18 タナカさん
ものすごく忙しかったけども、なんとか水曜までには上がりました;
さあ、クライマックスですよ。
行儀よく床に体操座りをするキーコ。僕はベッドに座り、居心地の悪い思いをしながら彼女の様子を絶えず窺っていた。暗雲とは別に陽も落ちて、雨が視認できないほど空は暗くなっていた。ただ、しとしとと雨音は聴覚の隅に常に棲みついていた。古くなった蛍光灯の鈍い明かりが、部屋の中を昔の青春映画じみさせていた。
よく考えてみれば、僕とキーコの仲はほのぼのと世間話をするような状態になかった。もとからそうだったが、本日は特に、昼休みの一件でより顕著だった。その後色々と起こり過ぎて、昼休みの騒動を忘れかけていたのだ。ただ、キーコのほうはしっかりと覚えていたようで、部屋に入った瞬間から「私とあなたは相容れない仲なのよ」といったオーラを全身にかもしだしていた。
それでも僕は話しかけようと思った。何かに支配されているような沈黙がひどく怖かったし、今は話題だってしっかりとあるはずだった。
「キーコってお兄ちゃんいたよね」
キーコは僕に背を向けて座っている。返事もなければ肯頷した気配もなかったが、僕は続けた。
「お兄ちゃんって、いつも何時頃に帰るの? ひょっとしたら僕が聞いた物音ってお兄ちゃんなのかも、って気がしてきた」
「ずっと前から離れて住んでるよ」言葉だけながら、なんとか反応はしてくれた。
「突然帰ってきたりもするけど、いつも遅くまで仕事してるから、これぐらいの時間にはこないと思う」
「そう」
やはり兄とは別居中。あの男は兄ではないのだ。そう確信した瞬間、僕はキーコを後ろから抱きしめたい衝動に駆られた。彼女はいる。間違いなく無事でここにいる。たまたまチューナーの電源を入れ、男の侵入を知ったからこそ、とりあえず彼女は救えた。幾多の偶然を与えてくれた神様に、心の底から感謝した。
「ねえ」昂る僕を尻目に、キーコは抑揚のない声でぼそっと呟いた。
「もう物音なんて聞こえないね」
「そ、そうだね。だけど……」
ブラウン管の向こうに男はまだいるんだ、とはいえない。たとえプロレスラー五人に私刑されたとしても、それを漏らすわけにはいかない。
「きっと、息を潜めてキーコの帰りを待ってるんじゃないかって思う」
「待って、どうするの?」
「そりゃあ……」僕はいいよどみ、頭をぽりぽりとかいた。
「他人の心なんて僕には読めないけど、やっぱり襲うつもりなんじゃないかな」
キーコはうなだれて、ひざに額をつけた。その姿がとても不憫に見え、僕はたまらずベッドを降りて彼女のもとへ寄った。少しだけ迷うも、彼女の背中に手を置いた。
「でも、もう大丈夫だよ。ここにいれば安心だから」
そうやって励ましながら、僕はこれからどうするかを考えていた。警察を呼ぶのなら、どう説明しよう。先ほども案じたように、「侵入を目撃した」と嘘をつくのは危険だ。不審な物音が聞こえたから、とするのが無難だろうが、はたしてそんな曖昧な理由で彼らは駆けつけてくれるのか。
そして、駆けつけてくれたとして、彼らはすんなり帰っていくのか。キーコの部屋を捜索したりはしないのか。でも、被害者だぞ。被害者の部屋を調べてどうするのだ。分からない。その方面の知識は僕にはない。とにかく、カメラが見つかったら一貫の終わりだ
いや、そうでもないのだ。カメラに指紋はつけていない。僕の部屋のチューナーさえ見つからなければ、それを仕かけたのが僕だと疑われたりはしないのではないか。ただ、キーコに疑われる可能性は充分にある。学校で彼女に、「自分だってオナニーしてんだろ」という最低な言葉を吐いてしまったのだ。あれは「あなたの部屋を覗いていますよ」と自分から明かしたようなものだ。
考えがまとまらない。まさか、単身でキーコの部屋に飛び入り男を退治する、などといった芸当は僕にはできないので、通報するのは絶対だ。あとは警察が部屋の中を調べないのを祈るだけか。
キーコの背中がかすかに震え始めた。自分の部屋に賊が潜んでいる。中学生の女の子が恐怖を覚えないわけがない。僕はついに彼女を抱きしめてやろうと思ったが、やはりそんな勇気は湧いてこず、どうするでもなく彼女の横顔を眺め続けていた。
「大丈夫?」
無意識のうちに口にしていた。
それには応えず、キーコは不安げな顔を僕に向けた。茶色がかった瞳が涙で濡れていた。
――深海さんにいわれたんだ。手塚くんとあんまり仲よくするな、って。
不意に横井さんの言葉が浮かんだ。それから、以前、キーコの家に謝りにいったときのことや、大柳にからまれたときのことが、順々に頭に蘇る。やがて小学校時代の、あの無垢な笑顔までもが連想された。
キーコ。本当にわけの分からない女の子だ。右へ左へと僕を振り回し、影で嘲笑う。ただ、彼女には嘘が一つもないように感じる。すべては彼女の心によって成り立っている。僕とは大違いだ、と思う。
僕はキーコを抱きしめた。投げだされた夜の海でロープを手繰り寄せるかの如く、強く、強く。
キーコもまた、一切の抵抗をも見せようとはしなかった。それどころか、彼女も僕の背中に腕を回してきた。そして、その行動は嘘なんかじゃない。そんな気がした。
「キーコちゃん。お風呂沸いたよー」
おふくろの呼ぶ声で、僕らはぴょんと飛び退いた。キーコはドアを一瞥してから僕に視線を移し、照れたように微笑を浮かべ立ち上がった。
キーコが退室し、バタンとドアが閉まると同時に、すかさずテレビとチューナーの電源をオンにした。キーコの部屋は真っ暗で何も見えず、僕は舌打ちをした。これでは男が逃げてしまったかどうかも判別がつかない。できれば警察に肩透かしを食らわせたくはなかった。この先同じようなことがあれば、いたずらで片づけられてしまいそうだからだ。男が逃げたのなら、また日を改めて侵入してくるのは目に見えている。
壁を蹴ってみるか。しかし、男がわずかに反応を見せても、暗過ぎて分からないかもしれない。それに、男がまだ部屋にいるのなら、警察がくるまで刺激を与えずにおとなしくしているのが得策だろう。逃げられたら駄目なのだ。捕まってくれなきゃ、キーコの身の安全は保障されない。
となると、やはりさっさと警察に通報すべきだった。何をもたもたしていたのだ。
僕は精一杯自分を奮い立たせ、ようやくダイニングの電話で一一○番にかけた。おふくろはキッチンで夕食を作っていた。僕がどこに電話しているのか問いはしない。
すぐに電話口に男性が出た。「隣室に侵入者がいるかもしれない」と告げると、相手は僕の名前や連絡先を訊ね、「すぐに警官を向かわせる」といった。
一仕事を終えた僕は、ふうと大きな息をついた。どっと身体に疲れが押し寄せてきた。
「りっくん」おふくろがいやらしく笑った。
「電話かける振りして、キーコちゃんを覗こうって魂胆なんじゃないの?」
電話は、浴室へ繋がる脱衣所のすぐ脇にあった。僕は無視して居間のソファに腰を下ろした。
最後の最後まで、迷ってはいた。
警察がカメラを見落とすことだってもちろんあるだろう。いや、むしろそのほうが有力だといえる。
ただ、後日になってこっそりとまたカメラを回収するというのは、間違っているのではないか。
僕は知ってしまった。もう何度も何度も繰り返してはいるが、キーコが好きなのだ。
どれだけ冷めても、心の底でくすぶり続けている。この想いをいい加減解放してやりたかった。溢れんばかりの酸素に触れさせ、キャンプファイヤーのように燃え上がらせてやりたかった。キーコのように、自分に嘘をつかず。そのためにはまず、決断せねばならなかった。
キーコはすぐに風呂から上がってきた。おふくろのピンク色のパジャマを借りたようだ。おふくろが夕食を告げたが、「ちょっとその前に」とキーコを再び自室へ連れ込んだ。そして彼女が後ろ手にドアを閉めた瞬間、僕は額を床に打ちつける勢いで土下座をした。
「え?」
「ごめん! 本当にごめん!」とてもじゃないが、キーコの顔は見られなかった。
「謝って済む問題じゃないのは分かっているけど、この通り、許してほしい。テレビを観てもらえば分かると思う。僕はずっとキーコの部屋を覗いていたんだ。毎日毎日。今日も、部屋を覗いていて偶然男が入ってきたのを目撃しただけで、物音なんて聞いちゃいないんだ」
カメラのことを正直に話す。これはあくまで第一歩に過ぎない。そしてその一歩で、すべてが砕け散ってしまうかもしれない。けれど踏みきらない限り、僕の想いは一生キーコに伝えられない。
「テレビって……」
テレビはすでにキーコの部屋を映していた。しかし、問題もある。
「真っ暗にしか見えないんだけど」
僕は顔を上げた。キーコはショックというより困惑しているという顔つきだった。無理はない。確かに画面は真っ暗だ。
「まあ、電気を点けないと見えないんだけど、これは確かに……」
「明度が足りないんじゃないかな」
キーコは腹這いになって、テレビに手を伸ばした。パジャマ上下の隙間にパンティが覗く。
「いや、もともとカメラが暗くて」
そういった矢先、僕はぎょっとした。
予想に反し、キーコはテレビの台の隅に置いたチューナーを手にとったのだ。
「え? な、何を」
自分でも可哀想になるぐらい狼狽する僕を気にもせず、キーコは携帯電話型のチューナーを慣れた手つきで操作した。やがて、金魚のように口をぱくぱくとさせる僕にチューナーを手渡した。
「これでよし」
「え……」
はっとモニターを見る。
本当だ。明度が増している。もちろん暗いのは変わりないが、カーテンの開いた窓から漏れる、ぼんやりとした外灯の明かりぐらいは確認できるようになった。キーコに山ほど訊ねたかったが、それよりも前に検証すべきものがあった。
「あ、あれ?」
薄闇の中、男がいつの間にかベッドに座っていた。キーコの帰りがあまりに遅くて、緊張の糸がきれてしまったのだろうか。
「この人、何やってるの?」
「う、うん」
僕はぐっと目をこらした。確かに何かをやっている。右手を股間の辺りで慌しく動かしている。これはいったい……これは……考えるまでもなかった。この男まで、それを日課にしていたのか。
「いやあ!」
キーコも察したのか、両手で顔を覆った。やや罪悪感を覚えてしまう。僕も彼の仲間なのだ、とは口が裂けてもいえなかった。
「やっぱり、やっぱりタナカさんだあ!」
「タナカさん?」急に飛びだした個人名に驚き、僕はキーコを見つめた。
「タナカさんって、あいつが?」
「心当たりはずっとあったんだ。うちの向かいに住んでる家族の息子さんで、私が小さい頃から、よくちょっかいかけられてたの」
向かい? つまり三○三号室。キーコから見てうちとは逆隣の住人か。よし、犯人が分かっているのなら逃げられても大丈夫。
「最初さ。可愛いね、って頭撫でられて、そのときは嬉しかったんだけど、なんか触られた髪がぬるぬるしてさ。おまけにくさいし。そんで、お母さんに相談したら……」
もう聞きたくない、聞きたくない! 身近に、そんなド変態が住んでいたとは。
とにかくキーコの母が激怒してタナカさん宅に怒鳴り込み、そのときは厳重注意という形で話はついたが、以後も嫌がらせは続いたのだという。キーコが中学に上がった頃、いよいよ警察から注意を受け、男はキーコに近づくのを禁止させられた。それからはちょっかいをかけられるどころか、男と顔を合わせもしなかったそうだが。
「やだ、やだ! りっくん、早く警察呼んでよ」
キーコは珍しくとり乱していた。彼女の反応は普通だろう。過去に男から、一生のトラウマになってもおかしくはない仕打ちを受けたのだ。男が間違いなくタナカという隣人なのであれば、の話だが。
「大丈夫、大丈夫だから」僕は必死にキーコをなだめた。あまり騒ぐと壁の向こうの、男に不審がられてしまう。
「もう呼んであるから、そろそろ……」
タイミングよく呼び鈴が鳴り、「はーい」と応対するおふくろの声が聞こえた。




