10 やるときはやる
「なーんちゃって」
拳が僕の鼻先でとまる。
「ひゃはは」と下品に笑いながら、大柳はポケットに手を入れ直した。そして生田に顔を向ける。
「冗談に決まってんじゃねえか。こんなとこで暴れたら、また長々と松木の野郎に説教されちまう」
彼とはつき合いの深い、生活指導の教師だ。
「ったく」
生田は仏頂面で腕を組み、近くの机に腰を寄りかからせた。隣に立つ渚さんは、心なしかつまらなそうな表情を浮かべている。
「お前もよお、びびってんじゃねえよ」
どうしようもなく楽しそうな様子の大柳。僕の腕をパンパンと叩く。「いや」と答えると、「あ? なめんなよ」とまた絡みついてくる。強者が弱者をからかうときに、よくやるパターンだ。恐怖を与えたあと、それを解き放ったかと思わせておいて、また繰り返す。ほっとした表情を一転して強張らせるのを見るのが好きなのだろう。とにかく僕は、大柳が望んだ通りの反応をしようと心がけてはいた。彼が癇癪を起こしてしまわないようにだ。ただ、なかなか上手くいかなかった。すでに彼など眼中にないのだ。
先ほど大柳が、右手を振り上げた瞬間だった。一人の女子生徒が視界に飛び入ってきたのだ。
彼女は今までずっと席についていたのに、そのときだけ立ち上がり、信じられない動作を見せた。大柳の右腕に、さっと手を伸ばしかけたのだ。本当に一瞬のことだから、あるいは僕の勘違いという可能性もある。実際、僕以外に彼女の行動に気がついた者はいないように思える。ただ、もし勘違いじゃないのなら、あれはどう見ても大柳の暴力を制御しようとした動きだった。
別に不思議な話ではないのかもしれない。正義感の強い女子だったら、それぐらいするかもしれない。ここにはいないが、例えば学級委員の横井さん辺りはそうだろう。しかし、その女子生徒がキーコである場合、話は変わってくると思う。
僕は大柳のご機嫌をとりながらも、目の端で密かにキーコを追い続けていた。彼女はまた椅子に座り直し、はき替えるのか靴下を脱ぐのに集中していた。我存じぬといった様子だ。脱いだ靴下を内藤さんの顔に近づけて、けっけっけ、といたずらっぽく笑う。
「おい、もう帰っていいぞ」
そう僕にいってきたのは大柳ではなく藤吉だった。僕は何も答えずに、すごすごとその場から離れた。背後でまた大柳が「シカトしてんじゃねえぞ、こら!」とバイクをふかしたような声を上げた。
「いい加減にしろって」
生田の優しい言葉を聞くのと同時に、僕は教室を出た。
大柳のことはこれっぽっちも頭になかった。僕の中を占めるのは、キーコのあの不可解な行動ばかりだった。
もうまったく意味が分からない。キーコは僕をどうしたいのだ。
彼女が大柳に僕をボコってもらうよう頼んだわけではない、大柳が四組にきたのはただの偶然だ、というのはさすがに分かっていた。しかし、いくらなんでもあれはないだろう。横井さんを例にあげたが、彼女のような聖人でなくとも、多少は僕と親しい女子、佐野さんや今日初めて口を聞いた青柳さん、なんなら渚さんでもまだ納得できる。でも、キーコは違うだろう、明らかに。ついさっきだって僕に冷たい態度をとっていたじゃないか。
そのうち、キーコは僕が着替えを覗こうとしているのを見透かしたのじゃないか、という馬鹿馬鹿しい考えに達した。本当に僕はためらい始めていたからだ。着替えどころか、彼女のプライベートをモニタリングするのはもうやめよう、という気にまでなってしまう。僕を助けようとしてくれた彼女に、恩を仇で返すのを情けなく感じる。
しかし、それでは彼女の思う壺。そうだ。大柳のためだったのだ。きっと彼女は、大柳が暴力沙汰で非難されるのを案じたのだ。何を今更、と思ってしまうが、僕は自分にそういい聞かせた。
それなのに、その日は午後九時になっても、一度もチューナーの電源を入れようという気になれなかった。もっとも、まだカラオケから帰っていない可能性もあるが、放課後の騒動がなければ、「そろそろ帰ったかな」と何度も様子を見ていたのは想像に難くなかった。日課の際にも、あえて卒業アルバムをおかずに選んだが、キーコの笑顔を見た途端に息子は空気が抜けたようになってしまった。僕の中で再びキーコが輝き始めたらしい。
十時になっていた。さすがにもう帰っているだろうと思う。僕はゲームをしていた。八時に入浴を終えてからずっとだ。白い肌着のようなティーシャツとトランクス姿であぐらをかき、顔は限りなく無表情だ。ネクストコードの、古きよきロールプレイングでひたすらにエンカウントさせ、経験値を溜めていた。このゲームは、面白いが、キャラクターが成長しにくいのが難点だ。プレイ中の五割は、作業のような淡々としたレベル上げに費やされる。
もちろん覗きたい。死ぬほど覗きたい。それをしないのは、ここにきて芽生えたまさかの良心である。覗きたい、というのも、憎きキーコのプライベートを奪ってやる、という気持ちではない。純粋に、好きな女の子への興味や憧れからだった。
僕ははっと振り向いた。今、キーコの部屋からかすかにどん、という物音が聞こえた。あんな音がするということは、床にボーリングの球でも落としたか、それとも僕の部屋とを隔てる壁を直接蹴ったかぐらいだろう。
恐ろしい想像をした。ひょっとしてカメラが見つかったのではないか。それを覗き用のカメラだと見抜いたキーコは、今度は誰がどうやって仕かけたのだろうと考える。最も容易い侵入経路はベランダからだと気づく。僕が犯人だと確信したキーコは、怒りに任せて僕の部屋側の壁を蹴った。
こうしてはいられなかった。きちんとセーブをしてからネクストコードの電源をきる。テレビからネクストコードの端子を抜き、代わりにビデオデッキと繋ぐ。チューナーはビデオにデッキと接続していた。
僕は一度大きく深呼吸し、覚悟を決めてチューナーの電源を入れた。画面に映しだされるキーコの鬼のような顔のアップを思い描き、身を固くしながら。
やがてブラウン管の中の、見慣れたいつもの角度、いつもの高さからとらえたキーコの部屋を見て僕は、一旦は胸を撫で下ろした。ただし、それはほんの一瞬にとどまった。部屋の明かりは点き、キーコもちゃんといた。ベッドにうつぶせて漫画なのか参考書なのか、とにかく読書をしているようだった。カメラに気づいている様子など皆無だ。それなのに僕は、チューナーの電源を入れる前と同等か、もしくはそれ以上の緊張を覚えたのであった。
キーコはパンティだけしか身につけていなかった。
うつ伏せているため、胸は見えない。しかし、パンティに包まれた丸みのある尻や、そこからすらりと伸びた足、ランニング型の日焼け跡がついた背中は、からくも見えていた。
僕はすかさず股間を押さえつけた。早くも息子が暴れ始めている。それをよしとできないのは、やはりキーコへの恋心からか。改めて自覚する。僕はキーコのプライベートを覗いているのだ。キーコがなぜ裸なのかとか、そういったものはなんの疑問でもない。そこは彼女の部屋で、彼女だけの城だからだ。そりゃあ、読書をしたくもなる。テレビを観たくもなる。裸になりたくもなる。
きっかけとなった物音は、別にたいした意味はなかったのだろう。キーコは膝を曲げて足先をぶらぶらと左右に振っているし、そのせいで誤って壁を蹴ってしまったのだ。
彼女は本に目を落としながらも、ちらちらとある場所に目を向けていた。そちらにはテレビがある。寝そべって読書しながらテレビを観、おまけに裸とはなんたる身分だ。プライベートを満喫しやがって。毎晩勉強しているって話はなんだったのだ。おばさんにいいつけるぞ。
駄目だ。いくらあらぬ方向に意識を遠ざけようとしても、息子は静まってくれない。おそらく、誰もが優しくなれるヒーリングミュージックでさえ、その難題の前に頭を抱えてしまうだろう。
キーコがごろんと横を向いた。こちらに背を向ける形だ。つまり、実際は僕の部屋のほうを向いている。本の中身が見えた。明らかに漫画だった。視線は彼女の後ろ姿を撫で回す。綺麗な背中だと思う。彼女が腕を動かすたびに、肩甲骨が艶めかしく上下する。パンティは子供っぽい、やや布の幅が大きなものだ。少しだけずり下がり、尻の割れ目が覗いている。
そして寝返りを打つ。その瞬間、僕は股間の血液が全身に飛び散ったかのような感覚を受けた。ついに控え目な胸の膨らみと、そりゃあもう豆粒のような小ささではあったが、ピンク色の乳頭が目に入った。腕に隠れてしまいはしなかった。彼女はまるで僕に身体を見せつけるかの如く、漫画を持つ両手を頭上に高々と上げていた。視線は相変わらず、テレビと漫画をいききしている。足がかゆいのか、もう片方の足の爪で器用にかいている。その腿の動きもとにかく卑猥で、僕はなんだか我慢できなくなってしまった。
立ち上がって上半身のティーシャツを脱ぎ捨てる。ひょろっとした救いようのない貧相な裸体が、電灯の下に晒される。なぜキーコと同じ格好になろうと思ったのかは自分でもよく分からないが、とまらなかった。僕はベッドの上に横になった。キーコの隣で仰向けた。画面の中のキーコがテレビを観てぷっと吹きだした。僕のこの行動を笑われたように錯覚する。でも構わない。
心臓はばくばくと音を立て続けていた。壁を超えた先には裸のキーコがいる。そう考えれば考えるほど、息子の熱は上がっていく。ぼちぼち手当をしてやらなければならない。すでに自制心は崩れ去っていた。僕はパンツを下ろし、右手で息子を包み込んだ。そのときだった。
思わず上半身を起こし、テレビの画面を凝視する。壁一枚向こうでは、キーコもまた体勢を変えていた。体操座りの崩れたような格好で、壁に背をもたれ、漫画を左手一つで開いていた。やはり漫画とテレビを交互に眺めている。問題なのは右手だ。右手が自身の股間、白いパンティに伸びているではないか。
ごくりと生唾を飲み込む。まさか、と僕は思った。まさかこれは……
エロ本やテレビ番組、ちょっと大人なクラスメイトの会話により、その知識は一応あった。僕の日課は、男だけの特権ではない。女の子だって、やるときはやるのだと。
キーコの指先がゆっくりと動いていた。始めはなんら変わりなかった彼女の表情が微妙に変化し始める。もはやテレビにも漫画にも目を向けなくなった。というより、瞼は閉じられていた。パンティの上をなぞっていた指が、パンティの中へと侵入する。漫画を裏返しに置く。左手は小さな胸に当てられた。それほどはっきりと顔は見えないし声も聞こえないのに、彼女の呼吸が乱れていくのを僕は感じとっていた。
気がつけば、僕の右手も動いていた。キーコと背中を合わせて、僕も快感を貪っていた。まるで僕の右手はキーコを、キーコの右手は僕を慰めているようだ。
「キーコ、キーコオ」
そして、画面の中のキーコは僕の名前を呼んでいる。これはセックスだ、と僕は思った。同じ場所、同じ時間に快感を共有する男女。これをセックスだと認めない馬鹿がこの世にいるか。
「ああ、キーコオ、キーコオン! ふぉーん!」
僕らは長い時間をかけて互いを愛した。
二人が同時に昇天したとき、時刻は十一時を回っていた。頬を赤らめながら、余韻を楽しむかのようにゆっくりと服を着るキーコに、僕もならった。チューナーの電源をきり、ふうと息をついてベッドに寝転がる。天井をぼんやりと眺めながら、僕もいよいよ童貞喪失かあ、と呟いたりもした。
そんな馬鹿な!
熱が冷めて正気に戻った僕は、自分のやったことに愕然とした。やってしまった。ついにやってしまった。キーコの、最も他人に知られたくない姿を覗き、しかもそれをおかずにしてしまった。ああ、なんという愚か者。どんないいわけもできない。僕は本当にキーコを裏ぎってしまったのだ。
その夜は寝つけに寝つけなかった。罪悪感が地獄の業火のように僕の全身を焼き尽くし、キーコの僕を非難する声を終夜浴び続けた。




