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17 食事はやっぱり賑やかなほうが

まーたーおーくーれーたー。

すーまーぬー。

 ひょっとして、とんでもない状況を迎えてしまったのではないか。そう理解しようとする頭に、僕は必死に抵抗していた。


 きっとキーコのおばさんが帰宅し、男はそれを嗅ぎつけて咄嗟にベッドの下に隠れただけなのだ。もしくは、男はやっぱり兄で、久々に家族のもとへ帰ってきた。ものの土産として妹を驚かせようと考えている。本当にそうだったら、どんなに救われるだろう。


 でも、そうじゃなかったらどうするのだ。男は至極当たり前の賊であり、ベッドの下でキーコの帰りを待ち伏せている。その目的を考えるだけで、僕は身震いしてしまう。このままキーコが帰ってきてしまったら、カメラの向こうでどんな惨劇が繰り広げられるのか、想像に難くない。


 いてもたってもいられなくなった。一一○番通報しよう、と電話のあるダイニングに移った。男が兄だったときのことなんて考えてはいられない。事態は一刻を争うのだ。


 しかし、受話器を上げて一のボタンを一度プッシュしたところで、僕は「はっ」と気がついた。コールさせずに受話器を置いて、天井を仰ぎ見る。


 警察になんといえばいい?


「隠しカメラでキーコの部屋を覗いていました」なんていえるわけがない。それじゃあ、男が侵入するのを偶然目撃しました、っていうのは? いや、駄目だ。実際には目撃していないのだから、詳細を聞かれるとまずい。ならば、どこか公衆電話から匿名でタレ込むか。公衆電話なんてどこにあったろうか。探している場合じゃないぞ。


 自室に戻る。男に動きはなかった。まるで眠っているかのように、ベッドの下で伏せたままだ。その映像を眺めながら、僕はいよいよ認め始めていた。警察の力は借りられない。僕一人の力でなんとかするしかない。でも、どうすればいいのかさっぱり分からない。すなわち、やはり何もできない。


 ベッドにもたれかかり、再び絶望から虚空を仰いだ。そして数秒後、頭の中に思いもよらない考えが浮かんできた。


 静観する。それが一番いいのかもしれない。男が兄だという可能性も捨てきれはしないし、下手に動けば僕が損をするだけ。そもそもキーコという女に根っから呆れ果てたばかりではないか。もし彼女の身に何かあったとして僕は。僕は……


「もしりっくんの家に強盗が入ってきたら、壁をがんがんって蹴ってよ。私、すぐに助けにいくから」

 いつかの小学校からの帰り道だった。チャームポイントであるにこにこ笑顔を、辺り一面に振りまきながら、彼女はどんと胸を叩いてみせた。

「それなら僕だって」負けじと僕も返した。

「女の子を守るのは、男の子の役目だからね。キーコに何かあったら、僕がすぐに駆けつけるから」


「じゃあ、お互い約束ね」

「うん」

 絡み合う小指の感触をいまだに覚えていた。というよりも、今思いだした。あのときの僕にまったく嘘はなかった。本心から、キーコに危険が迫ったときは、身をていしてでも彼女を守る気でいた。それは彼女のためであり、自分のためでもあった。キーコがこの世界からいなくなってしまったら……そう想像するだけで、答えは簡単に導きだされた。


 部屋を出て、階段を駆け下りていた。


 くそが、くそが、くそが! キーコは変わってしまったけれど、彼女への気持ちはそう簡単に変えられない。悔しいが、僕はやっぱり彼女が好きだ。好きな女が賊の手に落ちるのを、指をくわえて黙って見ていられるか!


 時刻を確認してこなかったが、もう五時前ほどになるのか。とはいっても、空の色は昼間のそれである。

 団地の、キーコの家へ上がる中央の階段の前。僕はここでキーコを待つ気でいた。他に思いつかなかったのだ。彼女が帰宅するのを阻止さえすれば、とりあえず彼女の身の安全は保障される。


 視線を空からキーコの部屋の窓へとスライドさせる。同時に不吉な想像がよぎった。僕が下りてくるあいだに入れ違いでキーコが帰宅していたら、すでにあの部屋の中で予期していた不幸な事態が起きている。


 少々迷った末に、僕は中央の階段を上がった。そして、二階と三階とを繋ぐ踊り場で耳を澄ました。ここからキーコの部屋の窓は近い。幸いにも窓は薄く開いている。それから五分ほどそうしていたが、物音は何一つ聞こえてこなかった。大丈夫。キーコはまだ帰っていない。


 出で立ちは黒いジャージ姿のままだった。こんな格好で狭い踊り場にそわそわと立っているところを誰かに目撃されたら、僕のほうが通報されてしまいかねないので、また階段を下りた。


 階段の入り口と向かい合う場所に、細い道路を挟んで小さな公園がある。小学校時代の帰り道、ここに寄り道をしてキーコとよく暗くなるまで話していた。僕は公園を囲い込む背の低い石垣に座り、階段を監視しようと決めた。


 キーコだけではなく、彼女のおばさんも同じだった。兄の顔は知らないが、おばさんの顔は知っている。キーコより先に彼女が帰ってきたとしても、なんらかの口実で階段を上がるのをとめるつもりでいた。


「いや」と僕は記憶をたどった。そういえば学校で、「お母さんが遅くなる」とかなんとか話していなかったか。そう、確かにそうだ。飲み会で遅くなる。キーコの口からそんな言葉を聞いた。要するに、懸念するのはキーコだけでいいというわけか。


 そして、もう一つ安心材料を見つける。

 あの男は、おばさんが遅くなることを知っていたのではないか。つまり、彼はキーコの家庭の事情に精通している人物である可能性が高い。となると、やはり彼は兄なのだと考えるのが筋といえよう。


 もちろん、その限りではない。偶然知ったのかもしれないし、或いは兄でありながら妹を襲おうとしている、なんていう突飛な考えだって否定はしきれない。当然、「おばさんがいないのなら、ますますキーコが危ない」という見方をすべきなのだ。


 とにかく、おばさんの帰りが遅いのを知っていたというのは間違いないような気がする。だって、そうじゃないとさすがに犯行がずさん過ぎやしないか。ドアを隔てておばさんがいながら、キーコを襲うなんて無理がある。本日はおばさんより先にキーコが帰る、という確証があったのだ。


 それから、部屋だ。部屋についてはどうだ。

 あの洋室がキーコの部屋だと知っているからには、よっぽど親しい間柄だといえるのではないか。となると、どう考えても兄。


 いや、いや、いや、これまた穴が多い。同じく偶然知ったのかもしれないし、部屋の内装から推測だって充分に立てられる。もっといえば、たまたま忍び込んだ家に女の子が使っているっぽい部屋を見つけ、後先も考えずに待ち伏せているのかもしれない。だとしたら、すべてが振りだしだ。


 僕は犯人像を割りだそうとするのをやめた。どうやっても仮定の域を出ないのなら、考えるだけ無駄というものだ。


 三十分ほどが経過し、空に明らかな暗雲が立ち込め始めた。ここにきた当初よりも辺りはだいぶ暗くなっており、気温も下がっていた。ただ、ジャージの下の僕の身体は絶えず汗ばんでいる。


 中央の階段を下りてきた人物は一人。二○三号室に住んでいるらしい老婆。逆に上がっていった人物は二人。四階の住人であるサラリーマンふうの若い男性と、先ほど下りてきた老婆の帰宅。キーコの家の玄関もぎりぎりであるが見えた。今のところ玄関の開閉はない。男はまだ中にいる。


 いや、ベランダだってあるぞ。僕もそうして侵入したじゃないか。もしベランダから逃げたとすると、そのまま僕の家に侵入したりもできるわけだ。うちのガラス窓の鍵は閉まっていただろうか。残念ながら覚えていない。


 頭のてっぺんに冷たいものを感じた。数秒後、鼻先に第二陣がやってきて、すぐに断続的となる。

 雨だ。

 僕は近くに立つ大きな木の下に素早く移動した。完全に防いでくれるわけではないが、小降りのうちは充分だろう。監視を継続する。


 左方の駐車場から小走りで駆けてくる、若い女性の姿が見えた。

 目の前にきたときに気づく。おふくろだ。

 もうそんな時間になっていたか。「うむ、やはり若々しいな」と満足気になりながら彼女を見送る。「遅くなるから夕食はいらない」と話しておこうとも考えたが、このジャージ姿を説明するのが億劫である。


「あ……」

 駄目だ、と僕はすかさず母を追った。男がベランダから逃げて、母と鉢合わせてしまっては困る。あれだけ美人なのだから、ターゲットを母に定め直してしまうかもしれないぞ。


「りっくん?」

 郵便受けが並んだ階段の入り口付近。そこからはすでに雨を避けられた。おふくろは目を丸くしながら、茶髪のショートボブを指でかき上げた。白い長袖のティーシャツが、ところどころ雨に湿っている。「どうしたの? なんなの、その格好」


「いや、その」

 なんといえばいいのだろう。ジャージについてもそうだし、おふくろが家に帰るのをとめる文句も浮かばない。僕はごまかすように質問を質問で返した。

「あのさ、ベランダの窓って、ちゃんと鍵閉めてる?」


「ベランダの窓?」そう呟き、おふくろは人差し指を口もとに当てて考え込んだ。

「うーん、覚えてないな。開けっ放しかもしれない。それがどうかした?」


「いや、その」

 無限ループになりそうだ。

 僕が次なる言葉を探すあいだ、おふくろは怪訝そうに息子を見つめていたが、しばらくして、ぱっと顔を明るめた。

「あ、こんばんはあ」


 視線は僕の背後を向いていた。

 なんとなく予感はあった。僕は無意識のうちに後ろを振り向き、予想通り目の前を早足で横ぎっていく少女の姿を認めると、大急ぎで走りだしていた。


「ちょっと、ちょっと待ってくれ。キーコ」

 背中にそう投げかけると、キーコは急停止し、こちらに顔を向けた、僕を見て意外そうな表情を浮かべる。肩にスポーツバッグをかけ、両手で持った学生かばんを頭の上にかざしていた。


「何? なんなの?」

 髪の毛がかなり濡れていた。気がつくと、雨の勢いが増しており、僕の頭にも重い雨粒がぼたぼたと落ちていた。僕は彼女の手を引き、再び郵便受けの前に戻った。まだおふくろはおり、キーコと同じく、不思議そうにしている。


「まだ帰らないほうがいい」あらかじめ考えていた台詞を、囁き声でキーコに告げた。

「キーコの部屋から不審な物音がする。誰かが侵入している可能性が高い」


「え?」

 さすがに驚いたようで、キーコは目を大きく見開いた。しきりに額あたりをセーラー服の袖で拭っている。


「だから……」

「どうしたの? なんの話?」

 おふくろが突然話に割り込んでき、僕は口をつぐんだ。直感的に、彼女にはまだ話せないと思った。なんだか話がややこしくなりそうだからだ。

「そういえばキーコちゃん。今日お母さん、遅くなるんでしょ? うちで晩ご飯食べていけばいいじゃない」


「あ、でも……」

 キーコはちらっと僕を窺った。


「そうしよう」僕は頷いた。

「なあ、キーコ。一人じゃ寂しいだろ。うちだって父さんの帰りが遅くなることが多いからさ。食事はやっぱり賑やかなほうが楽しいって」


 声を明るめてそういいながら、「おふくろはなぜ、キーコのおばさんが遅くなるというのを知っているのだろう」と考えていた。彼女たちは顔を合わせれば長々と世間話をする仲なので、本人から直接聞いたのかもしれない。

 とすると、あの男もそうなのか。この団地の住人という線もあり得るのか。もし侵入経路がベランダだとすれば更に有力である。下の階からよじ登ることだって……やめよう。可能性は無限だ。やはり仮定から抜けださない。


 キーコは僕やおふくろにきょろきょろと顔を向けながらしばらく思案したあと、「それじゃあ」と頷いてくれた。


 おふくろを先頭にして階段を上がるとき、おふくろに改めてジャージについて問われた。

「身体がなまってたから、父さんのジャージを借りてジョギングしてたんだよ。そしたら急に雨が降りだしてさ」

 自然なようで、若干危うい理由だった。そんなの僕の性分じゃないし、それに中間考査までたった一週間しかないのだから。まあ、先ほどはその程度の理由さえ思いつけなかったのだから、上出来だ。今になってすらすらと口が動いたのは、キーコを無事確保した安心感が作用したに違いなかろう。


「ふーん、珍しいね。でも、ちゃんと勉強もしなさいよ」

 おふくろはそういったきり、追求してはこなかった。


 玄関のドアは、おふくろを振りきって僕が開けた。

 部屋の中を隈なく見回しながらそうっと歩を進める。それからベランダへ繋がる窓のクレセント錠がしっかりとかかっているのを確認する。しかし、まだ胸を撫で下ろせない。男がかけた可能性もあるにはあるからだ。やはり、カメラを確認しなくてはならない。


 居間で何やら話をしているおふくろとキーコを尻目に、僕は一人自室へ飛び込んだ。

 すると不意に、どくん、と心臓が打ちつけられた。

 チューナーの電源を入れっ放しにしているではないか。先に母を帰宅させなくて本当によかった。


 僕はチューナーの電源をきる間際に、キーコの部屋を確認した。先ほどよりもかなり暗くなってはいたが、ベッドの下でわずかに影が動いた。ようやく「ふう」と安堵の息をつきかけたとき、今度はとんとんとドアがノックされ、僕は飛び上がった。


 ドアを開けると、そこにキーコが一人で立っていた。タオルで髪を拭いたようで、ぴんぴんと跳ねていた。彼女は気まずそうにうつむき、口だけを動かした。

「お母さんがお風呂沸かしてくれるみたいで、それまで一緒に遊んでなさいだって」


「ああ」

 躊躇はあったが、僕はキーコを部屋に入れた。大丈夫だ。チューナーさえいじらなければ、モニタリングがバレることなんて絶対にあり得ない。


 ただ、「キーコと二人きりになってどんな話をすればいいのか」という件については、まるで見当がつかなかった。


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