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3 謝らないわけには

 悲痛そうに顔を歪ませながら、キーコがばっと飛び起きた。肩を小刻みに震わせ、声にならない声で何かを喚き続けている。


「な、何してんだよ、お前!」

 生田が怒鳴った。渚さんは先ほどまでの威勢のよさはどことやら、今にも逃げだしそうな体勢で鼻をつまみながら、怯えたようにただキーコと僕を見比べていた。僕はというと、これ以上の被害を食いとめようと両手で必死に口を塞いでいた。指のあいだからポタポタとそれが床に滴り落ちている。


 オブラートに包んでいうと、おふくろの弁当だった。僕の口に入ったはずのご飯や油もの尽くしのおかずたちが、原理に従わず、再びまた僕の口から出てきた。たまたま真下にキーコの後頭部があり、彼女がそれを頭から浴びてしまう形となった。


 教室内の至るところから悲鳴が上がっている。非情な男子の笑い声まで聞こえる。僕にもキーコにさえも、決して好意的とはいえない視線が集まっている。


「大丈夫?」

 始めにキーコに駆け寄ったのは穂積さんだった。頭どころか、肩や背中までもがおふくろの弁当まみれになっているキーコの腕をとり、そのままどこかへ引き連れていく。進行方向にいた僕がさっと脇に寄ると、近くにいた渚さんが椅子から立ち上がり、僕から遠ざかった。


 キーコはもう静かになっていた。僕の目の前を通ったときに彼女の表情を窺おうとしたが、うつむいていたためよく見えなかった。ただ、目もとを手で覆っているのは確認できた。泣いていたのだろうか。


 キーコが教室を出るときには、多数の女子生徒を引き連れていた。みんなキーコを案じたり励ましたりしている。僕はぼうっとその様子を見守っていた。すでに吐き気はなく、代わりに得体の知れない喪失感のようなものを味わっていた。ああ、保健室に連れてくのかな、と他人ごとのように心の中で呟いた。


「大丈夫か」

 生田が声をかけてきた。なんともいえない複雑な表情を浮かべている。他の生徒もだいたい同じような顔で、あからさまな非難のまなざしを僕に向けている者は少ない気がした。一応は、たった今の僕の行いが故意によるものではないと理解してくれているのかもしれなかった。それとも、学級内での評価が地に落ちることになるであろう、この同級生を哀れんでいるのか。


 学級委員の横井よこいさんという眼鏡をかけた女子生徒が、乾拭き用の黄色いモップを持ってきた。それを床に散らばったおふくろの弁当にかぶせようとしたとき、一人の男子がそれを制した。


「待て待て」サッカー部の青木あおきという、がっちりとした体躯のやつだった。

「そんなもん拭いたら、そのモップ使えなくなっちまうだろうが」


「だってえ」唇を尖らせる横井さん。一旦目を落とし、じっとおふくろの弁当を見つめた。

「じゃあ、青木くんが雑巾で拭いてくれる」


「はあ!?」青木は目と口をひし形にした。

「ふざけんなよ。なんで俺がやんなきゃいけねえんだよ! お前がやればいいだろ!」

「絶対無理だし」


「ぼ、僕がやりますんで」

 すかさず僕はいった。敬語になってしまったのは、胸を支配する罪悪感からだった。教室の隅の掃除用具入れに小走りで向かうと、女子生徒たちが僕の動きに合わせて反動を繰り返した。磁石のエヌ極にエヌ極を近づけたときのさまに似ていた。


 ひざまずいておふくろの弁当を拭きとる僕を、みんなは黙って見下ろしていた。そんなときに岩口が教室に入ってきた。一人で片づけをする僕を見て眉をひそめ、

「お前ら、手伝ってやるっていう気にはなれんのか」

 と生徒たちに向かっていった。事情は聞いているのだろう。


 率先して動いたのは横井さんだった。しぼった雑巾を持ってきて、僕の隣に四つん這いになる。献身的ないい子だと思う。おふくろの弁当のほとんどはキーコと一緒に保健室へ運ばれたため、床に散らばったものはもともと少なかった。もうほとんど僕が掃除し終えていたこともあってか、岩口は他の生徒がまったく動こうとしないのを咎めたりはしなかった。


 水分を吸った跡はどうしても残ってしまうが、とりあえずは片づけを終えた。その頃には穂積さんを始め、キーコにつき添って教室を出ていった女子生徒たちもみんな帰ってきていた。ただ、キーコは戻らなかった。


 廊下に設置された流し台で手洗いとうがいを終え、教室に戻ると、岩口の指示で全員が席についていた。僕が席につくとき、塚田がちらっと後ろを振り返ったが、話しかけてはこなかった。


「深海はもうちょっと時間がかかりそうだから、とりあえず先にホームルームを済ませておく」

 岩口はたった今の騒動を話題にはせず、淡々とした調子で必要事項を述べ、いつもよりも少しだけ早めに学級委員に終礼を促した。ただ、生徒が散開したあと、ちょっと、と僕を手招いたのだった。


「はい」

 僕は教壇へ歩いた。そのときには、女子が僕から距離を置く現象は収まっていた。


「大丈夫か」

 若干声を落とし、岩口は訊いた。もう一度はい、と僕は答える。

「まあ別にわざとじゃないんだから、そう気を落とすなよな。ただ明日、ちゃんと深海には謝っとけ。いいな」


 またはい、と頭を下げ、僕は自分の席に戻った。


「いったい、どうしちゃったんだよ」塚田がぎこちない笑みを浮かべた。

「確かにお前、ちょっと具合悪そうだったけど、なんでわざわざ深海さんの上で吐いちまうんだ?」


「吐きたくて吐いたわけじゃない」

 塚田と目を合わせず僕は黙々と、かばんに教科書やノートを詰め込んでいった。


「そうか」ふう、と呆れたように息をつき、塚田は立ち上がった。

「とりあえず、俺は部活いってくるわ。ちゃんと深海さんに謝ったほうがいいぜ」


 黙って頷くと、塚田はかばんを持ってそそくさと教室から出ていった。彼は意外にも吹奏楽部に在籍していた。


 一分ほど経ってから、僕も席を立った。何人かの生徒がこちらを目で追っていた。彼らの視線から逃げるように教室を抜けだし、早足で廊下を歩く。三年の教室は二階にあり、四組の教室は階段のすぐそばにある。階段を下りたすぐ脇には保健室があった。明日といわずに今、キーコに謝まるべきか、と一瞬頭をよぎったが、よしておいた。


 保健室の前を通るとき、閉ざされた引き戸の向こうから女子生徒の笑い声が聞こえた。そういえば、何人かの女子が「これからキーコの様子を見にいこう」と駆けていったを覚えている。中ではきっと、あんな言葉こんな言葉で僕が罵られているのだろう。キーコも加わっているだろうか。当然だ、と僕は思った。


 学校から自宅まで、距離にして百メートルから二百メートルほど。時間にして五分とかからない。あっという間に僕は見慣れた市営住宅、右側の階段に帰還した。教室を出た瞬間から、僕はずっとうなだれて歩いていた。団地の階段を上るあいだも、何度も何度も溜息を繰り返した。


 兄弟はおらず、両親は共働きだった。かばんの中に忍ばせてある合い鍵をとりだし、玄関扉を開錠した。中に入り、居間として使っている和室のソファにぐったりと腰を下ろす。壁の時計を見やると、四時半少し前だった。


 制服を着替える気力も湧いてこなかった。明日どんな言葉でキーコに謝ればいいのか。もし彼女がこの世のものとは思えないぐらいの、ひどい罵声を浴びせてきたら……いや、もう学校にはいきたくない。同級生たちの視線が怖い。次々とネガティブな思考が、頭の中に浮かび上がってくる。これでキーコと会話する口実ができた、というポジティブな考え方にはなれなかった。むしろ、もう彼女を振り向かせるのはあきらめるから、今日のことはなしにしてください、これからも平穏な学校生活を遅らせてください、と必死に神へ祈りたい心境だった。


 しかしだ。謝らないわけにはいかない。その平穏な学校生活は、少なくとも謝らない限りは戻ってこない。明日、とにかく明日。もともと嫌われていたのだ。どんな言葉をかけられてもつらくなんてない。そう自分にいい聞かせ、ようやく僕は立ち上がれた。


 もう外出する予定はないので、パジャマに着替える。赤いストライプの、目に優しくないデザインが特徴的だ。誰もいない家の中をぽつぽつと歩き、やがて僕は自室への扉を開けた。


 六畳の洋室だ。ベッドがあり机があり本棚があり、おまけにテレビとゲームもあり、ビデオもある。僕は一日のほとんどをこの部屋で過ごしていた。大抵のことはこの部屋だけでこと足りるからだ。


 窓からは団地の前の駐車場が見える。目線を上げれば、かすかに学校も見える。学校を見て先ほどの悲劇をまた連想してしまった僕は、その思いを振りきろうとテレビをつけた。この時間によくやっている、二時間ドラマの再放送には興味がない。僕がテレビをつけるのは、よっぽど観たい番組がない限り、テレビゲームをするときだ。ゲームをしていればきっと嫌なことを忘れられるはずだ、と僕は思った。


 ドラグーンザネクストを始めたのだが、わずか二分足らずでハウスコードの電源を落とした。このゲームは、パーティキャラクターの名前を自由に変えられる。ヒロインの名前にキーコとつけた、いつかの僕を心底呪った。


 だいぶ前に飽きていた、スリーディーアクションゲームを始める。シージーによる美しい自然の中を、銃を持ってほふく前進するミリタリーゲームだった。久々にプレイするとこれがまた予想以上に面白くて、僕はすぐに夢中になってしまった。ミッションを幾つかクリアしたところで時計を見ると、もう六時を過ぎていた。


 はっと僕はコントローラーを持つ手をとめた。隣の部屋から人の気配を感じる。僕はそっとベッドの上に乗り、壁に耳を寄せた。


 隣の部屋とはつまり三○四号室、キーコの家の洋室だった。以前遊びにいったときは和室までしか入らなかったが、洋室がキーコの部屋としてあてがわれているのを僕は知っている。なぜなら、聞こえてしまうからだ。キーコ一人のときはさすがに無理だが、彼女が自室に友達を呼んだとき、賑やかな話し声が、薄い壁を伝わってかすかに響く。キーコには兄もいたはずだが、聞こえるのは決まって女子の声なので、洋室はキーコの一人部屋だと僕は推測している。


 本日も女子の声のみ聞こえる。残念ながら、話している内容までは分からない。とにかく、楽しげな様子だ。少なくとも、キーコを含めて三人はいる。放課後に保健室を訪ねていた女子たちか。部活終わりだろうから、部活仲間かもしれない。


 そういえば、と僕は思った。キーコはすぐ隣に住んでいるのだ。明日学校で謝るよりも、夜のうちに彼女の家を訪問したほうが賢明なのではないか。周りの生徒の目を気にしなくて済むし、キーコもさすがに自宅の玄関先で僕に罵声を浴びせたりはしないだろう。それにだ。できるだけ早く謝りたかった、といえば誠意を示すことだってできる。


 これだ、と僕は決心した。キーコの友達が帰ってから、直接彼女の家に出向こう。


 となると、お詫びの品として菓子折りでも持っていったほうがいいだろうが、そんなものはない。買う金もない。さてどうするべきかと悩んだ挙句、僕はテレビを置いた台の下から、プラスチックのケースをとりだした。そのケースの中に僕が所持するハウスコードのソフトが山ほど入っており、面白かったものを幾つかキーコに贈ろうと考えたのだ。


 女の子受けしそうな可愛らしいアクションゲームとパズルゲームを三本。人にあげるのは惜しかったが致し方ない。とにもかくにも、これで準備は整った。あとはキーコ一人になるのを待つのみだ。


 なんだか随分と気持ちが楽になった。楽になったところで、日課にとり組むとしよう。僕はベッドの下に潜り込み、奥から一冊の雑誌を引っ張りだした。



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