16 ベッドの下から
しーん、と静まり返る。四人の顔に笑みは消え、代わりに表れたものといったら、特に何もなかった。僕の言動があまりに想定外だったせいで、思考回路がショートしてしまったのだろう。
そんな中でもいち早く不快感をあらわにし、力いっぱい傲慢な口調で僕に物申した渚さんは、やはりタフな少女だ。
「は? 何いってんの?」
「日本語が苦手なのか?」だが、僕も負けてはいない。
「僕が家で何か下品なことをやってる、って盛り上がってるみたいだけど、そういう自分だってやってんじゃないかっていう意味だよ」
次に口を開いたのは、意外にもキーコだった。
「私、何もいってないけど……」
席替えをしてから初めての会話がこんなものになるとは、さすがに想像がつかなかった。彼女のいい分はもっともである。確かに、盛り上がっていたのは主に塚田と渚さん。それなのに、僕が指を差しているのは塚田でもなければ渚さんでもなく、どの角度から見たってキーコだ。
「深海さんは何もいってないぞ。ただ笑ってただけだろ」
塚田が声を荒げる。こいつ、キーコに乗り換えたって話だったな。愛する人を守る俺カッコいい、ってわけか。ふん、救いようのない。
「同じだろう」僕は鼻で笑いながら、ゆっくりとかぶりを振った。そしてまたキーコを見すえる。
「自分だってオナニーしてるくせに、人を笑うなんて最低だと思わないか」
キーコは言葉を忘れてしまったかのように何も口にしない。じっと僕を睨み返すばかりだ。渚さんと内藤さんは、僕を見ながらひそひそと、今度は僕に聞こえないように何やら囁き合っている。僕の様子がただごとじゃないと理解したのだろう。その途端に、面と向かってものを吐けなくなる。クズだ。なんて情けない。
「お前、いい加減にしろよ」塚田が立ち上がる。戦闘モードだ。
「女子に対していっていいことと悪いことがあるだろうが」
座ったままの僕に、上空から顔を近づけすごむ。しかし、僕は彼になど目もくれず、相変わらずキーコだけをとらえていた。空気が張り詰めたのを察したか、いつの間にか、教室のところどころに散らばった生徒たちが私語をやめていた。黙って僕らに注目している。
さて、とり澄ましてはいるが、実は僕も相当に焦っていた。
売り言葉に買い言葉とはよくいうが、買ってくれた相手の満足する品物などまったく用意していなかった。それなのに事態を収拾に持っていこうとしないのは、単に引っ込みがつかなくなっただけである。誰か、頼むから騒ぎをとめてくれ、と思う。
キーコの目が次第に赤くなっていく。ああ、もし泣かれたらどうしよう。よし、そのときになったら謝るのだ。悪い、泣かす気はなかったんだ、ってクールに決めよう。
「やってるんだろ」泣け。さっさと泣け。
「おとなしく白状しろよ」
「てめえ!」
その塚田の怒鳴り声を耳のそばで聞くとほぼ同時、ゴフという鈍い衝撃音と共に、目の前が真っ白になった。重力がなくなり、ふわっ、と空へ舞い上がっていく感覚。が、何かに頭を打ちつけた拍子に、一気に重力が戻る。
我に返ったとき、僕は教室の床にうつぶせていた。痛い。右の頬がじんじんと痛む。
「やめろって!」
僕は同じ体勢のまま、反射的に顔を上げた。生気の抜けたような表情で僕を見下ろす塚田を、生田が制止していた。制止していたといっても、塚田はぼうっと突っ立っているだけである。
「こんなやつ殴ったって、なんの意味もねえだろ!」
僕はようやく合致した。塚田に殴られたのだ。
「ああ、悪い」
塚田のその呟きを聞き、生田が彼から離れる。そして僕を一瞥してから、キーコの背中をポンと叩いた。キーコはうつむいたまま、何も応えなかった。彼女も椅子から立ち上がっている。なんのために? と僕は一瞬考えたが、彼女の顔を見てそれをやめた。
キーコは泣いていなかった。なんだかとても安心した。
岩口は教室におらず、他の教師を含め誰も呼びにいったりはしなかったので、騒ぎはすぐに収まった。塚田が僕に口だけの謝罪をし、僕も彼にならった。キーコにも謝っておいたが、彼女の反応はやはり何もなかった。
放課までのあまりにも長過ぎる時間を、僕は抜け殻のように無気力に潰した。キーコも似たようなもので、授業が終わるたびに渚さんやら生田やらが、明るい話題を持ちかけにきていたが、一向に素っ気ない調子だった。
「さようなら」
終礼をどこか脳裏の隅で聞き、五秒ぐらいぼうっとしてから、僕はそっと呟いた。
「回収しよう」
キーコの部屋からカメラを回収しよう。できれば今日中に。復讐なんてどうでもいい。というよりも、復讐は済んだ。先ほどの僕の言葉で、キーコはかなりのダメージを受けている様子じゃないか。それに、僕自身も。
この刺すような胸の痛みは、逆立ちをしてもキーコには抗えないのだ、というのをまざまざと示している。
結局僕は彼女が好きなのだ。何をしたとしても、すべては僕自身に返ってくる。耐えがたい自責の念として。
僕が立ち上がったとき、教室にクラスメイトは半数以下になっていた。キーコもいなくなっている。夢中で部活に打ち込んで、ショックを払拭してくれれば、と思う。その間に、もう一度だけ部屋に忍び込ませてもらうよ。自分の愚行を終わらせたいだけだから。
昇降口を出て校門まで歩く。なんだか今日は帰宅する生徒の数が多いような気がする。うちの学校の生徒はほとんどが部に所属していて、僕の下校時にはいつも疎らなのに。
校門を抜けた付近で、横井さんと深田さんを見つけた。彼女らも僕に気がついたようだった。深田さんは無言ながらぺこりと会釈をしてくれたが、横井さんはすっと目をそらしてしまった。昼休みの騒ぎが尾を引いているのだろうか。「あいつと関わるとろくなことはないぞ」と。
ただ、僕は彼女たちを呼びとめた。一つ、謝っておかねばならなかった。
「この時間に帰るのって珍しいんじゃない?」
当たり障りのない話から始めた。
「もうすぐ中間考査だから」
歩きながら、深田さんが答える。校門を出るとすぐ二手に分かれるが、彼女たちは僕と同じ方向らしかった。
「テストの一週間前は、部活禁止になるんだよ」
「ああ」
そういえばそうだった、と納得しかけた矢先に、はっとした。ならばキーコも真っ直ぐに帰宅するわけか。どうしよう、カメラが回収できない……いや、確か誰かの家で勉強するとかなんとかいっていたはず。大丈夫だ。忍び込むチャンスはある。
横井さんはしきりに周囲を気にしていた。そして指先で深田さんのセーラー服の袖をつかみ、「いこう」と急かしている。そんなにも嫌われてしまったのか。それも仕方のないことかもしれない。
僕は彼女たちに、先日の話が嘘だと正直に話そうと考えていた。「キーコとつき合っている」というあれだ。まあ先ほどの騒ぎの原因を聞いているのであれば嘘だというのはもうばれているだろうし、その嘘こそが、横井さんが僕を避ける理由である可能性も高い。しかし、自分の口からきちんと説明すべきだと思った。お尻のホクロについて言及されたなら、さすがに何かいい訳を探さざるを得ないが。
「こないだの話だけど」早速きりだした。
「僕と深海さんがつき合ってるって話」
「その話はもういいよ」
返事をしたのが予想外に横井さんだったので、僕は少々面食らった。
「もういいって……?」
「私、深海さん、ちょっと苦手かも」
「え?」
僕は目を丸めて横井さんの横顔を見つめた。深田さんはいつもの無表情で、というよりも、何もかもを見透かした達観的な表情で、僕らのやりとりを眺めている。
交通量の多い大通りに差しかかっていた。左へいくとわずかばかりで僕の団地へつく。ところが二人の足は右へ向いていた。それでも僕が立ちどまると、親切に彼女たちも足をとめてくれた。
「席替えした日とその前にも一度、手塚くんと一緒にご飯食べたでしょ」
僕は頷いた。話の先がまるで読めなかった。
「それを気にしてたらしくて、深海さんにいわれたんだ。手塚くんとあんまり仲よくするなって」
「え?」
僕と仲よくするな?
「な、なんで?」
「自分の彼氏だからに決まってんじゃん」そういって横井さんは僕を睨んだ。それからふうと溜息をつき、唇を尖らせながら続けた。
「手塚くんには悪いけど、なんかむかつくんだよね。自分は塚田くんと仲よくしてるくせにさ。まあ、こっちは別につき合ってるわけじゃないから、何もいえないけど」
つき合っている?
僕の混乱はピークに達していた。なんだそれは。なんだそれは。僕が誰かと仲よくするのが不快なのか。だからってわざわざ横井さんに釘を刺したりするか? いや、それとも、あんな変態とは関わらないほうがいい、という横井さんに向けた忠告なのか。
「キーコ、僕とつき合ってる、っていってた?」
まさか、と思いつつも訊ねてみた。すると横井さんはあっさりと首を縦に振った。
「『りっくんは私とつき合ってるんだから』だって。何が『りっくん』だよ。ねえ」横井さんに同調を求められ、深田さんは少々戸惑い気味に頷いた。
「『そんなの、知ってますから』っていってやったわよ。手塚くん……じゃなくて、り・っ・く・ん。あんな女、さっさと別れたほうがいいよ。さっきだって塚田くんとなんか揉めてたじゃん。あれもどうせあいつのせいなんでしょ? これは君のためを思っての忠告なんだからね」
僕が忠告されてしまった。
そして彼女たちは去っていく。横井さんが僕を避けていた理由は分かったが、あまりに突飛過ぎて当然理解不能だった。深田さんが不安げに僕を振り向いた。彼女にぎこちない笑みを送ってみる。彼女はやっぱり、にこっと笑い返してくれた。もう、まったく意味が分からない。
思えばキーコは不可解な言動が多過ぎる。ゲームソフトを持って謝りにいった僕を快く迎えてくれたかと思えばすぐに突き放し、それでいて大柳に殴られそうになったときは彼をとめにかかる。僕が暗くてキモいやつだと笑えば、今度は「りっくんは私とつき合っている」だって? たいがいにしてほしい。いったい僕をどうしたいのだ。
もう分かった。とにかく、あいつはちょっと頭がおかしいのだ。「仲よくするな」っていうのはきっと始めの推測通り、僕を一人にしたいだけなのであろう。「つき合っている」とまで嘘をついて。
そうか。ひょっとしたら三宅さんにも同じようにいったのではないか? これですべての辻褄が合う。つまり、キーコは狂っている。一件落着だ。
家についた。もちろん誰も帰っておらず、僕はすぐさま前回と同じ黒いジャージに身を包んだ。
キーコという女の本性を知り、彼女への恋心が萎え始めてしまっているのは確かだ。だからこそ、カメラの回収は行わなくてはならない。もはや自分の愚行がどうのこうのというよりも、それによってキーコが二度と僕に関わらないでほしい、という気持ちが強かった。
興奮を抑えつつ、僕は自室へ入った。今回はカメラを回収するだけといっても、やはり慎重にやらねばならない。まずは最後に一度、キーコの部屋をモニタリングしてみようと思う。ひょっとして、一度帰ってから勉強会に出向くのかもしれない。
テレビとチューナーの電源を入れ、薄暗い無人の部屋が映しだされたとき、僕は気がついた。そうだ。キーコがいなくても、他の家族がいるかもしれないのだ。どちらにしても、保険のために電話をかけておかなくては。
そしてチューナーの電源をきろうとした、次の瞬間だった。
「……ん?」
カメラの前に人影が現れた。
キーコ? 違う……男だ。ニット帽を目深にかぶり、僕と同じように全身黒ずくめの格好をしている。手袋もはめている。間違いなく大人だが、年齢はよく分からない。二十歳ほどにも見えれば中年以上にも見える。小太りな体型だ。
兄? しかしながら、キーコに兄がいるというのは昔彼女の口から聞かされただけで、実際にどんな人物なのかは知らなかった。小学生当時「大学生なの」といっていたから、年齢的には合うのか。
ただ、最近ではなんとなく、兄は別居しているのでは、という憶測を立てていた。カメラの向こうに、あまりにも存在感がなさ過ぎるためである。
兄でなければ、有力なのは空き巣か。服装的には、兄と考えるよりよっぽど自然だ。ただ、もしそうだったとして、僕にできることなど何一つない。キーコには悪いが、静観する他ない。大事なものを部屋に置いていないのを、願うばかりだ。
きょろきょろと部屋を物色し、やがて男はベッドの下に潜り込んだ。そこに金目のものを匂ったのだろうか。
僕はごくりとつばを飲み込み、モニターを食い入るように見つめた。
それから一分、二分と時間が経過してゆく。次第に僕の胸はどくどくと高鳴り始めた。
男がベッドの下から出てくる気配が、まるでなかったからだ。




