13. ジョシュアの疑問 <ジョシュア>
朝から降り続く霧雨が、リタクロスの商業地区を灰色の帳で包み込んでいた。
工房との取引を重ねること数日。その度に突きつけられる冷淡な拒絶の言葉は、この霧雨のように容赦なく俺を打ちつけ続けていた。
通りでは祭りの準備に追われる職人たちの掛け声が響くが、その活気さえ、今の俺には虚しく感じられる。
雨に濡れた秘石ランプは、まるで俺の心を映すかのように、鈍く、虚ろな輝きを放っている。
工房を訪れる度に、有力商人との繋がりを盾に、誰もが新参者である俺を受け入れようとはしない。
この街は表向き、誰にでも開かれているように見える。
だが実際は、目に見えない厚い壁に守られた、閉ざされた世界なのだ。
肩に重くのしかかる母上からの重圧が、この雨のように容赦なく俺を打ちつける。
『私の息子ともあろう者が、こんな結果しか出せないなんて……無能な息子を持つと親は苦労するわね』
母上の冷たい声が頭の中で響くたび、胸の奥が締めつけられる。このままでは、ローレンス家の名を背負う者として失格だ。だがそれ以上に、ルチカが俺から遠ざかっていく恐怖が、心を蝕んでくる。
「くそっ」
舌打ちが漏れる。有力商人たちに囲われた工房。
商人ギルドの力関係を考えれば、今更どんな条件を提示しても無駄なのは明らかだった。
だが、ローレンス家の跡取り息子としてのプライドが、その現実を受け入れることを拒んでいる。
次の商談までの時間を潰すため、俺はシェザハの薬室を訪れた。
先日、ドリュアスの涙の植物を駆除した際の材料で作った薬を分けてくれるという話だ。
正直、獣人との関わりは避けたいところだが、トビアスの命の恩もある。その好意を無下にはできない。
「おや、よく来てくれたね」
シェザハの薬室に足を踏み入れると、湿り気を含んだ外の空気とは違う、乾いた薬草の香りが鼻をついた。ガラス瓶が光を反射し、棚に並ぶ瓶の中身がさまざまな色を帯びて揺れる。
奥で作業していたシェザハが顔を上げ、柔らかい微笑みを浮かべた。
「このところ街も随分と賑やかになってきたね」
シェザハは薬の梱包作業をしながら、さりげなく話を振ってくる。
「ああ、リタルク・ルミナリアの準備で忙しいようだな」
平静を装って返事をする。だが、街の喧騒の裏に潜む異様な空気を、俺も感じていないわけではない。
秘石ランプの明かりが日に日に強くなるにつれ、夜になると魔獣の遠吠えが聞こえるという噂も耳にしていた。
ふと、棚の一角に目を奪われる。
血のような深紅の液体の瓶。窓から差し込む鈍色の光に照らされたその色合いには、説明のつかない生命力が宿っているようにさえ見える。
そうだ、この色は……。
「この赤い液体。まるであんたの羽織のような鮮やかな色をしているな」
思わず、瓶を指差しながら声が漏れる。
「おや、よく気づいたね」
シェザハは作業の手を止め、意味深な笑みを浮かべた。
その表情の奥に、何か別の意図が垣間見えた気がしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。
「実はね、これは僕が調合した特殊な染料なんだよ。薬草から抽出した色素に、ある秘密の材料を加えてね」
その瓶を光に透かすと、まるで生きた血液のように光を通した。
陽の光を受けて、瓶の中の液体がわずかに蠢いたような錯覚さえ覚える。
一般的な染料なら、光の加減で色調が変化する程度だが、これは違う。
まるで意思を持っているかのような動きだ。
「へえ、薬師が染料まで作るのか?」
思わず眉を上げる。
王都のギルドですら、これほどの品質の染料は作れないはずだ。
しかも、薬の調合と染料作りは全く別の技術のはず。
何故、一介の薬師がこれほどのものを……。
「ふふ、驚いたかい? 実はね、薬の調合技術は意外なところで役立つんだ。この染料もその一例さ」
シェザハは瓶を手に取り、俺に差し出した。
「嗅いでみてくれないか?」
促されるまま、俺は瓶に鼻を近づけた。途端、あの不思議な香りが鼻腔をくすぐる。
「この香り...あんたの羽織と同じだな」
「よく分かるね。この染料、色だけじゃなく香りにもこだわっているんだ。布だけでなく、ガラスや陶器の色付けにも使えるんだよ」
シェザハの言葉に、商人としての俺の興味が一気に高まった。
「それは面白い。市場価値がありそうだな」
「そうだろう? でもね、まだ試作段階なんだ。量産までには至っていない」
シェザハは少し寂しそうに笑った。
その表情に、何か言葉にできない思いが隠されているような気がした。
「そうか...」
俺は瓶を見つめ直す。鮮やかな色、独特の香り。そして薬師の技術が織りなす不思議な染料。
これが単なる染料以上の何かである可能性を、俺は直感的に感じ取っていた。
「いずれにせよ、興味深い代物だ。いつか市場に出回る日が来るといいな」
軽く言葉を濁しながら、俺は瓶を静かに作業台に戻した。
だが、その色と香りは俺の記憶にしっかりと刻み込まれていた。
シェザハは何やら棚から小さな包みを取り出した。
それを開くと、深紅に染められたバンダナが姿を現す。
「これは……?」
布地に触れた瞬間、不思議な温もりを感じた。
まるで生き物の体温のような。
上質な絹のような手触りだが、織り方は見たことのない独特のもの。
そして、羽織と同じ独特な香りが、確かにその布地からも漂っている。
「気に入ったのなら、これをあげよう。端切れで作ったものだがね。他ならぬジョシュア君のためだ」
その言葉に、一瞬戸惑いを覚える。
商人として鍛えられた直感が、警告を発している。
これほどの価値がある染料の布を、なぜ無償で渡すのか。
そして、「他ならぬ」という言葉の裏側に潜む意図は何なのか。
シェザハの長い耳が小さく動き、その目は俺の反応を観察しているようだった。
商人としての経験が、この布の異質さを告げている。
どの染色技法を用いても、これほどの深みと生命力は再現できないはずだ。
躊躇いながらも、俺は静かに頷き、懐にバンダナと薬を収めた。
「……有難く頂くとしよう。世話になったな」
「こちらこそ。いつでも来ておくれ」
去り際、シェザハの声が背中に届く。
「時には、思いがけないところで道が開けるものだ。諦めないことだよ」
振り返ると、シェザハは窓際で赤い染料の瓶を掲げ、光に透かして見ていた。
その姿は、まるで血を見定める医師のようで、俺は何とも言えない違和感を覚えた。
外へ出ると霧雨はようやく曇天になり、湿った空気が肺に重く感じる。
街の喧騒が、俺の思考を遮るように押し寄せてくる。
その中で母上の冷たい視線と、ルチカの姿が、俺の中で複雑に交差していた。
ジョシュア君がんばってます




