5.潮風を後にして
「はあ……これくらいかな」
夜もふける中、私は屋根裏部屋で荷造りに追われていた。
明日、私は顔も知らない婚約者が待つ領地へと旅立つ。
この美しい王都の港町から馬車で数日はかかるという辺境の地へ。
もう、窓から流れる潮風の薫りや心地よい潮騒の音色を聞くことは叶わないのかもしれない。
そんな切ない想いが胸によぎると、ローレンス家の人たちに冷たくされつつも、港の倉庫とお屋敷を行き来する単調な日々が何だか愛おしく感じられてくるから不思議だ。
視線を移すと、壁に掛かっているドレスが目に入る。
奥様がいつもの服はみすぼらしいからと手渡したもの。
貴族の女性が着るような華美な装飾や宝石はないけれど、淡い水色の生地は上等で細かい刺繍やレースが施された品の良い服だ。
それが、何もかもが古ぼけたこの部屋で唯一目を引く存在で、何だか妙に場違いに見える。
「入るぞ」
突然、ノックもなしに誰かがドアを開けて階段を上がってくる音が聞こえた。
「ジョシュア……こんな時間に何の用?」
こちらの都合も気にせず無遠慮に部屋に入るのは、彼しかいない。
私はため息混じりに部屋に入ってきたジョシュアを一瞥すると窓辺に視線を戻した。
「明日でお前の辛気臭い顔ともお別れだからなあ。その醜い引っ掻き傷顔を覚えといてやろうという俺なりの餞別さ」
「それで顔を見られて満足した? 明日は早いから、もう寝るところだったの。おやすみ」
「……俺になにか言いたいことはないのか」
どこか暗い闇を含んだ声でジョシュアが呟く。背中にぞくりとしたものを感じて振り返ると、ジョシュアと目があった。
今日の彼はいつも以上に機嫌が悪い。
長年一緒にいて、こんな所ばかり察しがよくなってしまう。
思い起こせば、ジョシュアの態度に最初の頃は傷ついて泣いたこともあったけど、10年も経つと彼の態度も日常の一部となり、気にならなくなっていた。
けど、今日のジュシュアが私を見つめる瞳は今までみた事のないほど暗く、鋭く、そして壊れそうな脆さがあった。
どうしよう。なんて返せばいい? 私だって言いたいことはたくさんある。
けれど、それを今ジョシュアにぶつけて何になると言うのだろう。
込み上げてくる感情を抑えて、私はあくまで平静を装って答えた。
「…特に何も。ジョシュアも私がいなくなってせいせいするでしょ」
「俺が原因でこんな事になったのに、なぜお前は俺を責めない!? 怒りをぶつけない!?」
「きゃっ!?」
突然、大きな音を立ててジョシュアが私に襲いかかった。驚きのあまり、声を上げることもできずにベッドに押し倒されてしまった。
「ジョシュア…? 一体何す……んむっ!?」
口の中に柔らかくて温かなものがねじ込まれる。それがジョシュアの舌だと気付いた途端、背筋にゾクリとした恐怖が走った。
「んっ……はぁッ……ん…ふっ…!!」
口の中をジョシュアの舌が生き物のように動き回る。
耳に響く粘着質な響き、男を感じさせる骨ばったジョシュアの指が私の体をキツく押さえて身動きが取れない。
「ジョ…シュ……や、…ぁ…!」
ささやかな抵抗を試みるも、貪るように私にキスするジョシュアの耳には届いてないようだった。
「ぷぁ! はぁ……はぁ……」
長いキスが終わるとジョシュアは私の胸元に頭を埋めた。
荒い吐息が肌に触れて痺れるような感覚になる。
混ざり合う私とジョシュアの吐息が酷く気持ち悪い。
……ジョシュアは、とうとうこんな性的な嫌がらせまで私にするの?
今まで散々嫌味は言われてきたけれど、ここまでの行為は予想外だった。
どこかでジョシュアを信頼して、安心していた私がいた。
それは、ある意味家族とも言える感情かもしれなかった。
けど、ジョシュアは違ったのだろうか。
やはりどこまでいっても私は彼の憂さ晴らしの人形でしかないのか。
呆然としたまま見つめていた天井が、ぐらりと涙で歪む。
やがて視線を上げたジョシュアの顔は、私の知らない男の顔だった。
頬を上気させ熱を含んだその視線は、港近くの色街でみた男たちの目と似ていた。
「ひっ…ぅ…」
恐怖で上手く言葉が出ない。
そんな時、港の仲間のレナの言葉が響いた。
『もし港で男に襲われても抵抗しちゃだめ。下手に抵抗したら殺されることだってあるからね。最中はすべて諦めてじっと耐えるんだ。命さえあればなんとかなる。その後の心配は大丈夫よ。ここは港だからね、【色々】揃ってるから』
抵抗しちゃいけない。
港で身につけた危険を察知する直感が、私にそう囁いていた。
私の生き残る術は、抵抗せず、目の前の状況を受け入れること。
そう、私は何度も何度もそれを繰り返してきた。
ジョシュアの指がゆっくりと、胸元のボタンを外していく。
怖い……!
ジョシュアに触れられる度、この先の行為を想像して体が強張ってしまう。
ジョシュアを突き飛ばして拒否出来たなら。
でも、私の心の中で小さな声が囁く。
『怒らせたら、もっとひどいことになる。無難に流すんだ、それが一番だ』。
それに、万が一騒ぎを聞きつけた奥様たちに見つかったら、なんて答えればいいんだろう。ジョシュアは、『私から誘ってきた』なんて言うかもしれない。奥様の怒り狂う顔が目に浮かぶ。
きっとまた、私だけが罰せられる。
その時、ジョシュアの触れる指先がわずかに震えている事に気付いた。
表情もさっきの興奮した様子から、どこか苦しそうに顔を歪めている。
ジョシュアの表情から、単純な欲望だけでは語れない何か深い苦しみが見えたようで、私は少し戸惑った。
それは、私が過去に経験したことのある、悲しみや切なさと似たような感情かもしれない。
だとすれば、ジョシュアは私に何を求めているんだろう。
その時、ジョシュアは突然動きを止めた。
ぽたり。
何だか生暖かいものが私の頬に落ちた。
ぽたり、ぽたりと何度も私の頬に落ちるそれは、ジョシュアの瞳から溢れて来る。
ジョシュアは泣いていた。
「……お前はいつもそうだ。俺に犯されるかもしないって時でも、全て諦めたような目をしてどこか遠くばかり見やがって! お前のそういうところが大嫌いなんだ!」
ジョシュアは怒りをぶちまけ、私から身を引いた。
その姿が何だか迷子の子供が癇癪を起こして泣いているような、そんな姿と重なって見えた。
「私……ジョシュアの事嫌いじゃなかったよ。私に本音をぶつけてくれるのは、ジョシュアだけだったから」
精一杯の笑顔をジョシュアに向ける。
正直、あんな事をされた後で笑顔を向けるなんておかしいかもしれない。
でも、最後は涙よりも笑顔で別れたかった。
「……ふん、せいぜい領主様にもそうやって媚を売って暮らす事だな。お前みたいな学も華もない傷モノの女、すぐに飽きられて捨てられるだろうがな」
ジョシュアはいつものように嫌みを言い残し、部屋を去っていった。
けど、その背中は言葉ほどの強さを感じさせず、どこか頼りなく見えた。
「ジョシュア……」
呟きは、海のさざ波に溶けて消えた。
辺境へと旅立つ朝、私を見送るローレンス家の姿は無かった。
仕事仲間たちは、私が旅立った後にシュヴァルツェルト領へ嫁いだことを知るのだろう。
レナやトビアス、みんなにお礼くらいは言いたかったけど今更どうにも出来ず、ただ歯がゆさが心の中に残っただけだった。
誰も見送る者のいない、静かな出発。
屋敷の前に止まっていたのは馬車でなく行商人がよく使う、移動式の店舗も兼ねた荷馬車だった。
「話は聞いている……乗れ」
馬を操る男性の声が聞こえる。彼の表情は、深く被ったフードで見えない。
けれどフードから覗く長い白いヒゲが彼の年齢を物語っていた。
奥様のことだ。私を送り出すためにわざわざ馬車や御者を用意するのはお金の無駄と判断したんだろう。
だからって行商人の荷馬車に乗り合わせるなんて、改めてあの人たちは私の事を人間以下の荷物にしか思ってないのだと、自然とため息が漏れた。
「どうした。早く乗れ」
お爺さんが少し苛立った様子で声を掛ける。
お爺さんは何だか近寄りがたい雰囲気で、これから数日、この人と二人きりで旅をしなくちゃいけないなんて、始めから気が重くなってしまう。
諦めて荷馬車に乗り込む直前、ふと視線を感じて屋敷をみると、窓越しにジョシュアの姿が見えた。
……気のせいかもしれないけれど。
荷馬車は海とは反対の方向へと進んでいく。
最後に、きらきらと輝く海を瞳に焼き付ける。
「……さよなら」
小さくなっていく海を、じっと見つめ続ける。
心の中で色々なものに別れを告げながら。
やがて海が見えなくなると、馬車の揺れに身を任せて私は静かに目を閉じた。
ジョシュア…お前…お前ってやつは……。




