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6 日課

「キーコ」

 三時限目の終わりだった。教室の後方のドアから聞き覚えのある女子の声。僕は声の主を確認したり、キーコの反応を盗み見たりはせず、塚田とのゲームトークに集中しようとした。しかし、その肝心の塚田が思いっきり視線を右往左往させている。キーコが声の主のもとへ駆けていくのも、しっかりと目で追っている。おい、と僕は彼に話の続きを促した。


「ああ、悪い」気まずそうに塚田は笑った。

「そんでさ、バトルパレスの最上階まで登りつめたら景品がもらえるわけだけど、もうそこまできたら装備もほとんど整っちゃってるじゃん。これ以上強い武器なんて必要ねえよ、っていう」

「ああ、確かにね」


 しかしながら、後方のキーコたちの会話に耳を傾けざるを得なかった。やたらとでかい声で話しているのだ。相手はおそらく一組の田辺たなべさんだろう。キーコと同じ陸上部で、昔からかなり仲がいい。彼女の日焼けした肌や男子のような短髪、まつげの長いパッチリした目を想像しながら、聞き耳を立てる。


「制服はどうした?」

「捨てたに決まってんじゃん」

 その時点で、予想通り昨日の事件の話題なのだと見当をつける。

「スカートもスカーフも全部。いくら洗っても、もうあんなもん着れないし」


 スカートも、って、スカートはたいして汚れてないだろう、と僕は心の中でぼやく。いや、それよりも、悪いのは確かに僕だが、よくそんな話を僕に聞こえるようにできるなと思う。ただし、悲しみや怒りは湧かない。ガラスのように空虚な呆れのみだ。


「あ、まだちょっと匂うね」

「やめてよ、洒落になんないから」ころころとキーコは笑った。

「学校でもツツミ先生に借りてシャンプーさせてもらったけど、家でも十回ぐらいシャンプーしたんだから」

「冗談だって。部活のときもそんなに匂ってなかったから大丈夫。あ……」


 以後、二人の会話はひそひそ話になってしまった。ようやく僕の存在に気づいたのか、それともここからが本当に聞かせられない話なのか。もちろん、そのボリュームダウンに僕は何も関係していない可能性だってある。


「お前にいっとかなきゃいけないことがあるんだ」

 塚田が囁き声でいった。顔を近づけてきたので僕もそれにならうが、肩に溜まったふけが目に入り、すっと身を引く。

「朝、お前がくる前だけどさ。深海さん、大柳おおやぎに頼んでお前をボコってもらうとかって話してたんだ」


「え?」

 大柳といえば、我が校屈指の問題児ではないか。他校の生徒と揉めごとを起こすのは日常茶飯事。二年のときはカツアゲで補導もされていた。最近は学校にくるのも稀で、噂によると地元の暴力団の事務所に入り浸っているとかなんとか。僕も小学校時代に何度か一緒に遊んだことがあり、その当時はただ明るいやつで、これほどの不良になるとは思ってもみなかった。それにしても、キーコがなぜ大柳なんかと。


「一発ヤらせれば、なんでもいうこと聞いてくれるから、ってさ」

 僕は絶句した。


 なんたるビッチ。そこまでお前は落ちぶれたのか。僕が馬鹿だった。純白の初雪のようだったお前の心は、泥まみれの靴にまんべんなく汚されていたのだな。


「別にわざとやったわけじゃないのに、ちょっとひどいよなあ」

 塚田は納得のいかなそうな表情で、力なく首を横に振った。


「別にいいんだ」

 僕がそういってふんと鼻を鳴らすと、塚田はえっ、と目を丸めた。


 そうだ。キーコがどうしようもない女だというのは、朝の時点ではっきりしている。もう何を聞いても同じ。溜まりに溜まった生ゴミの中に、もう一つ残飯が投げ込まれるようなもの。もちろん、大柳の名前に怯んだりもしない。僕の心はすっかり固まっている。


 僕は無言で立ち上がり、窓辺に歩いた。キーコと田辺さんをちらっと一瞥すると、二人は慌てて目を背けた。人を小馬鹿にした笑みを浮かべている。笑えばいい。笑えばいいさ。今はそうして笑っていられるかもしれないが、お前はそのうち地獄を見るのだ。


 ほんの少しだけ窓を開けた。昨晩から降り始めた雨は、今も尚続いていた。風はほとんどなく、水滴が顔にかかることはなかった。僕は両手の人差し指と親指で長方形を作り、その中を覗き込む。どんよりとした灰色の空の下、サッカーボールが一つ転がっていた。


 今朝カメラのことを思い立ってから、僕はずっと考えていた。どうやってキーコの部屋に侵入し、どこにカメラを仕かけようかと。もはや良心などなかった。これはキーコへの復讐だからだ。彼女が僕に行った仕打ちと同等のダメージを与える武器はそれ以外になかった。ばれてしまうのでは、という不安も感じない。というよりばれてしまってもかまわない。僕は何よりも大切なものを失った。その何よりも大切な、キーコ自身の手によってだ。もう何も怖くない。何も失うものはなかった。


 その後の授業中も、教師の言葉や黒板の文字を頭に入れる振りをしながら、僕は計画を練り続けていた。


 実はというと、侵入経路についてはもとから考えがあった。まだカメラに飽きていなかった頃、もし本当にキーコの部屋に仕かけるなら、と仮定して想像を巡らしてみたことがあった。その結果、一つの名案にたどりついたのだ。


 ベランダだ。


 団地の各部屋には、二つ並んだ和室に沿ってベランダが設けられていた。ベランダは独立しておらず、三階なら三階で端から端まで一続きとなっていた。隣の部屋とは板のようなもので隔てられてはいたが、多少アクロバティックな動きをすれば簡単に隣のベランダへ移ることができた。


 ただ、問題が二つ。まずは、そのアクロバティックなさまを誰かに見られないかだ。ベランダ側には、駐車場を挟んで団地の隣の棟がある。こちらの建物と作りも向きも同じで、洋室の窓や階段が見える。大きな木がある程度は視界をさえぎってくれているが、もうこればっかりは神に祈るしかないだろう。運がよければ目撃されない。悪ければされる。僕にできるのは迅速な行動を心がけるぐらいだ。


 もう一つは、ベランダから部屋の中に入れるか。ベランダへ通じるガラス窓には、中からクレセント錠をかけられた。これがかかっていたならもう引き返すしかないだろう。まさか、ガラスを割って侵入するわけにはいかない。侵入した形跡を残してはいけないのだ。これも結局神頼みになるだろうか。


 しかし、他に侵入経路は見当たらない。ベランダを使うしかない。危険と隣り合わせなのは、分かりきったことだ。ここで思考停止するわけにはいかない。


 さて、侵入経路以上に問題なのは、キーコの部屋のどこにあの人差し指カメラを仕かけるかだ。隣同士ではあるが、どのような家具が置かれ、キーコがどのように生活しているかなどは想像もつかない。わざわざ危険を犯して侵入するのに、まともに覗けないような場所に隠すのでは意味がない。


 その場での判断力が要求されるだろう。まずはこの目でキーコの部屋の内装を把握し、それから絶対に見つからない場所を探し当てる。ハヤブサのように俊敏でなくてはならない。さっと見て、さっと考え、さっと隠し、逃げる。僕なんかにできるだろうか。いや、やるしかない。できる、と断言するしかない。




 迷いの吹っきれた晴れ晴れとした気持ちが時間を忘れさせたのか、あっという間に放課となった。授業中に練りに練った作戦を、更に煮詰めながら僕は帰宅していた。ふと空を仰ぎ見て、何かに急き立てられるような圧迫感と、使命感を覚えた。


 昼頃から雨はやみ、現在では陽が差すようにまでなっていた。これは天のあと押しなのかもしれない。雨が降っていてはさすがに痕跡が残ってしまいそうなので、来週まで引き延ばすつもりだった。そして、明日からは休日だ。キーコが外出していたとしても、平日は留守にしているだろう彼女のおばさんや兄さんが在宅かもしれない。


 やるしかない、と僕は思った。来週まで待っていては、また僕の気が変わってしまう可能性がある。そもそも、晴れているのに来週まで待つ、という行為自体、気が変わった証拠といえるのではないか。それに、天が味方についた今日なら、何をやってもうまくいきそうな気がする。


 決めた。今日だ。今日こそが吉日なのだ。


 やがて団地に帰りつく。階段を上るあいだも思考は続いた。帰ったらまず動きやすい服に着替え、頭の中でキーコの家に侵入するシミュレーションを重ねる。準備が整ったらキーコの家に電話をかける。家人の不在を確認するためだ。誰かが出てしまったときは無言できるのが賢明だろう。そんなことを考えつつ、僕は三○五号室の玄関扉の鍵穴に、鍵を差し込んだ。


「ん?」

 鍵が回らない。いや、すでに開錠されているのだ。まさか。


「よお」

 居間に入ってきた僕を、父さんが片手を上げて迎えた。畳みに寝転がり、肘をついてテレビを観ている。上半身にパジャマ、下半身にトランクスというだらしのない姿だ。僕は溜息をつきながらかばんを下ろし、制服を脱ぎ始めた。


「休みだったの?」

「明日から出張でな」テレビに目を向けたまま答える。

「特別に休みをもらったんだ。悪いがのんびりさせてもらうぞ」


 そういえば、今朝家を出るときにそんなことを母と話していたような気がする。僕はパジャマに着替え、自室へ入った。明かりも点けずベッドに腰かけ、またはあと溜息をついた。


 何が天のあと押しだ。もしキーコの家が留守だったとしても、僕の家に家族がいるのならどうにもならないじゃないか。やむを得ないので、作戦実行は来週に延期する。


 それにしても、なんだか根こそぎ気分をそがれてしまった。ひどく疲れを感じる。こんなときはやはりあれ、日課を済ませるに他なかろう。


 僕はベッドの下から雑誌をとりだした。女の人のあられもない写真が多数掲載されている雑誌、つまりエロ本だった。僕の日課というのはその、世間一般にいうオナニーってやつだ。それを知り、始めたのは、丁度中学に上がった頃だったか。だいたい学校から帰ったこの時間帯、一日の疲れを癒すかのように僕は毎日それに励む。当然、このことを僕以外に知る者はいない。エロ本が家族に見つかっていなければの話だが。


「あっ」

 ふと思いつき、エロ本をしまった。今まで僕は頑なに、キーコを性の対象にしようとはしなかった。彼女がけがれてしまう、という思い込みからだった。しかし、実際にはもう彼女はとっくにけがれてしまっている。それならば遠慮はいらない、と思う。復讐の第一歩として、本日はそれを覆してしまうというのも、なかなかいい案ではないか。


 しかしながら、キーコの裸の写真など持っていないので、普通の写真から想像を膨らませることにする。僕は勉強机の上に立てかけてあった小学校の卒業アルバムを手にとった。中を開き、キーコの写真を探す。


 深海紀伊子きいこと書かれたその上部の写真を見た途端、僕は一気に萎えた。


 キーコはあのにこにことした笑顔を燦然と振りまいていた。ああ、なんて魅力的なのだろう。一点の翳りもない純粋な笑顔。僕の心の中にはいつもこの子がいたのだ。確かにキーコはけがれてしまった。でも、写真の中の彼女の姿もまた真実。愛しい。とてつもなく愛しい。僕はこんなに愛しい女の子のプライベートを奪おうとしているのか。


 ふっ、と僕は柔らかく息をはいた。なんて愚かな企みをしたものだろう。やめだ。今のキーコを裏ぎるのは、かつてのキーコを裏ぎるのと同じ。そしてそれは最終的に自分への裏ぎりにも繋がるのだ。


 冷静になったところで部屋の明かりを点け、僕はゲームを始めようとテレビの電源に手を伸ばしかけた。


「あれ?」

 そのときになって初めて気がついた。ハウスコードの本体がない。テレビ台の下からこつ然と消えてしまっている。

「あれ? あれ?」


 部屋の中をくまなく探すより前に、僕はドアノブを握った。


 居間の父さんに声をかける。

「僕の部屋にあったハウスコード知らない?」


「売った」

 僕に背中を向けたまま父は答えた。


「は?」

「まずは勉強に精をだせ」依然、父はこちらに顔を向けない。

「来年ちゃんと公立高校に受かったら、同じものをまた買ってやる。それまでは我慢しなさい」


 僕は必死に平然を装い、「そう」とだけ返事をしてから自室に戻った。バタンと扉を閉めた瞬間に、心の奥底からコールタールのようにどろどろと黒い感情がこみ上げてきた。


 そんなに息子を犯罪者にしたいのなら、僕は何もいわない。お望みどおり、やってやるさ。


 再び卒業アルバムを手にとる。乱暴にページをめくりながらベッドの上で仰向けになる。キーコの笑顔が現れた瞬間、僕はパンツをずり下げる。


「やってやる。やってやるからな」


 僕の右手が火を吹いた。



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