8 僕も知らない
父さんはまだ帰っておらず、母と二人の夕食だった。出張から帰る父のために用意された白身魚のあんかけ、茄子のおひたしといったおかずは、僕にとってはあまり好物でなく、僕は腹八分目以下で夕食を終えた。僕がダイニングテーブルの席を立ち、また自室にこもろうとしたとき、おふくろが「デザートに芋羊羹があるわよ」といった。それも父の好物だ。少し迷ったが僕はかぶりを振った。デザートなら足りている。
部屋の明かりを点け、ふうと大きな息をはきながらベッドに座った。何も映っていないテレビのモニターをしばらく見つめていた。そこにキーコがいる。誰も知らないプライベートなキーコ。気を置く必要など皆無な、自分だけの空間。
さあモニタリングさせてもらおうじゃないか。僕はチューナーを繋ぎ、テレビの電源を入れた。画面が真っ暗なままなかなかきり変わらなかったので、一瞬「おや」と目を丸めてしまったが、なんのことはなかった。チューナーの電源を入れ忘れている。
以前遊び道具としていじっていたとき、この高性能カメラについていくつか分かったことがあった。チューナーに文字入りの小さなシールが貼ってあるのだが、それによると「使わないときはチューナーの電源をきってください」らしい。その理由なのだが、おそらくチューナーの電源さえきっていればカメラ本体のバッテリーも消費しなくなるのだ。電源を入れっ放しだと、丸一日経てば映像は届かなくなっていた。電源をきっておけば、バッテリーがきれる気配はまるでなかった。これを律儀に守れば、少なくともキーコのいるあいだぐらいはずっとモニタリングし続けられるはずだ。
他にも、チューナーについてはコンセントプラグと一体化されていて、これをプラグ受けに差し込んでバッテリーを充電することや、映像を録画したいときはテレビではなくビデオデッキにチューナーを繋げばいい、ということなどを覚えた。改めてよくできた機器だと思う。和男くんの友達は本当に、なんという発明をしてくれたのだろう。そして和男くんは、よくこれを僕なんかに譲ろうとしたものだ。
でも、まさか僕が本当に犯罪を企てるとは夢にも思わなかったろうな。よっぽど臆病者に見えたのだろう。もう遅い。遅過ぎるぜ。カメラはもうキーコの部屋に設置済みだ。
僕はチューナーの電源を入れた。プツッと音を立て何かに繋がる気配。やがて真っ暗だった画面が徐々に光を帯び始め、見覚えのある景色を映しだした。
淡いピンクの布団と枕が乗ったベッド、右端に見きれたガラス製のテーブルと鉛筆立て。間違いない。キーコの部屋だ。棚の隙間にしかけているので左右が若干途ぎれているが、ほとんど問題ない。この部屋のプライベートは完全に消え失せている。
食い入るように画面を見つめる。一つだけ気になることがあった。キーコの姿が見えないのだ。明かりを点けっぱなしにしたまま、風呂にでも入っているのだろうか。風呂か。その選択肢もあったなと思う。キーコのプライベートだけでなく、セーラー服に包まれた少女の裸体を盗み見る。実に魅惑的だ。
ただ、それでも部屋の中には勝らない。入浴はあくまで生活の一部。ここではそれ以上に深い、キーコの決して人に語ろうとしない秘密まで暴けるような気がした。
五分ほど経過したとき、画面の隅で動きがあった。あれは、手だ。テーブルの上ににょきっと手首が現れた。もちろん、怪談はやや季節外れである。キーコだ。キーコは死角にちゃんといた。先ほどキーコの部屋に入ったときの記憶を、映像に結びつけていく。キーコが今座っているのは、テレビの前だ。
思わず壁に目をやった。
どうやらキーコはテレビを観ているらしい。なんとも拍子抜けした気分だ。なんの番組を見ているのかな、と時計を確認し、月曜日のテレビ番組表を頭の中に思い描いてみたが、空しくなってやめた。そのままベッドに寝そべり、ぼうっとキーコの動向を眺め続けていたが、まるで動きはなく、やがてチューナーの電源をきった。
扉がノックされる。僕はさっとチューナーとネクストコードのハードをテレビの台の下に隠した。
「ちゃんと勉強してるか」背広姿の父さんが僕の応答を待たずに、部屋に足を踏み入れてきた。綺麗に片づいた勉強机を見て、眉をひそめる。
「いったいお前は何を考えてるんだ。そろそろ中間考査も始まるだろう。学校の試験の成績も内申書にしっかりと響いてくるんだぞ」
「まだ一ヶ月も先だよ」
僕は父の顔を見ずに答えた。内心ではネクストコードが見つかってしまわないかひやひやしている。この瞬間に限っていえば、ベッドの下のエロ本以上に見つかってほしくないものだった。
「一ヶ月も先っつったってなあ」
ふうと溜息をつきながら、父はフローリングの床に座り込んだ。居座る気だ。僕は心底うんざりとした。
「いいか、陸。三年は今までとは違うぞ。試験前とかそんなのはどうでもいいんだ。少なくとも一日一時間はノートを開いて、それを毎日積み重ねていかねばならん。お母さんに聞いた話だがな、隣の深海さんだって毎晩遅くまで勉強してるそうだ。お前も彼女を見習え」
二年前にキーコとの関係がこじれて以降も、彼らはよく彼女を引き合いにだす。親同士の交流は続いているのだ。さすがに僕とキーコのつき合いがなくなっているのは知っているはずで、なんとなく嫌味だなと感じる。
「ちゃんと勉強するから」
そういって父を追いだし、僕は渋々と机に向かった。父のいうことももっともだ、とは思う。中学三年というこの年が、よもや一生を決めうるほど大事な時期だということを理解しているつもりだったが、心のどこかになんとかなるだろう、と楽観視している部分があるのも確かに自覚している。
せめて一時間だけでも勉強をしておこう。しかしながら、意志とは裏腹に身体が動いてくれない。教材の入ったかばんは足もとに立てかけてあるのに、腰を屈めてそれをとりだすのが耐え難く億劫なのだ。要するに、意志にやる気が伴ってこない。
父の言葉を思い起こす。キーコは毎晩遅くまで勉強しているのだという。そうだ、と僕は閃いた。時刻は八時過ぎ。そろそろ彼女も勉強を始めているかもしれない。おそらくあのガラス製のテーブルを使うのだろう。
僕はぴょんと椅子から飛び降り、再びテレビの前に陣どった。テレビとチューナーの電源を入れる。父にいわれた通り、キーコを見習ってみることにする。勉強に精をだす彼女をこの目で見れば、僕にもやる気が生じてくれるかもしれない。なんて有意義な、覗きの目的だろう。
カメラの前にキーコはいた。ただし、予想していたようにテーブルに向かっているわけではなかった。テーブルは死角に追いやられ、彼女はカーペットの上に仰向けていた。両手を後頭部に沿え、一度、二度、せっせと上半身を起こしている。腹筋だった。さすがは陸上部だ。
壁を一瞥する。壁のあちら側ではキーコが一所懸命腹筋に励んでいるのだな、と思う。だからどうした。
ただ、目論見とは違いしも、僕は映像に見入ってしまった。特に過激な格好をしているわけではない。なんの変哲もない黒いティーシャツとハーフパンツだ。しかし、画面の中のキーコは紛れもなくプライベートのキーコなのだ。これはすこぶる重要である。僕に覗かれているとも知らずに、素のままの自分をさらけだすキーコ。その事実を胸に刻みつけて見ていると、エロ本とは全然違う、今までに体感したことのない興奮を覚えた。
腹筋は続く。身体を曲げるたびに顔が歪み始める。頬も紅潮していた。このカメラにおける最大の弱点は、音声を拾えないことだ。ああ、なんてもどかしい。もし音声までカバーしてくれたら、彼女の「はあはあ」という息づかいも堪能できるのに。
無意識のうちに手がズボンにかかった。いつの間にか、あそこも熱を帯びていた。瞬きさえもせずに画面を見つめたまま、僕は右手でがっしりと〈息子〉を握った。と、その矢先、キーコはくるりとこちらに正面を向け、ベッドにもたれかかってしまった。どうやらノルマを終えたらしい。うなだれながらしばらく肩で息をする。
汗に湿った部屋着をその場で脱ぎ捨てやしないかと期待し、僕はしばしスタンバイしていたが、無駄だった。キーコは立ち上がり、部屋の明かりを消してしまった。暗くて何も見えないが、おそらくは部屋を出ただろう。
パンツを上げて、僕はふうと息をはいた。チューナーの電源を落とす。
まあいいさ。時間は無限にある。今夜はまだ序の口。これからキーコは、僕に多種多様な姿を見せてくれることだろう。もし他人に知れたら穴に閉じこもってしまわざるを得ないほどの、あられもない、プライベートだからこその嘘偽りない姿を。
歴史の教科書の、比較的興味のある幕末部分だけを黙読し、その日の勉強を終えた。以後忍者ゲームで暇を潰し、キーコの部屋をモニタリングすることもなく、十一時過ぎに就寝した。
それから三日が経過した。学校でのキーコはもちろんなんの変化もなく、いつもバラエティ豊かな級友に囲まれ、馬鹿話を繰り広げていた。僕と視線が交わったことも何度かあったが、先日のゲロ事件の影響と見るしかないだろう。
一方、家庭でのキーコも、僕の期待に沿うような生活をしてはくれなかった。
恥ずかしげもなく宣言しよう。差し当たっての目標は、キーコの着替えを覗くことだ。しかし、彼女は着替えてくれない。カメラの前で着替えてくれない。いや、そうじゃないかもしれない。着替えているのかもしれない。ただ、僕は部屋の明かりが消えていたら、バッテリーの消費を嫌ってすぐにチューナーの電源をきるため、画面にキーコが現れるのはいつも、すでに着替えを済ませ、部屋でくつろいでしまっているときなのだ。悪循環とはこのことをいう。電源をきればバッテリーの消費を抑えられるという本当は便利なはずの機能が、足を引っ張っている。キーコが部屋に入ってきて電気を点ける瞬間さえ、まだ一度も目撃していない。
まあ、誰にも知り得ないキーコのプライベートを僕だけが把握できているのだし、とりあえずはよしとするか。
キーコは部活終わりの六時過ぎに帰宅し、部屋着に着替えた上で七時頃まで時間を潰す。ベッドの枕もとの台に置いたシーディーラジカセで、音楽鑑賞をしているらしい。ボリュームは小さめで、どんなものを聴いているのか壁伝いには届かない。七時に、おそらく夕食のために部屋を出てから、八時から九時のあいだにまた戻ってくる。それからしばらくテレビを観て、腹筋を始める。腹筋は毎晩必ず行う。回数は三十回と定めているようだが、昨夜は二十七回に妥協した。すぐにまた部屋を出、次に姿を見せる際はレモン色のパジャマを着ている。おそらく腹筋のあと、すぐに風呂に入っているのだろう。
就寝の瞬間は一度だけとらえた。それまでベッドに横たわり、携帯電話で誰かと話をしていたのだが、十二時になった瞬間ぱっと通話をやめ、何かに急かされるように慌てた様子で消灯してしまった。夜更かし厳禁のようだ。
どうだ。僕ほどキーコに詳しい級友は存在するか。もしかしたら、キーコを主人公にしたノンフィクション小説でも書けてしまうのじゃないか。キーコクイズを出題されたら、難なく十問中十問正解できるだろう。
「深海って、家帰ったら何して過ごしてんの?」
耳の穴が十倍ほどまでに広がった。チョモランマ生田だ。図々しくもキーコの机に両肘を置いていた。床に膝をついている。キーコは普通に椅子に座り、腿の上に小柄な女子生徒、青柳さんを乗せていた。
「別に何もしてないよ」けろっとした顔でキーコは答えた。本日はヘアピンで前髪を両側に分けており、若干雰囲気が違って見える。
「シーディー聴いたりテレビ観たり、ぼうっとしたり」
あわわ、と僕はうろたえた。僕しか知らないことを、生田なんぞに教えるな。
「どうした?」
平島が僕の顔を覗き込んだ。ひょろっと細長い生徒で、間の抜けた顔つきが特徴だ。
「いや、別に」
僕らは黒板の前にいた。たった今昼食を食べ終えたところである。平島、そして塚田と三人で、今年の夏の新作ゲームソフトについて語り合っていたところだ。なぜ黒板の前なのかと問われれば、特に理由はなかった。
「そんでさ」塚田が続ける。
「スターズが初めてギャルゲーを作ったらしいのよ」
「マジで?」平島は大げさに驚いてみせた。
「あの硬派なスターズが? やるねえ」
話題は最新ハードのハウスコードのソフトになるのは必然だ。僕は来春までハウスコードとおさらばなので、二人がただ恨めしい。それならばキーコたちの話に耳を傾けるべきだ、と判断する。
「そういえばキーコってさあ」青柳さんが後ろを振り向いた。頭の左右のおさげの一つが、キーコの目に直撃する。
「毎朝ジョギングしてるんでしょ。すごいなあ」
「マジで?」話題はまるで違うが、平島とまったく同じような驚き方をする生田。
「すげえ、尊敬しちゃうわあ、俺」
「三十分ぐらいだけどね」指先で目もとを押さえながらキーコは頷く。
「朝の空気ってめちゃくちゃ気持ちいいよ。そのあとのご飯も超美味しいし、二人もやれば?」
「私、キーコと一緒に走ろうかな」
「あんたは足手まといになるからだめ」
キーコが青柳さんの頭をはたく。「痛あい」と青柳さんが頭を押さえ、笑いが起こった。
「おい、どうした?」
今度は塚田に訊ねられる。「なんでもない」と答えながら僕は明らかに不機嫌だった。
なんだこれは。納得がいかない。毎朝ジョギング? 僕も知らないことをぺらぺらと他人に喋りやがって。僕はキーコの部屋を覗いているんだぞ。モニタリングしているんだぞ。それなのになぜ、生田すらだし抜けない。おかしい。まったくもって納得がいかない。




