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9 こっそりキスをするような

 着替えを覗かなくては。着替えを覗かなくては。着替えを覗かなくては……

 五時限目の数学、六時限目の国語の授業中、僕は心の中で陽気な九官鳥のようにそう繰り返していた。


 着替えを覗かなくては。


 本日は六時になった瞬間からテレビの前に張りつき、キーコの帰宅を待つのだ。彼女にはお兄さんがいるはずだから、僕のように居間や寝室で着替えはしないだろう。それに彼女の部屋には、ちゃんと洋服ダンスらしきものがあったじゃないか。きっと部屋で着替えているはずだ。


 六時限目終了後。キーコがこちらへ歩いてきたため、僕はどきっとした。あまりに強く念じ過ぎて、僕の心の声が聞かれたかと思った。でも違った。僕の左前、塚田の隣の席の、内藤ないとうさんに用があったようだ。


「ユウちゃん」気安い調子で声をかけるキーコ。前方から机に両手をつき、肘を伸ばしていた。

「今日さ、部活終わりにカラオケいくんだけど、一緒にこない?」


「誰がくんの?」

 茶髪ショートカットの内藤さん。その太い声と太い身体は、多くの男子に不評である。


「えーっと、ヒメちゃんと、チイちゃんと、ナスノくんと」そこでいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「生田くん、かな」


「えー?」顔は見えないが、はにかんだ様子の内藤さん。ただ、声は太い。

「どうしよっかなあ。最近あんま歌ってないから自信ないなあ」


 僕は国語の教科書を広げ、授業の復習でもしているかのような顔でちらちらとキーコを盗み見ていた。まるで目が合わないということは、やはり彼女は僕に無関心なのか。


 一つ気になっていた。部活終わりにカラオケにいくのなら、キーコの帰宅はいつもより遅れるというわけか。それじゃあ何時を目安にテレビに張りついておけばいいのだろう。下手すれば夕食の時間とかぶってしまうじゃないか。今日こそは着替えを覗きたかったのに。ああ、キーコはいつ頃帰るのだろう。


「そのカラオケって何時頃まで?」

 昔のままの僕とキーコの関係なら迷わず訊ねていただろう。知りたい。知りさえすれば、食事の時間だって上手く調節してやるのに。


 またキーコを一瞥した瞬間、ついに彼女と目が合った。僕は慌てて目をそらそうとしたが、どうも様子がおかしかった。なぜか内藤さんや塚田までもが身をよじり、僕に顔を向けているのだ。


「は?」内藤さんが前を向き直す。

「あの人もくるの?」


「いや」

 キーコはかぶりを振る。それから訝しげな目つきで僕を見つめた。僕はだんだんと、自分がしでかした業を自覚し始めていた。


「おい」塚田に顔を寄せる。

「俺、今なんかいったっけ」


 塚田は「ああ」と頷いた。彼も戸惑ったような表情だ。

「カラオケいつまでやるのか、って訊いたじゃん」


 全身にどっ、と冷や汗が湧いた。


 誤解だ、といっても信じてもらえないだろう。なぜなら誤解じゃないからだ。そうだ、確かに口にした。気になっていたことをごく自然に、友達のように訊いてしまった。きっと動転していたのだ。キーコがカラオケの話を持ちだしたその瞬間から。突然の不測の事態で、彼女の着替えを覗くという展望が危うくなり、自分が自分でなくなってしまった。


 頼むから、なかったことにしてほしいと思う。しかし、その願いはあまりにも都合がよ過ぎた。


「なんであんたに教えなきゃいけないわけ?」

 キーコが口を開いた。彼女の家を訪ねたあの日、二度と話しかけないでといわれたあの日以来の会話だ。


「い、いやさ」僕は懸命に平静を装った。とはいえ、いいわけはこんなものぐらいしか思いつかなかった。

「最近、カラオケ店に教師のチェックが入ってるらしいじゃん。あんまり遅くならないほうがいいよ、って忠告しとこうかと思ってね」


 いつの間にやら、渚さんと青柳さんが集まってきていた。おそらく、ヒメちゃんとチイちゃんだ。不穏な空気をかぎつけたのかもしれない。ただ、二人とも楽しそうに見える。いわゆる野次馬に近い。


「意味分かんないし」キーコが呆れたように息をつき、僕から顔を背けた。

「それじゃあ、ユウちゃん。部活終わったら校門前ね」


「オッケー」

 内藤さんの返事を聞き、キーコが去っていく。それにならって渚さんが彼女のあとを追う。間違いなく只今の出来事について訊ねるのだろう。そしてまた、陰で嵐のように僕を罵倒するのだ。


「どうしたの?」

「わっ!」大型の番犬のような驚声を上げてしまった。突然目の前にカエルの顔のどアップが現れたのだ。

「ちょ……びっくりした」


「へへへ」と屈託のない笑みを浮かべる青柳さん。目が大きくて、とても愛嬌のある顔立ちだが、見方によってはやはりカエルに似ている。


「一緒にカラオケいきたいなら、ちゃんとキーコにいわなきゃ」

 ぱん、と僕の背中を叩く。実は彼女と口を聞くのは初めてなのだ。なんというフレンドリーな子だろう。

「ねえ! えーと……塚田くん?」


「あ、ああ」

 塚田も女子生徒を苦手にしている。曖昧に返事をして、すぐに前を向く。


「いや、別にいきたいわけじゃないし」

 僕はぶっきらぼうに答えた。内心はわりと悪くない気分だ。なんだかんだいって、女子に話しかけられると嬉しい。


「塚田君ってばちょっと、冷たーい」

 僕の話など聞いちゃいない。青柳さんは後ろから塚田に抱きついた。顔を真っ赤にした塚田が安易に想像できる。二人の体格差から、まるで大岩にしがみつくアメンボだ。ちょっとだけ羨ましかった。


「よーし、そろそろホームルーム始めるぞ」

 教室の前のほうで数人の女子といちゃついていた岩口が、大きな声を上げた。帰りのホームルーム前の時間は、普段は岩口がくるのを待つ時間だが、六時限目が国語のときは、岩口がホームルームをする気になるのを待つ時間である。全員が席につき、ホームルームが始まった。


 ホームルームの時間を利用し、僕は思考を巡らせていた。今日中に着替えを覗くのが難しくなったことによる落胆が功を奏したか、極めて冷静な分析ができた。その結果悲しい答えにたどりつく。


 無駄だ。キーコは部屋で着替えない。


 単純な論理だ。キーコは毎朝ジョギングをする。ということはそのあとにシャワーでも浴びないと気持ちが悪い。

 ではシャワーを浴びたあと部屋着に着替えるか。違うだろう。すぐに学校へいくのだから、どうせなら制服に着替えるだろう。

 ならば制服は自室に置いているのか。まさか。キーコにはお兄さんがいる。浴室とキーコの部屋は目と鼻の先だが、男のいる家を思春期の女の子が下着で歩き回ったりするものか。つまり、制服は脱衣所に置いている。

 なぜ脱衣所に置いてあるか。前日帰宅したときに、そこで着替えたからだ。

 穴はたくさんあるような気もするが、とりあえずは証明終了。


 当然、僕の心はますます沈んでいく。キーコの部屋の洋服ダンスには、おそらく休日用の、ちょっと気合いの入った服だけが収められているのだろう。少なくとも休日までは、キーコの着替えを覗けない。ああ、一刻も早く……一刻も早く覗きたいのに。


 ホームルームを終え、学級は放課した。部活へ向かう塚田を送りだした僕は、修行僧のようにまぶたを閉じ、深呼吸をしながら、なんとか開き直ろうとしていた。


 休日を待とうじゃないか。平日の学校帰りにわざわざカラオケにいくような子が、休日にどこにも出かけないとは思い難い。明後日、土曜日はなるべく早起きして、朝からばっちりモニタリングしてやろう。


 自らを納得させるように一度あごを引いて、そのまま立ち上がろうとしたときだった。


 廊下が騒がしい。よそのクラスの男子生徒が数人、下品な笑い声を発してじゃれ合っているようだ。一組の方向から聞こえていたざわめきが近づいてくるにつれ、うちのクラスの僕以外の生徒も、そちらに意識を傾けだした。


「四組の皆さん、こんばんは!」

 そう叫んで前方のドアから入ってきたのは問題児の大柳だった。ピンと背筋を立て、右手を真っ直ぐに上げている。選手宣誓の真似か。以前見たときは緩くパーマをあてた長い髪の毛を茶に染めていたが、現在は丸坊主になっていた。額の生え際を明らかに剃り込んでいる。


 僕は助けを求めるように周囲を見回した。岩口は知らぬ間に教室をあとにしていた。これから四組の教室は無法地帯と化すのか。


 しかし、慌てて教室を出ようとはしなかった。下手に動いて目をつけられたくないからだ。まずは、あくまで背景の一部として大柳の視界をくぐり抜け、彼がそっぽを向いた隙に空気のようにふっと脱出する。


「お前サボり過ぎなんだよ」

 生田がからかうように大柳の胸を小突いた。彼はまたしてもキーコの席に出張ってきていた。キーコは席につき、周りには渚さん、内藤さんもいた。カラオケの打ち合わせだろうか。


「うるせえ」と笑い、生田にローキックを入れる大柳。気がつけば、彼のあとに続き、学年の名だたる問題児たちが続々と四組の教室に侵入してきていた。これはまずいと僕は席を立ち、自然なふうを装いつつも、かなりの早足で教室後方の出口を目指した。


「あ、逃げてる」

 本当に逃げればよかったのだ。しかし、その言葉に反応し、後ろを振り向いたのがいけなかった。渚さんが僕を真っ直ぐに指差して、にやにやとほくそ笑んでいた。


「おいおいりっくん、逃げなくてもいいじゃん」大柳も笑顔だった。ただ遠目で見ても目が笑っていない。

「お前もこっちこいよ」


 怖かった。足ががたがたと震えてしまいそうだった。先日塚田が聞いたという、僕のいないところでされたキーコたちの会話。

 大柳に頼んで僕をボコってもらう。

 その決行のときがついにきたのだと思い込んでいた。それだけのために、大柳は登校してきたのだ。


 しかし、腑に落ちないものもある。渚さんと大柳以外はみんな神妙な顔つきをしているではないか。キーコも含めてだ。まるでこれから起こる惨劇を憂うような、そんな表情だった。


「逃げてるわけじゃないよ」僕は作り笑いを浮かべていった。

「今日はちょっと用事があって、早く帰らなきゃいけない、ってだけなんだ」


「早くこいって」

 僕を手招いたのは、よそのクラスの不良の一人。プロレスラーのようにがたいのいい、藤吉ふじよしというやつだ。眉間にしわを寄せ、憤然とした様子である。彼はかねてから坊主頭がトレードマークである。彼とも面識はあった。幼い頃はゲームソフトを貸してやったりもしたのだが、関係はとっくに冷めている。


 藤吉の迫力に負け、僕はがっくりとうな垂れて彼らのもとへ歩いた。


「おう、俺のキーコじゃねえか。元気だったかー」

 感動の再会とばかりにキーコに抱きつこうとする大柳。


「ちょっと、キモいからやめて」

 大柳の身体を両手で押さえつけるキーコ。言動とは裏腹に、まんざらでもない面持ちだ。


「大柳」渚さんがいった。相変わらず意地悪げな笑顔だ。彼女はまた僕を指差した。

「聞いた? こないだのこと」


「ああ」途端に大柳は表情を硬くさせたが、それはポーズだったらしい。今度はキーコの肩に腕を回し、くんくんと髪の毛の匂いをかぐ。

「ちゃんと洗ったか。まだちょっとくせえような気がすんだけど」


「マジでやめて」

 唇を尖らせ、キーコは彼の腕を払った。彼らの夫婦漫才のようなやりとりを目の当たりにして、僕は自分の中に嫉妬心が芽生えているのに気づき愕然となった。キーコに対する感情は憎しみだけだったはずだ。それなのになぜ、嫉妬なんかしなきゃいけないのだ。


 一方で心のどこかに安堵の気持ちもあった。大柳は僕に対して敵意を抱いているふうではないからだ。ひょっとしたらこのまま僕がふらっといなくなっても、彼は何もいわないのじゃないか。


「おらあ、手塚!」大柳が豹変した。感情のスイッチをきり替えたかのような唐突さだった。

「お前、俺のキーコに何してくれてんだ、くおらあ!」

「い、いや……」


 ズボンのポケットに両手を突っ込み、僕を睨みつけながらずいずいとこちらへ近づいてくる大柳。まるでカップルが放課後の体育館裏でこっそりキスをするような距離にまでなった。たった今の安堵はどこへやら、僕はいよいよ膝を震わせ始めていた。身長はほぼ一緒だが、そのせいで十センチほど大柳のほうが高く見える。


「いや、じゃねえんだよ。お前、なめとんか、わりゃ!」

 くいくいとあごを小刻みに揺らし、大柳はすごんでみせる。僕は真っ青になったまま、ただ首を横に振る。生田が「やめとけ」と大柳の肩をつかむが、大柳に睨まれてすぐに手を引っ込めた。


 大柳が右手をポケットからだし、そのまま振り上げた。女子生徒の「きゃ」という短い叫び声を聞く。

 しかし僕は防御をも、目をつぶりさえもしなかった。

 別のものに完全に意識を持っていかれたからだった。


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