5 理性を失ってしまうのは
翌朝登校すると、キーコは渚さんや数人の男子に囲まれて楽しげに話をしていた。僕が教室に入ってきた瞬間一人の視線が僕に移り、それに伝染してキーコや他の面々も順々に僕を一瞥した。そして、くすくすと顔を見合わせて笑っていた。ひょっとしたら僕の話題かもしれなかった。
「よお」
塚田が何ごともなかったかのような、いつもの朝の挨拶をしてきた。挨拶を返し、僕も自分の席につく。
「昨日レベル上げやってたらさ、トードランド地方にミニモンが出たぜ」
「ミニモン?」
「知らねえのかよ」仕方ねえなあ、というふうに塚田は溜息をついた。
「伝説のモンスターだよ。滅多に出てこないけど、倒したらミニモンソードっていう凄まじい武器を落とすんだぜ」
「倒したのか?」
「倒せるわけないだろ」
僕は何も答えず、教材をかばんから机の引きだしに移していった。僕のそんな様子を見て、塚田もつまらなそうに前を向き直してしまう。少しだけ罪悪感を覚える。いつもなら僕も積極的にゲームの話に乗ろうとするのだが、今日はさすがにそんな気になれなかった。
「手塚くん」
珍しく女子に声をかけられる。「ん?」と僕が声のしたほうに顔を向けると、視界の隅で塚田も顔を動かしていた。
声をかけてきたのは佐野さんだった。面長な顔と細い目のせいで男子の人気はまるでないが、将来美人になる可能性を秘めているともいわれる。キーコと同じようなショートカットをしている。彼女は中学三年間を通して僕とずっと同じクラスだった唯一の女子生徒だ。女子との接点がほとんどない僕からすれば、親しいといえる部類に入る。彼女の後ろにはもう一人、目つきの悪いおさげ髪の女子がいた。三宅さんといって、こちらはほとんど口を聞いたことがない。
佐野さんは意地の悪い笑みを浮かべていた。
「深海さんにゲームソフトをあげたんだって?」
「え?」僕は目を丸めた。
「う、うん。もう知れ渡っちゃったんだ」
三宅さんが口もとを手で覆う。明らかに笑いをこらえている。彼女をちらっと見てから佐野さんは続けた。
「あのさあ、深海さんは手塚くんと違ってゲームオタクじゃないんだから、そんなもんあげたって逆効果に決まってるでしょ。私だって、深海さんの身になったら怒りたくもなっちゃうよ」
「えっ」思わず立ち上がりそうになるが、自重する。
「キーコ、なんかいってた?」
それから横目でキーコを見やる。とり巻きたちはみんな、時折こちらに探るような視線を入れていたが、彼女だけはそっぽを向き続けていた。
「名前で呼んでるし」
三宅さんのその言葉に、佐野さんたちはアイコンタクトをとって笑い合った。かつての僕とキーコの関係を知らないのだろう。僕は何もいわずに二人を睨みつけた。
佐野さんは答えた。
「『あんなもん持ってきたって許すか。せっかくならケーキでも持ってこい』って笑ってた」
その光景を思いだしたのか、三宅さんがまたぷっと吹きだす。僕の目の前にきて、正々堂々と大笑いしてほしいと思う。
「いや、本当にさ。手塚くんを傷つけようと思っていってるんじゃないよ。ただのアドバイス。二年まで同じクラスだったよしみというかさ。とにかく、今度はちゃんとケーキを持って謝りにいきなさい」
「キーコは……」
僕がそういいかけたところで、チャイムが鳴った。朝のホームルームの開始を告げるものだ。佐野さんと三宅さんは、僕の言葉の続きを促すこともなく、そそくさと自分の席についた。
岩口が姿を現して、教壇で話を始めた。そのあいだ、僕はキーコの横顔を眺め続けていた。
佐野さんの話が本当なら、キーコは自分をゲームオタクの仲間にされたのに腹を立てたというわけか。キーコがいまだにゲーム好きだと思い込んでいた昨日までならいざ知れず、今となってはその気持ちも分からないでもなかった。
しかし、そうなるとあれはなんだったのか。
すでにゲームソフトを差しだした後だったはずだ。僕を嫌いになったわけではない、距離を置いたのは友達の目を恥ずかしく感じたから、これからはまた仲よくしよう、イーティーシー……
あれらの言葉が嘘だったのなら、なんという残酷な女なんだ。一度は僕をその気にさせておいて、そこから一気に地獄へ突き落とす。悪魔だ。悪魔に魂を売った女のみが成せる業だ。
キーコが後ろを向き、穂積さんと一言二言交わして無邪気に笑った。なぜだ。なぜそんなふうに笑える。昨夜のお前の蛮行のせいで、僕は夜も眠れなかったのだ。責任など微塵も感じていないのか。
もはやショックや悲しみといった感情は消え失せていた。僕の中に渦巻くのはただ、如きの知れない憎悪のみ。あいつを懲らしめてやりたい。僕と同じように地獄の底まで案内してやりたい。何かないか、何か――。
岩口の話が終わるとほぼ同時に、僕はそれに思い当たった。今年の正月のことだった。
正月といっても、三が日を過ぎた五日や、六日頃だったと思う。何年ぶりかに、おふくろの兄、つまり伯父一家が我が家を訪ねてきた。家族構成はうちとまったく同じで、父母に息子一人の三人。ただ、伯父さんはおふくろよりも十以上年が離れていて、従兄弟の和男くんもすでに成人していた。僕が物心ついたときにはすでに学生服を着込んだ中学生だったはずで、今ではもう二十代半ばになるのかもしれない。
和男くんは家に足を踏み入れるなり、僕の部屋へきた。手にさげた紙袋を見て、僕は期待で胸を昂らせたものだ。彼も僕と同じく病的なゲーマーであり、新旧さまざまなハードやソフトを所持していた。僕の家にくるときはいつも、それらを山のように紙袋に詰めてきてくれるのだ。ただ遊ぶだけでなく、太っ腹にも片っ端から譲ってくれることだってあった。
「陸、こいつを見てみろよ」
和男くんが袋からとりだしたのは、携帯電話ほどの小さな機器と、更に小さな人差し指ほどの物体、それにコードのようなものだった。手にとってそれらを眺めてみるも、それらがなんなのか判別はつかなかった。
「カメラだよ」と和男くんが口にしたとき、黒ぶち眼鏡の奥の二重瞼の瞳がいたずらっぽく光った。僕は訝しげに「カメラ?」と訊ね返した。ゲームじゃなかったことに若干の落胆を覚えていた。
「俺の友達が開発した超小型シーシーディーカメラなんだ。こいつは本当にすげえよ」
携帯電話のほうの端子にコードを差し込んだ。そしてそれをテレビに繋ぐ。それからしばらく理解不能な操作を携帯電話に施し、最後にテレビの電源を入れた。
テレビには意味不明な映像が映しだされていた。そう思ったのも束の間、画面はすっとスライドし、今度は人の横顔をとらえた。僕だった。
「え?」と和男くんに顔を向けると、彼はにやにやしながら、人差し指大の機器のほうを指でつまみ、それを僕に突きつけていた。
「すごい」和男くんとテレビの画面を見比べて僕はいった。
「無線式なんだ」
和男くんの持つ機器、あれがカメラ本体なわけだ。そこからはコードが伸びていない。
「無線式でこの画質、惚れ惚れしちまうだろう」
そういいながら和男くんはカメラを自分に向けた。画面にはふざけてあごをしゃくらせる、ひげ面の男が映っていた。被写体は汚いが、画像は本当に綺麗だ。ハイビジョンとまではいかないが、携帯の動画などに比べればだいぶ勝っている。
「このカメラの最も優れた部分を教えてやろうか。なんと、バッテリー交換の必要がないんだ」
「バッテリー……」その方面の知識はあまりないが、とてもすごいことなのだろうと思う。
「どうして必要ないの?」
「レンズから、蛍光灯の明かりをバッテリーとしてとり込むことができる」レンズの部分を指でちょんちょんと示す。テレビ画面が暗転を繰り返す。
「すなわち明かりの点く屋内にとりつけてさえいれば、まったくいじらなくても半永久的に作動し続ける。まあ、消費のほうが若干早いから停止しちまうこともあるけど、丸一日もすればもと通りらしい」
僕は和男くんからカメラを受けとり、それをしげしげと眺めてみた。
「和男くんの友達、すごいね」
「ああ」和男くんは深々と頷いた。
「イナバっていうんだけどよ。あいつと友達じゃなかったら、そんなハイテクなもん一生お目にかかれなかったよ。買えば五十万を下らないだろうしな」
「ご、五十万!?」僕はさっとカメラを床に置いた。
「そ、そのイナバって人、これを和男くんにくれたの?」
「そうだ。そして今度は俺が陸にやる」
「ええ!?」
僕が大きな声を上げてしまったので、和男くんは閉ざされたドアの向こう、居間の両親たちを気にした。なぜ両親たちに聞かれたらまずいのかは分からなかったが、囁き声に変えて僕はいう。
「もらえるわけないじゃん。こんなすごいもの僕が持ってても、なんの役にも立たないよ」
「もらっとけって。俺が持ってたらマジで理性を失いそうになるんだ」
理性を失いそうになる、というその言葉の意味も僕には理解できなかった。
「でも、こんなにすごいもの……」
「まあ、ただ短所だって一応はあるぜ」僕の言葉をさえぎって和男くんはいった。
「チューナーとの距離が半径十メートルを超えちまうと、途端にノイズが増えちまう。二十メートルを超えるともう何も映らねえんだ」
携帯電話ふうの機器のほうがチューナーなわけだ。
「十メートル?」
「だから、あんまり実用的じゃねえんだよ」悔しそうな表情を見せる和男くん。
「でもさ、俺の家の隣にはめちゃくちゃ美人な女子短大生が住んでやがるんだ。もう、本当に悶々としちまってさ。ついそのカメラを使いたくなっちまうわけよ」
ようやく僕は合点がいった。そしてひどくうろたえた。
「これってもしかして、盗撮用なの?」
「その限りというわけじゃない」厳しい顔つきで和男くんはかぶりを振った。
「事実イナバも、表向きは家庭用の防犯監視カメラとして開発した」
「家庭用監視カメラなのに、部屋の中でしか使えないの?」
「ああ」
当たり前のように和男くんが肯頷したそのとき、僕の頭の中に自分でも身震いするような恐ろしい考えがよぎった。
そうだ。僕の隣にはキーコが住んでいる。キーコの部屋はこの部屋と壁一枚を隔てて密接している。間違いなく十メートルの範囲内だ。
「やっぱりいいよ」と僕は激しく首を横に振った。
「やっぱり五十万なんて荷が重いし、使い道もないから和男くんが持っててよ」
和男くんは赤の他人の女子短大生。僕は積年片想いしている同級生。理性を失ってしまうのは間違いなく僕のほうだ。
「そうか、残念だな」
力なく和男くんがそう口にしたところで夕食に呼ばれた。
夕食のデリバリピザをわいわいと楽しんで食べたときには、すでにカメラのことなんて頭から抜けていた。やがて日が変わる直前に、伯父一家は我が家をあとにしていった。そして僕が部屋に戻り、寝る前にやりかけのロールプレイングゲームを進めておこうとテレビをつけたときだった。
テレビの画面はまだ僕の部屋を写していた。和男くんがカメラを忘れていったのだ。
後日電話でそのことを告げると和男くんは、「すっかり忘れちまってたな」と楽しそうにいった。
「次いくときにはちゃんと持って帰るから、しばらくあずかっといてくれよ。それまではまあ、自由に使ってくれていいから。ただ、もし捕まっても俺やイナバの名前はだしちゃだめだぜ」
僕はがくっとうなだれ、受話器を置いた。
再び和男くんが訪ねてきはせず、それからはや三ヶ月以上が経過した。
幸いにも僕が理性を失うことはなかった。何せ、ばれたときが怖い。もしばれたら、と想像するだけで首を吊りたくなる。他人の家にこっそりと忍び込むのもそうだし、小型とはいっても隠す場所を誤ると簡単に見つかってしまう。ばれる可能性は計り知れない。
もちろん、キーコを大事に思っての選択でもある。いくら自分自身にといえども、好きな女の子のプライベートを他人の目に晒すだなんて許せなかった。そして、罪を犯してまで彼女のプライベートなど知りたくはない、という一端のプライドまであった。
キーコに使わないとなると、意外とカメラはつまらないものだった。始めの頃は確かに珍しくて、遊び道具として色々と試してみた。台所に設置して料理を作るおふくろをこっそりと眺めたり、窓の外に向けて景色を眺めたり。いずれも初日で飽きた。いつしかカメラに対する興味は薄れ、机の引きだしの中に封印したまま、今の今まで僕はその存在を忘れていたのだった。




