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10. 誓いの力 <レザト>

『レザト様……』


ルチカの声が、聞こえた。幻聴かもしれない。

死の間際の妄想かもしれない。

でも、確かに聞こえた。


『私の声、聞こえますか?』


井戸の底から、いや、もっと深い場所から。

彼女の魂が、私に語りかけている。


「ルチカ……」


血で濡れた唇が、彼女の名を紡ぐ。

異形の足が、私という存在を世界から抹消すべく、振り下ろされる。

だが、その瞬間――金色の光が、私の体を包み込んだ。


『私は誓います』


ルチカの声が、心臓の鼓動と重なる。


『あなたを守ると。あなたの剣となり、盾となると』


金色の光が、傷口から体内へと流れ込む。

砕けた骨が軋みを上げて繋がり、裂かれた臓腑が熱を持って再生していく。

失われたはずの力が、満ち潮のように体を満たしていく感覚。


異形の足が地面を砕く。

衝撃波が、周囲の霧を吹き飛ばす。

だが、私はもうそこにいなかった。

光そのものになったかのような速度で背後へ回り込み、剣を構える。


「レザト……?」


ジョシュアが、信じられないという顔で私を見ている。


「ほ、本当にレザトなのか? まるで……」

「なんか若返ってない? あたしより若いじゃん!」


チェシャが呟く。

周囲の驚愕と共に、私は破れた手袋から覗く自分の手を見つめた。

皺一つない、若々しい手。20代前半、最も力に満ちていた頃の手だ。


「なるほど」


私は静かに呟いた。


「これがルチカの『誓い』の力か」


20代のあの頃の、戦場で無双を誇った全盛期の肉体。

いや、違う。若いだけのあの頃とは比べ物にならない。

今の私には、長年培ってきた騎士としての経験と、領主としての覚悟がある。


経験が道を照らし、若さがその道を駆け抜ける。

最強の自分が、今ここにいる。


見える。

ルチカの光が、私に新しい「眼」を与えてくれた。

禍々しい瘴気の奥に、この異形を構成する無数の魂たちの悲鳴が聞こえる。

苦しみながら封印の動力源とされている、ミストランザの村人たちの魂が。

この化物は、敵ではない。救われるべき、犠牲者だ。


「ッガアアアアア!」


異形が私を認識し、無数の結晶の槍を放つ。

かつての私なら、その一撃を防ぐことすら叶わなかっただろう。

だが、今の私には、全ての攻撃の軌道が、まるで水の流れのように見えていた。


最小限の動きで槍の雨を潜り抜け、私は一気に懐へ飛び込む。

剣に金色の光が収束していく。これはルチカの光。破壊のための力ではない。

歪められたものを元に戻す、「調停」の力。


この剣は、罰ではなく、赦しを与えるためにある。


「眠れ、安らかに――」


私の剣が、異形の胸の中心、最も瘴気が渦巻く核へと突き刺さる。

抵抗はない。剣はまるで、光が闇を溶かすように、吸い込まれていった。


断末魔の叫びは上がらなかった。

代わりに、安堵のため息のようなものが、異形の体から漏れ出した。黒い結晶が剥がれ落ち、禍々しい瘴気は浄化され、金色の粒子となって霧の空へと昇っていく。


やがて、巨体は形を失い、本来の姿――ただ静かに封印を守る、透明な水の精霊のような姿へと戻っていく。その仮面のような顔は、どこか穏やかに見えた。


番人は浄化され、その場に静かに佇むと、主を待つように井戸への道を自ら開けた。

私は剣を鞘に納め、まだ煙の立ち上る井戸の闇を見据える。

私は振り返り、告げた。


「井戸の底へ行く。ルチカを取り戻す」


私の宣言に、チェシャが素早く前に出た。見開いた瞳が、獲物を値踏みする猫のように私の全身を舐め回す。


「ちょっと待ちなさいよ。その体、一体どうなってんの?」


彼女の声には、驚愕と興奮が入り混じっていた。


「さっきまで死の淵を彷徨ってたくせに、今じゃ20代の若造みたいな顔してるじゃない」

「ルチカの力だ。恐らく彼女が何らかの――」

「団長おおおおお!!」


説明を遮るように、フランソワの体が私に激突した。鎧の重みも相まって、思わず後ろによろめく。


「うわっ――フランソワ、落ち着け!」


だが彼は聞く耳を持たず、感極まった様子で私の肩を何度も叩く。それに触発されたかのように、他の騎士たちが次々と駆け寄ってきた。


「本当に死んだかと思いました! でも、さすがは我らが団長です!」


フランソワの声は震えていた。その声には心からの安堵が滲み出ている。


「レ、レザト様……」


エドウィンが近づいてくる。眼鏡の奥の瞳は潤み、唇は感情を堪えるように震えていた。


「ご、無事で……本当に、本当に良かった……」

「お前たち……」


部下たちの素直な感情に、胸が熱くなる。


「レザト」


落ち着いた声が響き、騎士たちの輪が開いた。銀髪の老人が、ゆっくりと歩み寄る。


「村人たちの魂を解き放ってくれたこと、礼を言う」


ゲイルの皺深い顔に、複雑な感情が浮かんでいた。


「聞こえたよ、彼らの安堵の声が。やっと、やっと眠れると……」

「あなたは……まさか、シュヴァルツェルト家の家令を務めていた……」

「よく覚えていたな」


ゲイルが苦笑を浮かべる。


「ゲイル・シルバーフォージだ。この村へは慰霊のため、ジョシュアとトビアスの案内で訪れていた」


私たちの視線が絡み合う。かつて、彼は私がヨハンとフェリド様に迎え入れられたことを快く思わず、事あるごとに対立していた。

獣人の血を引く余所者――それが彼の私への評価だった。


しかし今、その瞳に宿るのは敵意ではなく、静かな敬意だった。長年の確執が、朝霧のように静かに消えていく。


「そういえば、トビアスは無事か?」


ジョシュアが慌てたように周囲を見回す。


「う~ん……なんか頭がぐるぐるする……」


井戸の縁から、ぼんやりとした声が聞こえた。トビアスが泥だらけの顔を上げ、寝ぼけ眼で辺りを見回している。


「あれ? でっかい怪物は? それに……」


彼の視線が私を捉え、目を丸くする。


「レザト様なんですか? でも、なんだか顔が若くて……僕、まだ夢見てるのかな?」

「相変わらずののん気さだな」


ジョシュアが苦笑を漏らす。緊張の糸が一瞬緩み、疲れ切った面々から小さな笑い声が漏れた。

だが、安堵に浸っている場合ではない。


「祝杯はまだ早い」


私は井戸の深淵を見据えた。


「今は、ルチカを――」


その瞬間、井戸の底から、まるで地の底から響くような声が立ち上った。


「その必要はないよ」


知的で、どこか愉悦を含んだ男の声。

闇を切り裂くように、二つの影が跳躍してきた。


「実験は終了した」


姿を現したのは、黒い兎の耳を持つ老人。その隣には、赤い瞳を輝かせたリュミセラ。そして彼女の背には――


「ルチカ!」

「興味深いデータが取れたよ、本当に感謝している」


シェザハと呼ばれた老人が、研究者特有の熱を帯びた口調で語り始める。


「『誓い』による肉体強化、『拒絶』による精神崩壊。どちらも理論通りでありながら、予想を超える結果だった」


鋭利な刃物のような視線が、私を解剖するように見つめる。


「特に君の変化は驚異的だ。誓いの力が肉体年齢まで最適化するとは……実に、実に興味深い。君たちの可能性が楽しみだよ」


リュミセラが面倒そうに肩をすくめ、背負っていたルチカを無造作に前へ放る。


「はい、お返し〜」

「ルチカッ!」


私は跳躍し、宙を舞う彼女の体を両腕でしっかりと受け止めた。

一瞬の隙。それを見逃さず、シェザハはリュミセラに抱えられ、人間離れした跳躍力で霧の彼方へと消えていく。


「待て、シェザハ!」


ジョシュアの叫びが虚しく響くが、もう二人の姿は霧に溶けて見えない。


「深追いは無用だ。まずはギデオンたちと合流し、地下施設を調査する。ノーマンもまだ地下にいるはずだ」


私は腕の中のルチカを見つめる。彼女の頬は青白いが、規則正しい呼吸が温かい息となって私の胸に触れている。


「レザト様……」


掠れた声で、彼女の唇が微かに動いた。


「ここにいる。もう大丈夫だ」

「よかった……あなたを、守れて……」


薄く瞼が開き、可憐な瞳が私を映す。次の瞬間、その瞳が驚愕に見開かれた。


「レ、レザト様!? その姿は……」

「貴女の力のお陰です。どうやら肉体が最盛期に戻ったようで……」


彼女の意識が完全に戻ると同時に、体内を巡っていた黄金の力が、潮が引くように穏やかになっていく。


「あ、元に戻っちゃった」


チェシャが残念そうに呟く。


「き、興味深い現象でしたね。力の維持には、両者の意識の共鳴が必要ということでしょうか」


エドウィンが学者らしい考察を始めるが、ルチカの次の言葉が、その場の空気を一変させた。


「若いレザト様も素敵でしたけど……」


彼女は恥ずかしそうに、でも確かな意志を込めて続ける。


「私は、今のレザト様の方が好きです」

「な……」


言葉を失う。四十を過ぎた男が、まるで若造のように頬を赤らめている自分が情けない。


「ちょっとちょっと! 命がけの戦いの後でイチャつかないでよ! こっちは独り身なんだから!」


チェシャの抗議に、疲れきった騎士たちから温かい笑い声が広がる。

濃密だった霧が薄れていく。封印されし村ミストランザは、その呪われた姿を白日の下に晒し始めた。


王国への報告、ノーマンの処遇、そして封印の今後――課題は山積している。

だが今は、生きて再会できた奇跡に感謝したい。

腕の中で恥ずかしそうに微笑むルチカを抱きしめながら、私は心の底からそう思った。


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