2.変化
ローレンス家の使用人たちの視線を避けながら、私はひっそりと屋敷から外へと足を踏み出す。
潮風が私を優しく包み込み、頬を撫で、髪を揺らす。
海からの風が持ってくる塩辛さは、心を洗い流してくれるようだった。
ローレンス家の屋敷は港にほど近く、なだらかな下り坂で、そこからは港町の様子が一望できる。町の喧騒が次第に高まり海の色が鮮やかさを増していく様子は、まるで色彩豊かな絵画のようだと思う。
この港へ向かう道、それは私の心を癒やす、数少ない贅沢なひとときだった。
朝食時に胸にひっかかったざらついた感情も、海風に乗せてどこか遠くに流れ去っていく。
まるで心が軽やかに羽ばたいていくような、そんな感覚に包まれて、私はいつもの仕事場へと向かう足取りが、自然と軽やかになっていくのを感じた。
◇◇◇
「おい、今日の商品は特に大事な商品なんだ。丁寧に扱え!」
若い男の声が石造りの倉庫を通り抜けてゆく。
その声には不機嫌さが滲んでいて、壁面からの反響はそれを強調する。
「まあまあ、今日の坊ちゃんはいつも以上にむすっとしているわね」
隣にいるレナが私にこっそりと声をかける。
レナは優しい性格の女性で、私の数少ない友人の一人だ。
長年この場所で働いてきた彼女は、私がここで働き始めた子供の時から、いつも私を見守ってくれている。彼女の丸みを帯びた体形は、その面倒見の良さを表しているようだった。
視線をレナの言う“坊っちゃん”に向けてみる。
ゆるくウェーブの掛かった金髪は苛立つ彼の動きに合わせてふわふわと揺れている。
常に眉間に皺を寄せる薄緑色の瞳は、私達を牽制するように鋭く光っていて、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
スラリとした長身は上等な衣装に身を包み、金細工と宝石で装飾された美しいカフスボタンが手元を飾っている。それは彼の、ローレンス家の嫡男であるジョシュアを物語っていた。
「おい、お前ら。下らない世間話で時間を無駄にする余裕があるなら、手を動かせ。お前らのような下賤な存在の無駄話に付き合うほど、俺は暇じゃないんだ」
ジョシュアは冷徹な眼差しで私たちを見下す。その声は怒りを帯びてさらに強さを増す。
「そもそも、俺が不機嫌なのはお前たちの不器用な仕事振りが原因だろう。お前たちがただ存在するだけで金が湧き出す存在ならともかく、労働を通じてのみ金を得る能力しか持たないマヌケは、まず黙って働くべきだ」
「ジョシュア“様”」
私は深いため息をつきながら、ジョシュアにゆっくりと声をかけた。
「そうやって頭ごなしに怒鳴りつけて人を萎縮させて言う事を聞かせるなんて、三流のやり方だって思わないんですか?」
「……なんだと?」
ジョシュアが私の方に目を向けた。私たちの間に緊張が走り、一同が息を呑む。
横目で見れば、新人で入った倉庫番の少年、トビアスがハラハラした顔でレナと私の顔を交互に見ている。
「下々の者に慈悲の心を持って接する。それが真の貴族の品格ではないですか? ローレンス家の嫡男としての大事な素養というものでは?」
「ハッ、獣のエサになりそこねた顔をした奴に言われたところで何も響かんな。そもそも慈悲ならとっくに与えているだろう。誰が孤独なお前をここまで育ててきたと思っているんだ? 我がローレンス家だ。ああ、申し訳ない。自分の顔の傷の原因すら忘れるような頭で、これは少し難しかったか?」
ジョシュアは皮肉を込めた微笑を浮かべていた。
「慈悲の最たるものが何かを知らずにいるようだから教えてやる。それは金だ。特にこのレヴァナス王国においてはな。貴族の血筋もない下層階級の者が上昇するための唯一の手段。金を得る仕事を与えることが慈悲以外に何だと言うんだ?」
「でも、ジョシュア“様”……」
私が言葉を切り出そうとしたところで、ジュシュアの鋭い視線で言葉が詰まった。
じりじりとジョシュアが迫ってくる。
「あ、あのまずいんじゃないですか…? 謝った方が……」
背後からトビアスが私にそっと耳打ちした。
「おい、さっきから聞いてれば、そのジョシュア“様”ってのは何なんだよ!!」
「へぇっ?」
背後でトビアスの気の抜けた声が聞こえた。
「……奥様に言われたんです。あなたはこちら側の人間ではないのだから、ジョシュア…様には敬意を表した言葉を使いなさい、と。仕事場と家で話し方を変えるのが煩わしくなったから、これからは敬語で統一するつもりです」
「しなくていい」
「でも……」
「お前、慈悲の心を持てと言ったよな? 俺の事を呼び捨てで呼ばせてやっているのは、俺なりの慈悲だ。親も友達もいない愚鈍なお前に、せめて俺だけは対等に接してやろうという俺の殊勝な心掛けを無下にする気か?」
どう考えても対等な物言いではないと思うけど…と喉まで出かかった言葉を飲み込んで私は答えた。
「はあ、そう……分かったわ、ジョシュア」
「理解してくれればそれでいい」
踵を返すジョシュアをぽかんとした顔でトビアスは見つめている。
レナはやれやれという表情で深く息を吐いていた。
ジョシュアはいつも人を見下し、意地悪なことを言ってくる。
それなのに、時折見せる意外な一面に、私はいつも驚かされる。
未だにジョシュアとは距離感が掴めなくて困ってしまう。
「邪魔が入ったせいで話すのが遅れたが、この深紅の木箱に入っている商品はなんと【秘石】だ」
「ひせき…?」
トビアスが無邪気な疑問を投げると、ジョシュアは鋭い眼差しで向き直った。
その瞬間、トビアスはびくりと肩を震わせて、レナの後ろへと逃げ込んだ。
「教養のない田舎者のバカでもわかるように教えてやる。【秘石】は宝石に似ているが、この石には魔力が宿っている。魔術を使うために必要な特別な石が【秘石】だ」
言い終わると、ジョシュアはそっと箱を開けた。
その中には小指の先ほどの大きさの、色とりどりの石の欠片が詰まっていた。
「綺麗……」
思わず言葉に出てしまうほど、その石たちは原石でありながら色鮮やかで、かすかに光を放っているように見えた。
「いいか。秘石には属性がある。この赤い秘石はイグニス・フレアだな。火属性の魔法を増幅させる力がある。細かいことは俺もわからんが、魔術師どもは自分の属性と石の属性が一致していないと魔力を秘石から引き出せないらしい」
赤く光る石を眺めながらジョシュアは続ける。
「これらの欠片は、魔術院で魔術を学ぶ見習いたちが自分の属性と秘石の相性を探るために使う、練習用の石だ。魔力を一度引き出したら消滅する程度の低品質なものだが……」
そう言って、ジョシュアは眼光を鋭くして周囲を見渡した。
「低レベルの秘石とはいえ、一個一個はお前らの今日の給金以上の値が張る品だ。一個一個丁寧に石を色分けして磨いておけよ。いいか、秘石の売買は今までは魔術院の息の掛かった商会しか取り扱えなかった。それをこの俺の力で我がローレンス商会でも取り扱えるようにしたんだ。俺の顔に泥を塗るような適当な仕事はするんじゃないぞ、わかったな!」
それぞれが順に答える。それを確認したジョシュアは出口へと足を向け始めた。
「俺は所用で一旦屋敷に戻る。今日は、この秘石を取り扱えるよう取り計らった貴族のディアーデム家との大事な午餐会がある。お前らの仕事ぶり一つでディアーデム家にも迷惑が掛かることを忘れるなよ」
「午餐会って…もしかしてお見合い?」
私はふと、奥様が以前朝食の時に自慢げに話していたことを思い出した。
ディアーデム家は、代々優秀な魔術師を輩出する貴族の名門。その令嬢とジョシュアが顔合わせをするという話だった。
「うるさい! 俺だって好き好んで行くわけじゃない! 第一…ああもう! 余計な事を話すな! しっかり作業しとくんだぞ!」
ジョシュアが猛烈な嵐のように部屋から去っていく。
その強烈な存在感が消えた瞬間、私たちは一斉に肩の力を抜いた。
俺様幼馴染ジョシュア君登場回です。
表題のケモ耳紳士おじさんの登場はまだまだ先という…。