2 滝のように
「おい、深海」
僕のマドンナの姓を気安く呼ぶ男の声に、振り返りはせずとも、思わず肩をぴくつかせてしまった。
「知ってるか? コジマのやつ、部活さぼってデートしてやがったんだぜ」
「マジで?」
興味津々といった表情を浮かべるキーコ。彼女の周りを数人の女子生徒が囲んでいた。椅子に片足をかけて座っており、目前の男子にスカートの中身が見えてしまわないか不安だった。もっとも、体操服のハーフパンツを下にはいている可能性が高いが。
「マジで、マジで」
男が僕の脇を抜けていった。机のあいだを縫って歩き、斜めにジグザグにキーコのもとへ。陸上部の小金井だ。やかましいやつで、いつも教室中に響き渡る声で話す。
「しかもさ、相手の名を聞いて驚くなよ。なんと、タカクだったりするわけよ」
「なおちゃん? マジで?」
近くの女子と顔を見合わせるキーコ。僕の知っている彼女は、マジで、などといった言葉をはいたことはなかったな、とまた感傷的になる。
「そんでさ、フィリアを仲間にする条件ってのがあんじゃん」
「え? ああ」
こちらを向いて座る、前の席の塚田に視線を戻す。学生服が悲鳴を上げそうな巨漢で、天然パーマの髪の毛を中途半端に伸ばしている。今日も肩にふけを溜めていた。
「あれって面倒くさいんだよな。ベンガー城陥落までにレベルを二十まで上げないとダメだし」
「だよなあ」
細い目を更に細めて、彼は笑った。引き続き彼と、次世代ハード〈ハウスコード〉の新作ロールプレイング、〈ドラグーンザネクスト〉について語り合いながら、また目だけをキーコに向けた。
小金井は風のように去っていた。代わりに、隣の席の中西というロンゲのやや不良っぽい男子と笑い合っていた。キーコのその笑顔は、例のにこにこ笑顔とは種類が違っていた。
「ヴェスタリアで最初に戦うボスいんじゃん」
「ああ」
それにしても、と僕は改めて思う。キーコは本当に可愛くなった。量産型タイプとはいったが、その平凡な顔立ちが、見ている者に妙な安心感を与えているということに、いつしか気がついていた。キーコが可愛くなったというより、僕の見る目が変わったのかもしれない。
「あいつって、眠らせるよりかはしびれさせたほうが楽だよな」
「いや、しびれさせたら再戦のときにしびれ耐性がついちまうんだよ」
こうしてまた同じクラスになるまで、僕は滅多にキーコと顔を合わせなかった。彼女は部活があるので、下校時には基本的に鉢合わせない。登校時はよく、ばったりと出くわしもしたが、次第に彼女の家を出る時刻のパターンが分かり、僕から時間をずらすようにした。彼女の顔をまともに見られない時期が続いたので、僕の中で彼女を美化しているのでは、とも懸念されたが、まったくそんなことはなかった。
「そうか、なるほどね。メモしとこう、メモ」
「頭で覚えりゃいいじゃんか」
新学期が始まり、一週間が経過していた。キーコとの距離は、今のところ縮まる気配がない。口を聞くどころか、目すら合わせていない。僕がいつも彼女を注視しているというのに目が合わないということは、あちらは僕になどまるで興味がないということだろう。いいのだ。百も承知だ。
そろそろ行動に移さねばならない、と僕は考えていた。このままだらだらと日々を追っていたって何も進展しない。神さまがくれたチャンスを無駄にしてはいけない。
行動、といえるほどのものではないのかもしれない。僕は今日中にキーコに話しかけようと目論んでいた。二年近く口を聞いていないにしても、僕らのあいだには長年に渡って積み上げてきた絆があるはずだった。気まずい反応を見せられはしても、さすがに冷たくあしらわれはしないだろう。
とはいえ、もう昼に近づいていた。僕のそばをキーコが通ったり、キーコが一人きりで席に座ってぼうっとしていたり、これまでに何度も話しかけられそうなシチュエーションがあったが、そのすべてを流してきた。ああ、僕はなんて意気地なしなんだろう。
それでも決意は曲げていなかった。四時限目の理科の授業が終わり、昼休みになってしばらく、ついに僕は立ち上がった。まずは教室の後ろの僕のロッカーへ向かう。特に用はないが、ロッカーの中を探ってみる。そのまま窓際へ歩く。窓のふちにひじをかけ、景色を眺める。ボールを追って、広いグラウンドを走り回る数人の男子生徒。昼食の時間を遊びに割くとは、なんという愚か者たちよ。空は今日も見事な五月晴れ。四月だけど五月晴れ。
キーコを見た。
後ろの席の穂積さんと、ぼそぼそ話をしている。肥満気味のおとなしそうな女子生徒だ。やかましいやつ、不良っぽいやつ、おとなしいやつ。キーコの交友範囲の広さに戦慄を覚える。それなら暗いやつ、もカバーしてもらおうじゃないか。
窓際を一直線に歩いた。歩を進めるごとにキーコとの距離が縮まっていく。三メートル、二メートル、一メートル。彼女は逆側に身体を向けているし、僕は抜き足差し足忍び足だしで、気がつかない。
シミュレーションしておいたキーコとの二年ぶりの会話を頭に思い描く。久しぶり。ああ、久しぶり。なんか、随分と話してなかったね、はは。そうだね、ふふ。志望校は決まった? ううん、まだ、りっくんは? 僕もまだ。そっか。
キーコの真横にきたとき、まず穂積さんが僕に顔を向けた。そして、それに釣られる形でキーコも僕を見る。しかし、次の瞬間には光の速度で再び顔を背けてしまった。
僕はショックを受けた。そのショックは停止させかけた足にまで伝わってしまった。僕はあれえ、ないなあ、などと何かを探している振りをしながら、その場を素通りした。
落胆して自分の席に戻ると、ドカ弁を広げてもぐもぐと頬を張らせている塚田が、きょとんとした表情を浮かべていた。
「教室にアイテムは落ちてないぞ」
僕ははあ、と溜息をついた。
五時限目は体育の授業だった。三組と合同で、グラウンドでサッカーを行う。女子は体育館だ。キーコがいないと寂しいのも確かだが、僕のへなちょこドリブルを見られないで済むという点では万々歳だった。
ジグザグドリブルのタイムを計った。学年で最も背の高いバスケ部の生田というやつが、前回のサッカー部の面々の記録を塗り替え、大いに湧いていた。僕の直前に臨んだ塚田が、スタートの合図と同時に、蹴ろうとしたボールを踏みつけ、後頭部を強く打って保健室へ連れていかれた。みんなは爆笑していたが、とてもじゃないが僕はそんな気になれなかった。塚田を不憫に思ったのもそうだが、それ以前の問題だった。
鏡を見なくとも分かるほど、僕は青い顔をしていた。さっきからずっと吐き気をもよおしている。昼食の弁当が原因だ。おふくろのやつめ、おかずを冷凍食品の油ものばかりでまとめやがって。おかげで胃もたれを起こしてしまったではないか。
しかしながら、僕の顔色の悪さに誰も気がつかない。具合が悪いので保健室にいっていいですか、と自分からはいえなかった。僕の運動音痴は周知の事実で、体育の授業から逃げたというふうに思われたくないからだ。
吐き気を必死でこらえながら、僕は記録に臨んだ。コーンは全部で五つ。二つ目のコーンまではサッカー部並の動きを見せることができた。しかし、その後はいわずもがな。三つ目のコーンの右側に通す際にボールを大きく蹴りだしてしまい、あらぬ方向へ転がっていく。四つ目のコーンの左側を抜くまでに十秒はかかった。しかも、そこでも同じことを繰り返し、五つ目も十秒。トータル三十七秒という記録だった。何ごともなかったように次の生徒のスタートがきられ、サッカー部の彼が生田の記録を破り、また湧いた。なんだか、記録なしの塚田にさえ負けた気分だった。
六時限目の数学の授業中に、吐き気はだいぶ収まった。目の前には大きな背中。体育を終えて教室に戻ると、けろっとした顔で塚田はそこにいた。災難だったな、と僕が笑うと、おかげで体育から逃れられたぜ、と悪びれもせずに彼は返した。
「フレイが覚える技を、表にまとめてみたんだけど」
「あ、ああ。ちょっと待っててくれ」
塚田を泣く泣く振りきり、僕は立ち上がった。六時限目を終え、あとはホームルームを残すのみとなっていた。只今、生徒たちは帰りの準備を進めながら、担任の岩口を待っている。キーコの周りには、二人の女子生徒と一人の男子生徒がいた。女子生徒は穂積さんと、セミロングの髪を茶に染めた不良タイプの渚さん。男子生徒は、エッフェル塔生田だった。窓際の一番前という立地の悪い席にも関わらず、よくもまあ人が集まるものだ。にこにこ笑顔は消え失せても、人を惹きつける魅力は健在だということか。
ホームルームを終えたあと、という手もあった。時間が限られる現在よりも、会話をしやすいだろう。しかし、僕は敢えてこの時間を選んだ。最後まで先延ばしにするのは嫌だと思ったのもそうだし、それ以上に、話しかけて無視されて、そのまま逃げられる心配がないというのも大きかった。
膝ががくがくに震えていた。自分が本気なのだというのを意識させられる。昼休みのときは半分逃げ腰だったのかもしれない。
まるで行進でもしているかのような硬い動きで、歩を進める僕。息が荒くなり、また吐き気をもよおしてくる。この吐き気は例の胃もたれによるものではなく、緊張による錯覚なのだろうと自分にいい聞かせる。僕の異変に気がついた生徒もいるようで、頬に幾らかの視線も感じるようになっていた。キーコ一味の中では、ヤンキー渚さんが、キーコの話に相槌を打ちながらも、真っ直ぐにこちらを見すえていた。
やがて、キーコ一味全員の視線を浴びた。彼らの目の前で、僕はついに立ちどまったのだ。ぴたっと会話もとまる。彼らだけではなく、教室全体がしんとしていた。
「何?」
声をかけてきたのは渚さんだった。がんをつける、というのだろうか。そんな目つきだ。ぱっちり二重瞼。悔しいが、美人だ。いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、僕は答えられなかった。吐き気はピークに達している。そのときですら、吐き気は錯覚だと思い込んでいた。
渚さんがぷっ、と吹きだした。無礼にも僕を指差す。
「こいつ、なんなの? 息荒いし、きもいんですけど」
穂積さんと生田は笑わないでくれた。あまり僕と親しくないからかもしれない。まあ、渚さんもそうなのだが。キーコは僕から視線を外し、不機嫌そうな表情で窓の外に目を向けている。消しゴムを軽く上空に投げキャッチする、という動作を繰り返している。ひょっとしたら、僕が用のあるのは自分だと察しているのかもしれない。
ころん、とキーコの消しゴムが僕の足もとに転がった。ふう、と気だるげな息をはき、彼女が床に手を伸ばした。なぜそれを合図にしようと思ったのかは分からないが、僕は一度深く息を吸い込み、いよいよ話しかけようとした。ところが、声は出てこなかった。
その代わり、とんでもないものが滝のように口から飛びだした。
ついにキーコが口を開いてくれた。
「ギ、ギャー!」
キャー、ではなくギャーだった。




