるだろう。
「クソッ、なんでよりによって『第一』なんや!せめて『第二』以下ならヨルとルキと俺らで何とかなったかもしれんのに」
完全な姿で顕現していないことが多少の救いではあるが、あれは神や人と敵対する「妨げる者」であり、第三の邪神であるルキとのような和解はない。
そしてまた、この場にルキが居なかったことは、幸いだったかもしれない。
ルキフグスは「光を避ける者」。その躰が樹精霊の陽性に傾いていても、これだけの太陽エネルギーが局所に集められた場所では、存在を保てなくなる恐れがある。
上空では、ヨルと第一の戦闘が始まった気配がある。
ニトゥリーは周囲を見回し、むしろ気にならない場所にこそ足を向ける。
ドアというドアを開け、施錠された扉は破壊して足を踏み入れる。建物を突っ切って、再び中庭に戻ってきた時、足に纏わり付くエルフによって態勢を崩した。
視線を向けても、足にしがみつくエルフの力が緩まない。
理性を失くしたエルフが自分より格上のはずもなく、ニトゥリーは丁寧にエルフを足から引き剥がして話しかけた。
「あんた、俺に何の用や?」
エルフの男は、ニトゥリーの持つ貴族書を指さした。
『それは、イグドラムを守るためにイグドラシルから王に託され、我が一族が賜ったもの。このような使われ方をされたことを、恥ずかしく、隠府より馳せ参じた。我、我が王とイグドラシルのため、そしてイグドラムのため、あの災厄を暗黒へ引き戻す。その術と権利を一時的に其方に授ける』
隠府が開かれた瞬間、ヨルが取り込んだ太陽の石による光魔法の蓋を免れて、いの一番で貴族書の元に駆け付けて来た第一貴族の亡霊、大魔術師ガイスト・エリースが、乗り移ったエルフの咽喉を介し、ニトゥリーにそう告げた。
クレイ・エリースは看護師らと、護衛の悪魔のいなくなった隔離病棟にやって来ると、二体のエルフの眠る陰圧室に入り、外からは開かないように施錠した。
陰圧室の強化ガラスには空壁と幾重の防護魔法が掛かり、攻撃魔法に特化した第三魔導士の攻撃を受けても五分は持ち堪える造りになっている。
「ノディマー家の五人兄弟の誰か一人で十分だったが、二人も手に入るとは僥倖である」
クレイは奥の白い壁に、転移の魔法陣を青白い光で描いていく。
この惑星は、七つの次元が重なるように存在しているとされている。生物のほとんどは第一の次元「人界」にあり、魔物や魔族の棲む第二の次元「魔界」、肉体を手放したエネルギーが惑星の循環に帰するために一時的に蓄積される第三の次元「隠府」、精霊や竜神が棲む人界に近い環境を持った第四の次元「天界」、地中と深海にもそれぞれ、局所的に人界と異なる自然法則を持った第五、第六の次元が存在し、そして創生の神が休む場所とされる第七の次元「神界」が存在すると言われている。
クレイは壁に、これらの次元を超える四重の輪の中に、座標を示す地図のような文様を描いていき、これを完成させた。そして、自身の身体強化を行った上で、エルフの一人を背負い、もう一人を抱えて持って、描いた魔法陣の前に立つ。
目を閉じ集中し、全身の魔力を目の前の魔法陣に注いでいく。
クレイから放たれた魔力が魔法陣を白く光らせ、照度を上げていく。
しかし突然、建物を揺らす衝撃が起き、集中が途切れてクレイは振り返った。そこにはノディマー家の者と分かる特徴の青年が二人、鬼の形相で壁をぶち破ろうとしていた。
壁が揺れ、ガラスの壁は何とか形を保っているが、ガラスが打ち破られるより先に建物が倒壊しそうな勢いだった。
クレイは、壁に向き直り魔力の注入を早め、魔法陣全てに発動に必要な照度を持たせた。
僅かに二人がガラスを破るより早く、術が展開する。
後方で「奪われてたまるか!」と声が響き、転送が開始される直前、魔法陣に外からの光が達したように見えたが、それも一瞬だった。
私の勝ちだ。
転送が発動し、一瞬で切り替わった景色を前に、クレイは目的が達せられたことに歓喜した。
ヨルは寒気を覚えた。
ヨルにとって、ソゴゥはこの人界に顕現する自身の礎であり、ともすると希薄となる自己を保つための縁であった。
それが今、この地から失われたと感じられ、目の前の邪神どころではなくなっていた。
こんな意思のない、ただの存在の複写に過ぎない邪神とやり合っている場合ではない。
ヨルは地上を巻き込まないために押さえていた力を、その両手の爪に集める。
この手を振るえば、セイヴの空壁は破壊され、空間が切断されて、一時的に第二の次元と繋がってしまうだろうが、目の前の邪神は打倒せるだろう。
繋がった次元より溢れて来る魔物程度ならば、多少の被害は出るかもしれないが、セイヴの軍事力で何とか対抗し得る。
自分の最優先はソゴゥだ。
ソゴゥ本人に何を言われようと、彼を失う事は出来ない。
ヨルは、邪神の攻撃を回避しながら、ほんの一瞬、セイヴの街を危険さらした咎を責められる未来が過ったが決意を固めて、手を振り上げる。その時、白い巨大な魔法円が邪神の真上に出現し、邪神だけを溶かす酸の雨のように降り注ぐ光が、目の前の災厄たる邪神をかき消していった。
「強制送還か」
ヨルは地上の大地に咲いた白い魔法円の中心に、よく知る人物を見た。
「成功や!あんたに、何と礼を言ったらいいか」
『我が一族を凌ぐ魔力を持ったエルフがいて良かった、権利を移譲したところで、膨大な魔力が必要だったのだ。こちらこそ礼を言う』
憑いていたエルフが目を覚ますと、ガイスト・エリースはそのエルフに自身の微笑みを一瞬だけ表情に乗せて消えていった。
ニトゥリーはもう一度「ありがとう」と言って、目を瞬かせるエルフの肩をポンと叩くと、何も知らないエルフの男は「え、え?」と狼狽えて、正気を失っていた間の記憶を思い出そうと、首を傾げる。
そこへ、上空からヨルが舞い降りてきてニトゥリーの側に立った。
「ソゴゥが消えた!」
「は?どうゆう事や、ソゴゥのとこには、イセ兄さんとミッツが向かっとった。あの二人を差し置いて、ソゴゥを攫えるもんはそうはおらん。二人は間に合わなかったのか?」
「我は、隔離病棟を確認しに行く」
「俺も行く」
飛翔するヨルの後ろを、ニトゥリーが追う。
隔離病棟に到着すると、最奥の陰圧室の廊下に倒れているミトゥコッシーと、それを抱えるイセトゥアンがいた。
陰圧室の窓ガラスは砕け散り、室内の壁に不審な魔法陣と、無人の診察台があった。
「ソゴゥ!」
ヨルが主の痕跡を探すように、誰もいない室内を歩き回る。
「イセ兄さん、ヨドとソゴゥは!ミッツはどうしたんや!」
ニトゥリーは、イセトゥアンと目を閉じて抜け殻のようにくたりとしたミトゥコッシーに駆け寄る。
「医者の男が転移魔法で二人を連れ去った。ミッツは二人について行った」
「憑依か?」
「ああ、それと男の行先は『天界』だったようだ」とイセトゥアンは、剣の突き刺さった魔法陣を指し示す。
四重の輪は、第四の次元「天界」の座標を示している。だが、術の発動の瞬間、イセトゥアンは次元を超えられないよう、この重なる輪の外側の三つへ魔力が行き渡らないよう剣を投げて壁を崩したのだ。
「辛うじて行先はこの次元内に留めたが、何処に飛んだのかまではわからない」
ヨルが魔法陣に手を翳して魔力を注ぐが、術は起動しなかった。
「我は周囲を見て回って来る、近くに居るなら魔力量で居場所が分かるはずである」とイセトゥアンに言って、ヨルは隔離病棟を出て行った。
「魔力を認識して発動する式が組み込まれとるんか。転移魔術は大抵行先がバレないように暗号化されとるから、専門チームを呼んでも解読するのにおそらく一両日では無理やろうな」
「転移魔術を使われるとはな、グランディ機関が故障やメンテナンス中だとは聞いていないが・・・・・・」
グランディ機関は先代の王が考案した、イグドラム国の地上、海域、空域への国外からの転移魔術を妨害するための装置で、竜神王が天界とイグドラム王宮に結んだような、王家の承認のもと、グランディ機関にあらかじめ登録されている魔力によって展開された転移魔術のみ発動が可能となっている。
「イセ兄さん、国外への転移に関しては、グランディは対象外や。魔力コスト削減の関係で、今はグランディが防ぐのは侵入者のみよ」
「戦後稼働内容が変更されたんだったな。そうなると、ミトゥコッシーの体と精神の繋がりを第八貴族の者に見てもらう方が早いかもしれないな、霊視では幽体離脱した体と精神が糸のようなもので繋がっているのが見えると聞いたことがある」
この場にソゴゥがいたら手紙鳥を飛ばして後を追う提案をしていただろうが、手紙鳥に追いつける飛行術を持つエルフがいない事と、ヨルの飛行速度を知っている者がいなかったことで、その案が出されなかった。
「うちの室のフォグ・スコーピオが、この近くに転がっておるから、連れて来るわ」
やがて、スコーピオ家の特徴である、赤い髪を短く刈ったフォグが「何か、美味しそうな肉の夢をみとりましたわ」と口元を拭いながら、ニトゥリーに連れられてイセトゥアンとミトゥコッシーの元にやって来た。
「フォグ、ここに倒れとるミトゥコッシーの精神が、今どこにあるか分かるか?」
「はあ、どうゆう事です?」
「クレイ・エリースが、弟たちを転移魔術で連れ去りよった。このミトゥコッシーは、転送前に憑依を発動させて、彼らについて行ったらしい」
ミトゥコッシーの子供時代に獲得した幽体離脱の能力は、自分の身体から離れた精神を、他人に憑依させることが出来る能力に進化していた。
ゼフィランサス王も先見の能力の他に、憑依の能力を持っているが、こちらは憑りつく相手に自分の手で触れないと乗り移ることが出来ないため、対象に触れずとも憑りつけるミトゥコッシーの方が能力としては高度であった。
「そう言う事なら、アテよりも隊長さんとこにおるライフが適任ですわ、あれは強い霊視を持っとります。死んだばかりの生物の死骸から魂が抜けていくのが見えるのが怖いと、子供時分によう言っとりましたわ」
「いや、ミッツは生きているんだが・・・・・・」
イセトゥアンは困惑気味に応える。
「はは、まあとにかく、ライフに協力を仰ぐのが良いでしょう」
「分かった」
イセトゥアンは手紙鳥で各所への報告と、ライフ・スコーピオを召集して隊の部屋で待機するよう伝えおいてから、ミトゥコッシーを背負うニトゥリーと共に王宮へ向かった。
転送先である空中要塞の審判の門が一瞬見えたと思った途端、視界が一変して、突然何もない青空だけとなった。
空中に放り出されて落下していくのを、慌てて飛行魔法で浮かせ、エルフの生存に適した気温と気圧を魔術にて周囲に展開した。息を吐いて改めて周囲を見渡す。だが、やはり空には雲が浮かぶだけで、空中要塞や浮島群が見当たらない。
ここは、天界ではないのか。
真下には海に浮かぶ島が一つあるだけで、青い海が彼方まで広がっている。
皇帝陛下に捧げる供物を、背と腕に抱え途方に暮れていると、腕に抱えていた方のエルフが目を覚まして、尖った牙を覗かせながら大きな欠伸をした。
黄緑色の光彩の中の金色の瞳孔がキュっと絞られ、目が合うや否や、鋭い爪で顎から額まで一直線に引っ掻いてきた。
驚き、腕の力を抜いた瞬間、抱えていたエルフは身を捩って腕から抜け出し、空中に身を投げ出した。
「よせ、落ちるぞ!」
こんな高高度から落下しては、落下先が海であろうと無事では済まないだろう。
獣化した状態で飛行魔法が使用できるわけもなく、真っ逆さまに落ちていくエルフを追って滑空して行くが、今度は背負っていた方に首元を噛みつかれて、食いこんだ牙を引き抜こうとしている間に、エルフは小さな点となって島へ落ちていき、やがて見失ってしまった。
飛行魔法もなくこの高さから陸へ叩きつけられれば、命はないだろう。
兄弟の一人を死なせてしまったのは惜しいが、あの島に降りてから転送をやり直して、この背負っている方だけでも連れて行けば、目的は達せられる。
クレイは催眠魔法で背負っている方を眠らせると、島への降下を再開した。