3.悪徳商人
「えっと、今日はこの木箱をあと3箱、ルッティアの酒場に届けて、次にレヴァナス海軍の寄宿舎の調理場にフォルシア産の香辛料の納品、そして……」
「おい水夫さんよぉ! まだ荷卸しが終わらねえのかよ! てめえらデカい図体してその身体は飾りか?」
「ああ? こちとら命掛けて荒れ狂う海を渡って荷物運んでんだよ! 陸でぼーっと口を開けて待ってるしか能のねえ奴らは黙ってろや!」
「はああぁ……」
怒号と喧騒が満ちる港。今日は皆、特に気が立っている。
昨日までの悪天候で大型船が港に接岸できず、今日やっと港に停泊したものの、今度は荷卸しでトラブルが起きて水夫と港の倉庫番たちが殴り合い寸前の争いになっている。
なにもこういう事は珍しい事じゃない。
今は殴り合うよりもその元気を荷卸しに使って欲しいし、私の仕事に集中させて欲しいと思うばかりだ。
「おい、ひっかき傷はどこだ!」
騒がしい足音を響かせながら、ジョシュアが倉庫に入ってきた。彼はどこか慌てた様子で私を見つけると、水夫たちを掻き分けて向かってきた。
「ジョシュア? 何慌てて……」
「今すぐ隠れろ!」
「は? なんで隠れなきゃいけないの?」
「理由はいいから、そこら辺の木箱か樽の中にでも入ってろ!」
「だから何で隠れなきゃいけないのよ? 見て分かるでしょ。今日は特に忙しいの。そんな隠れんぼしてる暇なんかないわ」
「うるさい! 黙って俺の言う事を……」
「おいっ、ノーマン様が来たぞ!!」
「え……?」
ノーマン。誰かが叫んだその言葉に一瞬、皆の動きが止まる。
襟首をつかみ合いながら殴り合う寸前の水夫も、忙しく検品をしていたレナも、そして私も。
ノーマンという名前は、この港ではそれだけ重い響きとなって皆の動きを止めるだけの力を持っている。
「いやあ、活気があって誠によろしい」
倉庫の入り口に立つ一人の男。
彼の出現に皆の視線が集まる。目を見張るような深紅のマントを身に纏い、その服は黒を基調に細やかな刺繍が織りなす美しさで一目で高級品だとわかる。彼は顎髭を指でなぞりながら、堂々とこちらへ向かってくる。
「ノ、ノーマン殿……」
ジョシュアも彼の圧倒的な存在感に押されているのか、何か怯えたような様子で彼が近づくたびに顔が青ざめていく。
ジャン・グリ・ノーマン。ノーマン商会の総裁で、レヴァナス王国の商人たちの間では、彼の名を知らない人はいないと言われるほどの人物。
一見すると才能溢れる熟練の商人に見える。けれど港で働く私たちは知っている。
彼が非合法の薬、魔物の密輸、さらには自国民の人身売買で成り上がったという噂を。
「ローレンス殿が話の途中で退席されたものですから、何か体調でも悪いのかと心配しましたよ」
「いえ…お気遣い痛み入ります」
「それにしても、ローレンス商会の倉庫はさすがに整理整頓が行き届いておりますな。あなたの母上の性格が出ているようだ」
「そんな……お褒め頂き光栄です……」
気づけば、周りの注目はノーマン総裁とジョシュアに注がれていた。
あれほど騒がしかった水夫たちでさえ、会話を止めて二人のやり取りをじっと見ている。
ひそひそとした囁きが倉庫の壁を反響させている。
「おや! ジョシュア殿の後ろにいる方。もしかして、この女性が……」
ノーマン総裁が私の顔を見た途端、パッと顔を輝かせたのに驚いて、思わず顔を下に向けてしまった。
ジョシュアは、私のことをノーマン総裁に話したの…?
一体何を話したら、あのノーマン総裁が直々にここまで足を運んでくるのだろう。
「ち、違います! この女はその、うちで働いてるレナの娘でして……」
娘? ジョシュアの言葉に今度は思わず顔を上げる。
ジョシュアはなぜそんな嘘をつくのだろう。
もしかして、さっきジョシュアが私を慌てて隠そうとした事と関係しているの……?
瞬間、ぞくりとした悪寒に体が震えた。
「え、レナさんの娘さんだったんですか!? 前、僕と同じくらいの息子が一人いるって……」
「トビアス!!!!」
レナの鬼気迫った声に、トビアスがしまったという顔で口を両手で抑えた。
何かまずい事を言ってしまったのだと理解したらしい。
「ははは、ジョシュア殿はお父上に似て冗談がお好きなようですな」
「………」
とうとう、ジョシュアは何も言葉を返さず、乾いた笑いを浮かべるだけだった。
ノーマン総裁の鋭い視線が、私を捉える。
「ああ、ついにお会いしましたね、レディ。シュヴァルツェルト家の生き残りという名の美しき花とは、あなたのことだったのですね」
「え……?」
誰もが忘れ去ったはずの、私の家名。
なぜこのノーマン総裁はそれを知っているの?
「私の事をご存知なんですか……?」
「ええ、もちろん。シュヴァルツェルト伯爵とは古くからの知り合いでしてな。10年前の戦争でご両親を亡くされてからどこかに引き取られたとは聞いていたのですが……まさか、ローレンス家の元にいたとは」
巷にはびこるノーマン総裁の噂が一切良い話でなかったせいか、彼が私の前に現れた時、思わず身構えてしまった。
けれど、彼が私を訪ねてきたのは単に懐かしさからなのかもしれない。
彼が噂ほど悪人ではないかもしれないと思うと、少しほっとした。
「お会いできて光栄です、ノーマン総裁! わざわざお越し頂けるなんて…」
ノーマン総裁は、あの鋭い眼差しから柔らかな笑顔へと変わり、私を見つめていた。
「いえいえ、レディ。ジョシュア殿に感謝しなければなりませんな。彼が商人ギルドであなたの存在を語っていなければ、私たちはこうして出会うことはなかったでしょう」
ジョシュアが? 素早く彼の方へ目を向けるとジョシュアは何かを感じてか、そっと視線を逸らした。
「しかし、今日は懐かしい話をしに来たわけではありません。私はあなたを私の妻として迎えたいと思い、ここに来たのです」
「つ……ま?」
ノーマン総裁の言葉の意味を理解した瞬間、周囲がぐるぐると回るような感覚がして思わずよろめく。
彼の言葉が頭を駆け巡り、私は何も言えずに立ち尽くしてしまった。
「おい、聞いたか……?」
どよめきが聞こえる。
周りも彼の言葉に明らかに動揺しているようだった。
どうしよう。なんて答えればいいの......!?
必死で言葉を探すけれど、頭の中をひっくり返しても何も見つからない。
慌てて視線を巡らせると、ジョシュアと目が合った。彼は私に何か言おうとする素振りを見せたけれど、言葉が出てこないようだった。
しかし一瞬、彼の顔が苦しそうに歪んだかと思うと、ノーマン総裁に向き直った。
「ノ、ノーマン殿! この娘はローレンス家でまだ教育中でして、教養や礼儀作法などまるで身につけておりません! ノーマン殿の妻を務めるなど、とても……」
「実は彼女を見た瞬間、運命を感じたのです。この出会いは亡くなった友人、シュヴァルツェルト伯爵が引き合わせてくれたのだと確信しております」
「し、しかし……」
「もちろん、ローレンス家の皆さんがこれまで大切に育ててきたことに感謝し、それ相応の報酬をご用意しましょう」
「ノーマン殿! そういう事ではなく、あなたが婚約を申し込む価値などこの女には……」
「黙れ」
ノーマン総裁の声は冷酷で断固としたものだった。ジョシュアがその言葉にビクッと震えるのが見て取れた。その瞬間、ノーマン総裁の本当の性格が垣間見えたような気がした。
「それを決めるのはこの私だ。ローレンス家の若造はそんな事も口に出さねば理解出来ぬ無能か? ああ、お前の母上の悲しむ顔が目に浮かぶな」
彼の言葉に、ジョシュアは口元が震えていた。
一瞬でも、ノーマン総裁が私に対して紳士的であるかもしれないと錯覚した自分が馬鹿だった。彼は自分の欲望を満たすために何もかもを無視している。
彼からは、私が否定や反抗をすれば容赦なく打ちのめすという威圧感が漂っていた。
ノーマン総裁は私を再び見つめ、先ほどとは違う、優しげな微笑みを浮かべた。
「婚姻に関する正式な書状は後日、ローレンス家に使者を遣わせましょう。私は商人ですから。何事も段取りは大切にしますのでね」
「わた、私は……」
「何も言わなくても結構。あなたのような高貴な血筋がこんな場所で働いていたとは、なんとも惨めでしょう。でも、もうご安心を。これからは我が妻として今までとは比べ物にならない豪華な暮らしをお約束します。ああ、今度お会いする時はあなたの花嫁衣装を選びましょうか。楽しみにしていてください。それでは」
喋り終わると同時に、ノーマン総裁はその場を去っていった。
私が何か言おうとする前に、彼は私の運命を決定付けてしまった。
「どうして……どうしてこの子なの……!?」
声の方を見れば、レナが大粒の涙を流していた。
その声に反応するように、皆の視線が私に向かう。
「ノーマン様も何もあんな若い子を……」
「気の毒になあ……」
「あの…なんで皆さん、そんなに悲しそうなんですか……?」
何も知らないトビアスが、事態を飲み込めず混乱した顔をしている。
「トビアス……あの方はジャン・グリ・ノーマン様。ノーマン商会の総裁で、この港では“血染めの契約者”という異名で恐れられている方なのよ……」
溢れる涙を止めようともせず、レナがトビアスに説明する言葉が私の心に深く深く響き出す。
「彼は今まで6回結婚してるわ」
「6回も!? あれ、じゃあ結婚しているなら何で婚約なんか申し込んだんですか?」
「今は独身なの……彼が結婚した女性は全員、亡くなってるのよ」
悪そうなおっさんの登場です。




