12. 琥珀色の追憶④
通りの喧騒が次第に大きくなり、食堂に近づくにつれて、温かな香りが私たちを包み込んでいく。
昼時ということもあってか、店内からは人々の笑い声や食器の触れ合う音が溢れ出ていた。
「こちらへ、どうぞ」
カイさんが来たと分かると、店の主人は慌ただしく頭を下げ、私たちを別室へと案内した。螺旋階段を上がると、そこは開放的なテラス席。一階の賑わいが嘘のように、ここには静寂が漂っていた。
時折吹き抜ける風が、テーブルに飾られた青い花を揺らし、爽やかな香りを運んでくる。
白を基調としたテーブルセットは、まるで雲のような柔らかさを感じさせる。
テーブルクロスには特殊な織り方で、細かな秘石の粒が織り込まれているのか、陽光を受けるたびに淡い虹色の輝きを放っている。
まるで朝露が光を受けて輝くような、繊細な煌めき。
先ほど通りで見た秘石織の布を思い出す。この部屋の調度品の一つ一つに、リタクロスの技巧が散りばめられているのかもしれない。
テラスの周囲には白とピンクのバラが咲き誇り、その向こうには街並みが一望できる。
他に客の姿はなく、この空間は私たちのためだけに用意されたかのようだった。
カイさんはソファに深く腰を下ろすと、にこやかな笑みを浮かべて私を見つめている。
その瞳の奥に潜む何かが、私の心を落ち着かなくさせる。
男性と二人でこんな優雅な空間に身を置くのは初めての経験。
それもレザト様ではなく、カイさんと……。
風に乗って一階からふわりと漂う料理の香りが、私の緊張を更に高めていく。
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよォ」
カイさんは、私の緊張を見抜いたように、からかうような声を投げかけた。
「まあ、レザト様の婚約者様がこうして一人の男性とお食事、というのは確かに……」
私の顔が赤くなるのを見て、カイさんは意地悪そうに尾を揺らした。
「なーんて! ワタシなんて所詮、ただの商人ギルドの下っ端ですからねェ。それに今日は、純粋にリタクロスのことを知っていただきたくて。だって、この街はいずれルチカ様の第二の故郷になるんですから」
その言葉には、からかいの中にも不思議と説得力があった。
街への真摯な想いが、軽薄な口調の底に垣間見える。
「この店のオーナー、実は獣人なんですよ。表には出ないようにしているんですがねェ。リタクロスは、獣人と人間が一緒に暮らせる数少ない街なんです」
カイさんは遠くを見るような目をして、少し声のトーンを落とした。
「まあ、簡単な道のりではありませんでしたがねェ……。レザト様のご尽力あってこそ、今のリタクロスがあるんです」
「レザト様の……」
私は街の景色に目を向けた。秘石ランプが連なる通りを、人々が行き交う。
人間の商人が獣人の職人と談笑し、子供たちが種族の違いも気にせず駆け回っている。
その光景の一つ一つが、レザト様が積み重ねてきた努力の結晶。
街並みの向こうに、遠い山々が霞んで見える。
そこから続く森は、きっとレザト様の故郷につながっているのだろう。
今の彼を形作ったその場所は、私の知らない記憶で満ちている。
テラスを吹き抜ける風が、私の決意を新たにする。
レザト様の伴侶として、この街を、そして彼を支えていく未来。
その重みを、私も真摯に受け止めないと……。
「……ルチカ様は」
カイさんの声が、別人のように変わった。
いつもの軽やかな調子は消え、どこか重みのある響きに変わっている。
その変化に、私は思わず背筋を伸ばした。
「レザト様が獣人の森で暮らしていた頃のことをご存知ですか?」
「いいえ……」
「なるほどォ。あの頃から、レザト様は強かったんですよォ」
カイさんの狐の耳がピクリと動き、深緑の尾の揺れが少しだけ緩やかになった。
声は、元の軽い調子に戻っている。
けれど、さっきの一瞬の変化は確かにあった。
何か大事な意味が込められているような気がして、妙に私の胸に引っかかる。
そんな私の思いをよそに、カイさんの瞳はすでに古い記憶に浸るように、どこか遠くを見つめていた。
「誰よりも真っ直ぐで、誰よりも純粋で……。森の中で狩りをしている時のことです。ワタシが危険な崖っぷちに追い詰められた時、レザト様は迷わず助けに来てくれた。自分の身も顧みずに……」
陽光を受けて煌めく秘石のテーブルクロスの上で、カイさんの指先が微かに震えていた。その横顔に浮かぶ表情は、今まで見たことのないほど柔らかく感じた。
「そんなことは一度や二度じゃありませんでしたねェ。獣人の森ではね、力の強さが全てを決めるような、そんな掟がありました。でも、レザト様は違った。弱いものを守ることを、何より大切にしていた」
「それは、今のレザト様と同じですね」
私の言葉に、カイさんは淡く寂しい笑みを浮かべた。
「ええ、そうですねェ。まるで童話の騎士のようでしたねェ。昔も今も、変わらない部分もある。でも……」
言葉が宙に浮いたまま、カイさんの瞳の奥で影が揺れる。
「あの、お二人が獣人の森を出たきっかけは何だったんですか?」
その問いが、空気を一瞬凍らせた。
カイさんの獣の耳が鋭く震え、尾の動きが止まる。
けれど、それもほんの一瞬のこと。
すぐに彼は軽やかに肩をすくめ、いつもの調子を取り戻した。
「おやおや、ルチカ様は鋭いですね〜! そりゃあもう、ワタシは商売の才能を活かすため! 森なんかにいちゃあ、この類まれな商才が埋もれちまいますからねェ~!」
「レザト様は……」
「おっとルチカ様」
カイさんは人差し指を唇に当て、蝋燭の炎のように揺らめく笑みを浮かべた。
「本日はここまでですよォ。だって全部話しちゃったら、ルチカ様はワタシとこうして会ってくれないでショ~? 次のデートまでのお預け♡ってことで!」
その軽やかな仕草の裏に、覗き込めば引きずり込まれそうな闇が見え隠れする。彼の声が明るく弾むほど、その暗さは静かに深まっていくような……。
「分かりました。次のデート、楽しみにしてますね」
私も、カイさんと同じように軽やかな返事を返す。
彼の表情の影に浮かんだ痛みは、簡単には語れない過去の傷跡なのだろう。
それは、レザト様が私に語らない過去と、どこかで繋がっている。
「あらァ、ルチカ様も言うじゃありませんか~! おじさん、張り切っちゃいますよ~!」
そう言い終わるか否か、螺旋階段からリズミカルな足音が響いてきた。
白い湯気と共に、タイムやローズマリーの爽やかな香りが風に乗って漂う。
「お待たせいたしました。こちら、ギンエ湖で今朝獲れた湖水魚の香草包みでございます」
純白の蒸し布を丁寧にほどくと、香草の芳醇な香りが一気に広がった。銀色に輝く魚の身が、まるで湖面に月光が映えるかのよう。
「ほらほらぁ! ルチカ様、これが名物の香草包みですよォ! 一度食べたらやみつきになる事間違いなし!」
カイさんの声が弾むように明るい。
「ささ、冷めないうちに食べましょ! それにデザートもですね、リタルク石を模した秘石ゼリーが……」
青空の下で味わう料理は格別だった。香草の香りと魚の繊細な旨みが口の中で調和し、心まで温かくなっていく。
思いがけず私の孤独を癒してくれたカイさんに、そっと感謝した。




