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9. 心労 <レザト>

私は夜の街を見下ろす窓辺に立ち、冷たいガラスに額を押し当てた。

深いため息が窓に白い霧を作り、一瞬、視界を曇らせる。


リタクロスの街並みは、秘石ランプの琥珀色の光に包まれ、幻想的な景色を作り出している。

だが、その柔らかな輝きの間に潜む影の濃さに、私の獣人としての鋭敏な感覚が警鐘を鳴らす。


耳を澄ませば、遠くから聞こえてくるかすかな悲鳴のような風の音。

鼻をひくつかせれば、いつもの街の香りに混じる、何とも言えない違和感のある匂い。

これらすべてが、光の中に潜む闇の存在を私に告げているようだった。


騎士団の疲弊、商人ギルドとの緊張関係、そして昼間のルチカの力の発現。次々と押し寄せる問題に、私の心は千々に乱れていた。


ルチカのことを思うと、胸が締め付けられる。

昼間に起きた秘石ランプの異常発光が、網膜に焼き付いて離れない。

普段は静かに優しく輝く琥珀色の光が、突如として太陽のように眩しく燃え上がった光景。

その刹那、耳をつんざくような金属音が響き、空気が震えるのを肌で感じた。

秘石ランプがあのような異常な発光をするなど、私の長い人生で一度も目にしたことがない。


そしてそれが何故あの時、あのタイミングで起こったのか——。


ふいにルチカを見たあの瞬間、私の全身を電流が走り抜けた。

直感的に、あれが彼女の力だと理解した。全ての秘石に適応する能力。

それがあのような事態を引き起こしたのではないか、と。


目を閉じれば、ルチカの戸惑った表情が浮かんでは消える。

ちぎれた雲のように、掴もうとしても指の間からすり抜けていく。

彼女の髪から漂う、かすかな花の香り。触れれば壊れてしまいそうな、儚くも強い存在。


彼女が見せた不思議な力。それは希望の光なのか、それとも私たちを飲み込む暗闇なのか。

愛しい人であると同時に、未知の存在でもある彼女。

その二面性に、私の心は嵐の中の小舟のように揺れ続けている。

甘美な蜜と危険な毒、その両方を内包する存在。それが今や、私の運命と不可分になっているのだ。


「団長、そろそろ出発の時間です」


部下の声に、私は物思いから我に返った。今夜はギデオンに代わり、私自身が哨戒に参加する。

ふと、エマの報告が脳裏をよぎる。


『ギデオンの怪我なのですが、私の治癒魔法の効きが非常に悪いんです……』


彼女は伏し目がちに語っていた。

エマの治癒魔法は騎士団の怪我や疲労を大幅に軽減してきたのに、なぜかギデオンの怪我だけは例外だった。エマ自身も首を傾げるほどの異常事態だ。


ギデオンから詳細を聞き出すのは容易ではなかった。

自他共に認める騎士団最強の男にとって、負傷の話をするのは屈辱だったのだろう。

それでも彼は渋々と語った。


『……魔獣の群れの中に一匹だけ毛色が違うヤツがいてな。そいつが輪を掛けてやっかいなのだ。腹の傷もそいつにやられた』


ギデオンの負傷は予想以上に深刻で、回復の兆しが見えない。

それだけでも心労は募るのに、この街を脅かす未知の魔獣の存在が、さらに状況を複雑にしている。


魔獣――その存在は我々にとって古くから馴染み深いものだ。幼い頃、獣人の村で過ごしていた時分から、私は魔獣の存在を知っていた。

獣のような姿をしながら、通常の動物とは明らかに異なる魔力を纏う彼らは、人や獣人にとって脅威となる存在だ。だが、その正体については未だ多くの謎が残されている。


私の記憶の中で、魔獣は恐ろしくも畏敬の対象だった。彼らは自然の一部であり、我々獣人とも縁深い存在。時に村を襲うこともあったが、それは自然の摂理として受け入れられていた。


人間社会に出てからも、魔獣との遭遇は珍しくなかった。特に国境付近では、時折魔獣の群れが現れることがあった。だが、それらは我々騎士団にとって、さほど手に負えない相手ではなかった。

しかし、今や事態は一変している。


これまでの経験則が通用しない何かが、この街に忍び寄っている。


私は装備を整え、部下たちを率いて駐屯所を後にした。

夜の空気が肌を刺す。月明かりさえ、不吉な影を落としているように感じる。


哨戒のルートは、騎士団駐屯所を起点に「大門と街道沿い」「壁に囲まれた商業中心地区外周」「採掘場・山岳地帯方面」「住居地区」「工房地区」と巡回し、再び駐屯所へ戻る。

以前は魔獣の生息地である山岳地帯が主な哨戒地点だったが、今や街全体が魔獣の脅威にさらされている。


私は頭の中で情報を整理する。エドウィンの緻密な分析は、この混沌とした状況で私の数少ない拠り所となっている。


秘石ランプの配置と魔獣の出現場所には、明らかな相関関係がある。通常、魔獣は光を避ける習性があるはずだ。しかし今、彼らは光の強い地区に集中して現れている。通常とは真逆の現象だ。


大門に到着すると、そこでは商人たちが深夜にもかかわらず忙しく働いていた。彼らの顔には疲労と不安が見えるが、それでも必死に日常を守ろうとしている。


「また秘石ランプが付かないとか、これで何度目だよ。どこの工房のやつだ? 俺が直接文句言ってやる!」

「いや、それがランプの不具合はどこの工房とかは関係なく壊れたり、光が弱くなってるんだよ。いいから早く交換しようぜ。俺、いつ魔獣に襲われるか怖くて……あっ!」


我々騎士団の姿に気づいた商人が、バツの悪そうな顔でこちらを見た。

彼らはそそくさとランプを交換し、足早にその場を去っていく。


私の脳裏に、エドウィンの報告が蘇る。魔獣の出現が多い地区では、秘石ランプの機能不全が頻発しているという。この現象と今回の事態に関係があるのだろうか。


そして、不吉な予感が背筋を走る。

もし関係があるとすれば——敵は内側にいるのかもしれない。



商業地区に入ると、華やかな秘石ランプの明かりが目に飛び込んで来た。

しかし、その美しさとは裏腹に、ここも魔獣の出現が多いという。


「この匂い……」


私は夜の冷たい空気の中に、微かに漂う異臭を感じ取った。通常の魔獣の臭いではない。もっと鋭く、鼻を刺すような、腐った肉のような匂い。まるでこの場にそぐわない、異質な存在が漂っているかのようだった。獣人の感が、警鐘を鳴らし続ける。


「魔獣の臭いがするな。しかし何か違和感が……」


突如、鋭い殺気が背筋を走る。騎士団駐屯所付近から、ここからでも分かるほどに濃い魔獣の殺気が伝わってきた。

剣を抜く音が夜風を薙ぎ、私は戦闘態勢に入った。


「急ぐぞ! 駐屯所方面から来るぞ!」


周囲の騎士たちも素早く隊形を組む。彼らの緊張した息遣いが聞こえる。

そして駐屯所へ駆け付けたが否や、闇の中、姿を現した魔獣を見て、私は思わず息を呑んだ。


全身を覆う黒い霧が、夜の空気を飲み込み、あたり一帯が妙に冷えていくのを感じる。

その目は真っ赤に輝き、まるで私たち全員を見透かしているようだった。

カーネルフ――この地域に生息する四足の魔獣。一般的に体色は茶色や灰色で、岩場や森林に溶け込むように適応している。

しかしこのカーネルフは、以前に見たものとは全く異質な存在に変わり果てていた。


その異様な姿を目にし、私は直感的に理解した。魔獣としての本能を超えた力を、この個体は身に纏っているのだ。ギデオンに傷を負わせたのも、この個体で間違いない。

その四足が地面を踏みしめるたび、震えが伝わり、周囲の空気が重く圧迫される。霧が足元を這い、まるで私たちの意識を奪い取ろうとしているかのようだった。


過去に幾度も戦ったカーネルフなら、私たち騎士団の戦術で対処可能な相手だ。

身体は大きいが、素早い動きと鋭い牙を持つ程度の、いわば「自然界の猛獣」。

しかし、今目の前に立つ存在は、その枠を超えていた。

黒い霧を纏ったその姿は、獣というよりもむしろ化け物だ。


「全員、警戒を怠るな! 奴はただの魔獣ではない!」


瞬間、魔獣が鋭い殺気と共に跳びかかってきた。通常の魔獣とは桁違いの速度だ。私は剣を振りかざし、辛うじてその一撃を受け止めるが、衝撃で腕が痺れる。

 

「く、こんな……力が……」


魔獣の体から放たれる瘴気のようなものが空気を重くさせ、呼吸が苦しくなる。

これが、ギデオンを苦しめた力か。


私は全神経を集中し、魔獣の動きを読み取る。獣人としての直感が、普段以上に鋭く働く。

その瞬間、魔獣の毛皮から露出した、異様に輝く部分が目に入った。

あれは...…何だ?


「あそこか...!」


剣を振るい、その部分を狙う。魔獣は痛みに悶え、さらに攻撃を激化させる。

私は何とかそれをかわし、反撃の機会を窺う。


「団長、後ろです!」


団員の一人が叫ぶ。振り返ると、別の魔獣が襲いかかってくる。

剣を振り回し、何とか押し返す。


「くそっ、囲まれたか」


私は歯ぎしりした。


「全員、背中合わせで円陣を組め!」


騎士たちが素早く動き、円陣を形成する。我々は息を合わせ、次々と襲いかかる魔獣たちを迎え撃つ。

剣と爪がぶつかり合い、火花が散る。

激しい攻防の末、ついに決定的な一撃を放つ。


「ギャガァグゥッ!!」


魔獣の悲鳴と共に、私の突き出した剣が、魔獣の輝く石に大きなヒビを入れた。

黒い魔獣は、呻き声と共に闇の中へと逃げていく。その後に続くようにまだ生き残っている魔獣たちも引き返していった。

周囲の騎士たちから歓声が上がる。


「夜はまだ長い。油断するな。そして……互いを信じろ」


騎士たちの顔には疲労が見えるが、同時に決意の色も浮かんでいる。私は彼らの勇気に、心から感謝した。彼らがいなければ、この街を守ることなどできない。


魔獣は逃げ去った。しかし、私の心に重くのしかかるのは、この異常な状況をどう打開すればいいのかという問題だ。


私は喉から出かかった溜息を飲み込み、再び哨戒に戻る。

街の灯りが揺らめく中、私の影が長く伸びる。夜風が私の獣の耳を撫で、かすかに血の匂いを運んでくる。


この謎を解明し、リタクロスを守るため、今夜も私の戦いは続く。

獣人としての感覚が、迫り来る危機を感じ取っている。

しかし同時に、私の中にある人間的な感情――ルチカへの愛、この街への愛着、そして仲間たちとの絆――がその危機に立ち向かう勇気を与えてくれる。


私は静かに、闇の中へと歩を進めた。



ちょっと今月の更新はこれだけになります。

段々と祭りに向けての下準備も揃ってきた感じです。

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