4 凍死してしまいそうなほど
七時前におふくろが帰宅し、半頃に夕食のため自室を出た。そのときまで、まだキーコは友達を帰していないようだった。居間のテーブルで冷凍食品の餃子をおかずに黙々と食事をしていると、八時頃には父さんが帰ってきた。
「急に降りだしたな」
姿を見せるなり、苦笑しながら父はいった。身長が百八十以上あり、やたらと背広の似合う人だった。その背広の肩辺りが、雨に濡れている。すっかり日も暮れており、窓の外に雨が降っている様子は見てとれなかったが、耳を澄ますと確かにしとしとと雨音が聞こえた。
「あら」おふくろは意外そうに口をすぼめた。
「私が帰ってきたときは、晴れてたのに……」
四十過ぎの父に対し、おふくろはまだ三十五だ。明るい茶のショートボブカットの髪型と、すらりとした体型が、実年齢よりも更に若々しく見せている。
「おい、陸。ちゃんと勉強やってるか」寝室で着替えを済ませた父が僕の隣に座り、僕の肩に腕を回してきた。ティーシャツにジャージという姿だ。
「頼むから公立の高校に受かってくれよ。うちじゃあ私立の学費なんて払えないからな」
「分かってるよ」
ぶっきらぼうに答え、食後のアイスコーヒーをストローで啜った。今年に入ってから、顔を合わせるたびにそう念を押されるようになった。そりゃあ、僕だって我が家の財政難には薄々と勘づいているのだから、公立の高校に受かるレベルの成績を保とうとは心がけている。
「なんだ、その態度は」眉間にしわを寄せる父。
「お前はなあ、いつも、いつも、ゲームばっかりして、ちっとも試験勉強をしとらんだろうが。三年になったらもう、入試なんてあっという間だぞ」
「ちゃんと合間には勉強してるよ」おふくろがなだめるように、父にいった。それから僕に顔を向ける。
「ね? 陸ちゃん」
僕は答えず立ち上がり、浴室へ向かった。「風呂から上がったら勉強しろよ」と、背中越しにまた父の威圧的な声を聞いた。
キーコの部屋から、賑わいは消えていた。ただ、夕食をとったり入浴したりしているうちに、今夜彼女の家を訪ねるのが億劫になり始めていた。
やはり、緊張するのだ。学校での例の件を謝るとかどうこうじゃない。キーコと二年ぶりに口を聞く、という当初からの不安が、今になって胸に押し寄せてきた。思えば事件の直前、渚さんたちと話をするキーコの前に僕が姿を現したときも、彼女は僕を無視し、はっきりと拒絶の意志を示していた。
今夜中に謝るべきだ。しかし、冷凍食品の夕食と緊張のせいで、また吐き気をもよおしている。こんな状態で会えば、同じ過ちを繰り返してしまうのではないか。それに、急に降り始めた雨のことだってそう。雨の日に訪ねられるのはあまりいい気がしないのではないか。ただもう一方で、それらの考えが単なる逃げのとりつくろいだというのを理解している自分もいた。
僕は大きく溜息をつき、お詫びのゲームソフトが入ったビニール袋を手からさげた。結局はいくことにした。あとはもうなるようになれ、と天に任せるしかない。
部屋の窓から外を覗いた。降りはかなり激しくなっている。まずは、こんな時間のこんな雨の中にどこへ出かけるのかを、両親にきちんと説明しなければならない。僕が夜一人で出歩くなんてことは、今までに一度もなかったからだ。もちろん、正直にいうつもりはない。何か上手い口実を考える。キーコの家にいくだけで、たいして時間はかからないだろうから、休んでいた友達に宿題のプリントを渡しにいく、といったところでオーケーだろう。今の時間まですっかり忘れていた、とつけ加えよう。
僕は部屋を出て、居間でテレビを観てくつろぐ両親にそう告げた。二人とも若干訝っていた様子だったが、「気をつけていきなさい」と送りだしてくれた。
玄関外の階段を下りる歩調よりも、胸の鼓動のほうが幾分早かった。「ふう」と何度も大きな息をはきながら、僕はしきりに服装の乱れを直した。ティーシャツにジャケット、チノパンツ、まるで休日に街へ繰りだすかのような格好だった。今からキーコと会うのだから当然だ。
一階まで下りたところでビニール傘を広げ、壁に沿って一直線に隣の階段を目指した。ばたばたと雨が傘を打つ。足もとを濡らさないよう注意する。
肌寒さもあり、ぐっとあごを締めて僕は歩いた。あっという間に中央の階段にたどりつき、そこを上る前に一度、深呼吸をした。緊張感は拭えなかったが、意を決し歩を進めた。
くすんだ蛍光灯の光のもと、僕は立ちどまる。三階のキーコの家の、玄関の前までやってきた。実は、ここまでは過去に何度も足を運んでいた。いずれも小学校時代だが、先刻の口実のように、キーコが風邪で欠席した際に連絡帳やプリントを届けたり、宿題がまるで分からず彼女に写させてもらったりもした。ああ、あの日々はどこにいってしまったのだろう。これからの展開次第で、また戻ってきてくれるだろうか。
もう一度、深呼吸をした。キーコは父を早くに亡くしており、おばさんと、僕とは面識のないお兄さんとの三人暮らしだ。おそらく最初はおばさんが顔をだすはず。夜分遅くに申し訳ありません――いや、お久しぶりです、が先か。
キーコのおばさん、それからキーコとの会話を五分近くはシミュレーションし、僕はようやく呼び鈴を鳴らした。同時にふと、事前に電話をしておくべきだったか、と頭をかすめたが、すぐに振り払った。そんなことをして、くるな、といわれたら、もう二度と話しかけることなんてできないような気がする。
ガチャ、と扉が外に開いた。はい、といった応答がまるでなかったため、僕は心持ち緊張感を高めた。そして、僕の予感は当たっていた。
中から身を乗りだして、ドアノブを握る人物。それは紛れもなくキーコだった。薄い長袖のティーシャツ。下にはスウェットのパンツをはいていた。その髪の毛や服には、おふくろの弁当をかぶった名残などもちろんなく、生まれ変わったかの如し清潔さに溢れていた。玄関の白熱灯はついておらず、キーコの背後から生活的な明かりが届いていた。
僕はとり乱した。キーコ自らが応対する可能性を、なぜか一パーセントも考えていなかった。「ああ」とか「うう」とか、呻き声に近いものをただ口にするだけで、こんばんは、の「こ」の字も出てこない。一方のキーコは無言、しかも無表情で、哀れな僕の姿をじっと見つめているだけだった。
「ご、ご、ご、ごめん」
とようやく言葉らしい言葉が僕の口から出た。キーコの反応はない。表情も読みとれない。僕が頭を下げていたからだった。
「いいよ」
僕はばっと顔を上げた。キーコは同じ表情のまま少しだけ顔をうつむかせていた。こんなときになんだが、とても可愛いらしく見えた。
「わざとじゃないんでしょ。だったら、いつまでも根に持ったりしない」
「もちろん、わざとなんかじゃないよ」
こくりこくりと何度も頷き、僕は興奮気味に話した。すると、つばがキーコの顔に飛んでしまい、彼女が顔をしかめてそれを拭った。「ごめん」とまた恐縮して謝る。
「もう用はない?」冷たい口調でキーコはいい放った。徐々に扉が閉められていく。
「だったらまた明日ね。おやすみ」
確かにひとまずの謝罪は終えたが、だめだ、と僕は思った。このまま帰ってしまってはきっと、明日の朝にはもと通り。僕らの関係はこれっぽっちも修繕しない。
「ちょっと待って」
がっしりと扉をつかむ。キーコは訝しげに眉を寄せた。
「渡したいものがあるんだ。お詫びの品っていうか」ビニール袋を差しだす。
「キーコ、ゲーム好きだったよね。この中に何個か入ってるから、もしよければ遊んでくれない?」
キーコがビニール袋を受けとる隙に、僕はまた扉を全開させた。
袋からケース入りのソフトをまとめて抜きだすキーコ。一つずつ、表裏のジャケットをじっくりと眺める。やがて顔を上げ、こう訊ねてきた。
「これって、なんのソフト?」
「なんの、って……ハウスコードのだけど」
「ああ、シーエムでよくやってるやつね」納得したように頷き、キーコはソフトを袋に直した。そしてそれを僕に突き返してきた。
「悪いけど、ゲームなんてとっくの昔に卒業しちゃったし、ハウスコードも持ってないから」
がーん、と僕はショックを覚えた。よく考えたら、昔、キーコの家で遊んだのは、当時ですら古くなっていたはずの数世代前のハードだった。その後彼女はゲームから遠ざかり、最新ハードのハウスコードを所持してすらいなかったというのか。
「そ、そうか」落胆を表情にださないようにそう呟きつつ、僕は袋を受けとった。
「じゃあ今度、もうちょっと古いやつを改めて持ってくるから」
「もういいってば」面倒くさそうにキーコはかぶりを振った。
「ゲームなんかしないっていってるでしょ。学校でのことはもう本当にいいから」
また扉を閉めようとする。僕はなんだか無性に悔しくなり、気がつけば叫んでいた。
「待ってくれ!」
辺りが静かなだけに、その声は団地中に響き渡ったかもしれない。キーコの家族が様子を見にくるかとも懸念されたが、奥から誰かが顔を覗かせることはなかった。
唖然とした表情のキーコに向かって、僕は声を落としつつも続けた。
「昔はよく、一緒に帰ったりしたじゃんか。キーコの家に遊びにいったりもしたじゃんか。中学に入ってからも、僕はずっとそのままの関係を続けていくつもりだったのに、なんでキーコは僕を避けるんだ」
キーコはうろたえるように目を泳がせた。
「別に避けてるわけじゃ……」
「避けてる」キーコの言葉をさえぎり、僕はきっぱりといった。
「僕はずっとそのことを気に病んでいた。だから、久々に同じクラスになったのを機に、キーコに話しかけようとしたんだ。それがあんなふうになってしまったのは本当に悪かったと思う」
ほんの少しだが、涙声になっていた。自分でも、情けないなあ、とは思う。「でもさ、結局なんなんだよ。わけも分からずにキーコに嫌われて、こうして謝りにきても冷たく突き放されて。そもそもの理由を教えてくれよ。僕が何かをしたのか? 何かしたなら謝るから」
それだけ話し終えたとき、キーコは考え込むように足もとに目を落としていた。互いに沈黙し、十秒ほどが経過した。やがてキーコはふっ、と和らいだ息をはき、僕と目を合わさずに呟いた。
「私が悪かったよ。ごめん」
目の前がパッと明るくなった気がした。
絶えず降り続ける雨音が、まるで僕への喝采の音に聞こえた。僕とキーコの二年越しの確執が、ついにこの瞬間幕を閉じた。まだそうと決まったわけじゃないのに、僕は確信していた。
気まずそうに視線を下げ、キーコは続けた。
「りっくんのこと、嫌いになったってわけじゃないんだ。ただ、二人で仲よくしてるところを友達とかに見られたりするのが、すごく恥ずかしく感じるようになって」
希望通り、思春期説が当たっていた。
「りっくんには悪いなって思ったんだけど、でもだんだんと環境とかも変わって、そのうちりっくんのことが頭から消えちゃったというか、なんていうか……」
もう充分だった。キーコが突然僕を邪険に扱い始めた理由がはっきりしただけでも、大満足だった。
「また、一緒に遊ぼうよ」
笑顔を作り、僕は敢えてそういった。「え?」と僕を見つめるキーコ。
「この二年間のことは僕も忘れる。だからさ、前と同じように友達として、残りの一年間を仲よくやっていこうよ」
少しのあいだ、逡巡していたが、
「前と同じように、とはいかないかもしれないけど」キーコはこくりと頷いた。
「分かった。仲よくやっていこう」
そして、ほんのわずかであるも笑みを浮かべた。
僕は涙腺が緩むのを必死でこらえた。もはやいつ以来だったかも分からない久しぶりの、僕に向けられたキーコの笑顔を前にして、胸を震わせた。
「これ、受けとってよ」
ハウスコードのソフトが入ったビニール袋を、キーコにまた返す。
「え? だって……」
キーコは戸惑いの混じった表情を見せた。
「そのうちキーコのお兄ちゃんが、ハウスコードを買ってくるかもしれないじゃん。どうせ僕はやらないんだし、キーコが持ってたほうが有意義だ」
気持ちが昂っていた。ゲームソフトのことなんて本当はどうでもいい。ただ、どんな話題でもいいからキーコといつまでも話していたかった。何せ、二年間もおあずけを食らっていたのだから。
「えー」
眉をひそめつつも、キーコは目を細めていた。笑っている。僕との会話を楽しんでいる。
「そうだ」えへへ、と僕はにやけた。
「仲直りしたんだから、仲直りの握手をしよう。さあ、手をだして」
冗談じみてそういい、右手を差しだす。すると、キーコの顔が一瞬強張ったように見えた。さすがに調子に乗り過ぎたか、と僕は不安になったが、すぐにキーコの表情は緩んだ。杞憂だったと分かり、胸を撫で下ろす。
「りっくん」
キーコは優しげに微笑んだ。
その天使のような笑顔に僕は釘づけとなり、思わず頭をぼうっとさせた次の瞬間、
バン! と不自然な衝突音が足もとから響いた。
「え?」
僕は地面に視線を落とした。どこかで見た気がするビニール袋が、コンクリートの上に寝そべっている。ビニール袋の中からこれまた見覚えのあるゲームソフトが飛び出ており、その中の一つは階段を数段下りた先にまで達していた。
はっ、とキーコに視線を返すと同時に、僕は背筋に氷点下の寒気を覚えた。
彼女は先ほどまでとは打って変わった、氷よりも冷たいまなざしで、僕を睨みつけていたのだ。
「今日のことは忘れてあげる」その口調すら、凍死してしまいそうなほど冷たかった。
「だから、もう二度と私に話しかけないで」
勢いよく扉が閉ざされる。キーコを引きとめようと突きだした手が、空しく宙をさまよった。
それから約五秒後、雨音だけの静まり返った空間に再び扉が開く音。僕の背後、キーコの家の向かいの玄関だった。しわがれた女性の声を背中に聞く。
「ちょっとさあ、いい加減にしてくれない。あんたら、今、何時だと思ってんの?」
返事どころか、僕は後ろを振り向きもしなかった。口をぽっかりと開け、ひたすらキーコの家の玄関扉を見つめ続けた。




