2.窮地 その②
このまま眼球にスプーンが触れると思った瞬間、リュミセラの耳がピクッと動いた。
彼女の表情が一瞬、硬くなる。
リュミセラの耳が探るようにピクピクと動いている。彼女が何かを察知したのは明らかだった。
私の心臓が高鳴る音が、この静まり返った小屋の中で響くように感じる。
もしかして……!
「……どうやらお客様が来たようですね」
その言葉と共に、外から突如として物音が聞こえてきた。ドアが勢いよく開かれ、その先に現れた人影に向かって、私は全身の力を込めて叫んだ。
「レザト様ッッ!!」
「ルチカ、無事か!」
レザト様の姿を捉えた瞬間、一瞬で恐怖が消え、安堵感でいっぱいになる。
レザト様と瞳が交わる。険しかった彼の顔が綻んで、ホッと優しい瞳になる。
その優しい眼差しに泣きそうになる。
こんな事になってごめんなさい。レザト様に迷惑を掛けてごめんなさい…!
レザト様は、その視線を私の上に馬乗りになっているリュミエラに移した瞬間、目を丸くした。
「子供…!? こんな子供がなぜ…」
「レザト様自らお越し頂けるなんて、ルチカおねーさんはとっても大切にされてるんですね♡」
リュミセラはレザト様に対して、一切動揺していない様子だった。
その振る舞いは余裕さえ感じられて、どうしてそんな落ち着いていられるのか不思議なほどに。
「う、うああああああ!!」
「レザト様っ!」
一方、ドアの近くにいたもう一人の獣人は、絶望と恐怖に顔を歪めながら、レザト様に向かって来た。
その瞬間、レザト様の背後から何かが猛烈な速度で飛び出し、その獣人の後ろから首を締め上げる。
「チェシャさん!」
「はい、捕まえた~。ん? すでに一人床に伸びてるヤツいるけど、なんで?」
チェシャさんが獣人の首をぎりぎりと締め上げる一方で、足元に転がっているもう一人の獣人に目をやる。その動きは一瞬で、私にはまったく分からなかった。大の男を制圧しながらも、周囲に気を配る姿に、ただ目を見張る。
普通の商人だと思っていたチェシャさんが、実はこんなにも凄い人物だったなんて…。
「フランソワ! こいつ縛って!」
「ハッ! 今すぐ!」
チェシャさんの命令に瞬時に反応し、入り口から颯爽と姿を現したのはフランソワだった。彼の手には既に縄が握られていて、その縄を使って獣人の手足を手際よく、確実に縛り上げていく。
縛り終えた獣人を床に転がすと、フランソワはすぐさま剣を構えた。
その動きはとてもスムーズで、緊迫した状況でも冷静に任務を遂行する彼の姿に、レザト様が以前、彼を若手の期待の星だと言っていた意味がよく分かった。
「小うさぎちゃん、ちょっとおいたが過ぎるわ。悪い子にはキッツイお仕置きが必要みたいね!」
「……お嬢さん、我々と一緒にご同行願おうか」
レザト様とチャシャさんが、射るような視線をリュミセラに投げかける。
彼女は、どこか優雅に私から離れると、二人に向き直った。
「わざわざご足労頂いて、ありがとうございま~す。感謝したいくらいです。だって手間が省けるんだもの」
瞬間、リュミセラが小さな筒のようなものをレザト様に向けて投げつける。
けれど、レザト様が剣で素早くそれを叩き切った。
「これは、煙幕か?」
叩き切った筒から、紫色の煙が立ち上り、部屋に充満する。
いけない、リュミセラはこの機会に乗じて逃げる気だ!
煙の中、彼女の姿を探すも煙で視界が悪く、リュミセラどころかレザト様たちの姿も視えづらい。
「うえ、気持ち悪っ…! なにこの臭い! くっさ! おえっ!」
チェシャさんが辛そうな声を上げる。私には分からないけれど、獣人の人達にとっては酷く嫌な臭いのようだ。
「一旦、外に出ましょう! こっちです!」
フランソワの声が煙の中から聞こえてくる。その誘導に従い、私たちは小屋から急いで外へ出た。
「はあっ、鼻がもげるかと思ったわ」
「やっほ~、皆さん、お疲れ様です♪」
頭上から響く声に反応して顔を上げると、屋根の上にリュミセラがちょこんと座っていた。彼女の顔は、何事もなかったかのようにニコニコとしている。
「リュミセラ!? あなた、逃げなかったの?」
「逃げる? これからとっっても面白いショーが始まるのに、どうして逃げる必要があるんですかぁ?」
「ショー? 一体、何を言って……」
「レザト団長!」
フランソワの声に、思わず扉の方に視線を向ける。
もくもくと立ち込める煙の中から、レザト様がゆっくりとこちらに向かってくる。
その足取りはどこか覚束なくて、ひどく酔った時のような歩き方をしている。
「レザト様っ! 大丈夫ですか!」
「来るっ…なあぁッッ!!」
駆け寄ろうとしたその瞬間、森全体に響き渡るような咆哮が耳に届く。
明らかにレザト様の様子がおかしい。
もしかして、あの煙のせいなの!?
「リュミセラ、あなた何をしたの!?」
「何って……レザト様に少し素直になってもらっただけですよ。本来持っている狼の獣人としての本能を解放してあげたんです」
「本能……?」
煙が漂う空気の中で、レザト様の姿が一歩ずつ、ゆっくりと明瞭になってくる。
その歩みに合わせて、風が運ぶ何かピリピリとした感触が私の肌に纏わりつく。
――この感覚、私は知ってる…。
それは剥き出しの怒り、制御不能な狂気のようなもの。
頬に触れるその感触は、過去の記憶を呼び覚ますかのように撫でていく。
その瞬間、木々の隙間から差し込む夕日の光が、レザト様の顔を照らし出した。
「グッ……う…うぁあ…!!」
その瞳は、燃えるような真紅に変わっていた。まるで狼が獲物を狙うかのような、凄まじい敵意を持って。




