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10. 小さな勇気と <レザト>

光が収まり、傷が癒えたことで体の痛みは消えた。だが、その代わりに、より深い痛みが胸に残った。

彼女の涙。彼女の言葉。そして、彼女の中から溢れ出た光。


『貴方を守りたかったんです』


その言葉が耳に残り続ける。ルチカが本当の意味で理解していたのかさえ疑わしいほど、その言葉には重い意味があった。


「……ルチカ」


体が魔力で満たされているかのように、昂ぶりを感じる。

まるで彼女の光に洗われた私は、新たな命を得たかのようだった。


「レザト団長がご無事だ!」

「あの魔獣の斬撃を受けたにも関わらず、もう立ち上がるとは……さすが団長!」


私の姿を確認した団員たちが次々に歓声を上げる。

光と粉塵に隠されたお陰で、ルチカの力の発現を団員たちには気付かれなかったようだ。


しかし、その喧騒の中、冷静に場を観察する鋭い視線が背筋に突き刺さるのを感じた。

それは単なる好奇心や安堵ではなく、現象を捉えようとする理知的な眼差し。


振り返れば、エマが緊張した面持ちで立ち尽くしていた。彼女の手に握られた治癒用の秘石が、かすかに脈動し、青白い光を放っている。その瞳には「ただの偶然ではない」という認識が浮かんでいた。


また、遠くの建物の影からは、眼鏡に反射する光が一瞬、青く輝いたように見えた。エドウィンだろうか。


そして、騎士団の中にも、冒険者ギルドの魔術師たちの間にも、この光景に静かな驚きを抱く者たちがいるのを感じた。彼らはまだその意味を理解していないにしても、何か特別なことが起きたのを感じ取っている。


獣人の本能は警告していた——魔力を感知できる者たちは、この事態の異様な力の本流を感じ取っているのだと。

その視線を断ち切るように、私はさらに一歩魔獣に踏み込んだ。

今は、この場の全ての注目を魔獣との戦いに向けさせるべきだ。


「下がっていてください。今度は私が貴女を守る番です」


剣を構え、対峙する魔獣を見据える。黒い霧が生き物のように魔獣を包み込み、その霧の合間から光る瞳は血のように赤い。

まるで空腹と憎悪以外の何も知らない、完全な暴力の化身だ。

魔獣が唸り声を上げた。体内の秘石が赤く輝き、その皮膚からも血のような光が漏れ出している。巨大な体躯が、私たちに再び襲いかかろうと身構えた。


「ジョシュア」


余所見せず魔獣を見据えながら、私は声をかけた。


「ルチカを連れて、この場から離れてください。近くに騎士団の臨時の詰め所があります。そこへ」


ジョシュアは答えず、その場に立ち尽くしていた。彼の表情を見る余裕はなかったが、気配から彼が動揺していることは明らかだった。


「はやく!」


私が再度促すと、やっと彼は動いた。


「……ルチカ、行くぞ」


ルチカは私の背に手を置いた。


「レザト様……」

「大丈夫。この程度の魔獣、騎士団長の敵ではありません」


私は昨日の愚かな疑いを埋め合わせるかのように、自信に満ちた声で断言した。

だが、それは半分だけの真実だ。通常の魔獣なら確かにそうだろう。しかし目の前のエクリプシオンは、明らかに異質の存在だった。


魔獣が黒い煙を吐き出し周囲の街灯が赤く瞬くたび、魔獣の肩がひくりと痙攣した。


「行ってください。私もすぐに後を追います」


ルチカの手が私から離れる。振り返らなかったが、彼女がジョシュアと共に後退する気配を感じた。


その時、エクリプシオンが突然、視線を動かした。

私でも、ルチカでもない——何か別のものに引き寄せられたように。


反射的に視線を向けた先には、負傷者の治療にあたっていたエマの姿があった。

彼女は騎士団の詰め所から駆けつけ、魔獣の襲撃で負傷した市民の手当てをしている。

その手から発せられる秘石の治癒魔法が、かすかに青白い光を放っていた。


魔獣の赤い瞳がその光を捉え、唸り声を上げる。まるで、その治癒の力に怒りでも覚えたかのように。


「エマ!」


叫ぶ間もなく、エクリプシオンは彼女に向かって飛びかかった。

あまりに突然の行動に、エマは目を見開いたまま立ち尽くす。

負傷者を庇おうとするその姿が、魔獣の影に飲み込まれようとした時——


「母様、危ない!」


小さな影が飛び出した。

レオだ。


「レオ!」


影が交錯する瞬間、世界が一瞬、止まったように感じた。

小さな体が宙を舞い、魔獣の前に立ちはだかる。

レオの両手には、ギデオンから贈られた木製の模擬剣。

それを両手に握りしめ、まるで本物の騎士のように身構えていた。


「お父様みたいに、守るんだ!」


無謀とも言える勇気に、私の心臓が痛むほど締め付けられた。

魔獣の赤い瞳がその小さな障害物を認識し、唸り声を上げる。


「レオ! 逃げて!」


エマの悲痛な叫びが響く中、私は全身の力を振り絞って駆け出した。

だが、間に合わない——。


黒い爪が閃き、レオの小さな体が吹き飛ばされる。

木製の模擬剣は砕け散り、彼の胸から赤い血が飛び散った。


「レオォッ!!」


エマの絶叫が街路に響き渡る。

怒りが全身を貫いた。こんな幼子にまで牙を剥く魔獣に対して、獣人としての本能が疼く。

私は逡巡なく、全身の力を込めて魔獣に飛びかかった。


「貴様ッ!」


剣が黒い煙を切り裂く。エクリプシオンが痛みに吠える。

だが私は止まらなかった。レオの無垢な勇気と引き替えに、この魔獣をこの場で仕留める——そう心に誓った。


一撃、また一撃。

剣は魔獣の皮膚を切り裂き、中から赤黒い体液が噴き出す。

しかし、魔獣はその傷を恐るべき速さで再生させていた。


「おのれ……!」


周囲から騎士団の支援が駆けつけてくる気配がしたが、彼らを待つ余裕はない。

魔獣の動きを素早く分析する。

その体内から漏れ出る赤い光——秘石の輝きがある。それが魔獣の力の源だ。


「見えた……!」


私は魔獣の動きを読み切り、その首筋に飛びかかった。

剣が黒い煙を切り裂き、魔獣の皮膚の下に見え隠れする赤い結晶——汚染された秘石の核

に、渾身の一撃を叩き込む。


「砕けろ!」


手応えがあった。秘石が砕ける感触が、剣を通じて手に伝わってくる。

魔獣が凄まじい悲鳴を上げ、体内から漏れ出ていた赤い光が一気に広がった。

最後の命を燃やし尽くすように、光が爆ぜる。

そして次の瞬間、光は消え、黒い煙も散った。


魔獣の体は地面に崩れ落ち、急速に元の姿——普通の獣の姿へと戻っていく。

死体からは小さな砕けた秘石の欠片が零れ落ちた。


「レオ…レオッ…!」


エマの叫びが、私を現実に引き戻した。

私は急いで彼女の元へと駆け寄った。


「エマ……」


エマはレオの小さな体を抱きかかえていた。彼女の手から青い治癒魔法の光が漏れているが、爪痕からの出血は止まらない。


「効かないッ……! ギデオンの時と同じよ…私の治癒魔法じゃこの傷は治せない…!!」


エマの声が震え、その瞳からは涙が止めどなく溢れていた。今や彼女の目に映るのは、医師としての冷静さではなく、我が子を失う恐怖に満ちた母親の姿だけだった。


「エマさんっ!」


振り返ると、ルチカが駆け寄ってきていた。彼女はジョシュアと共に、安全な場所へと避難せずに近くで様子を見ていたようだ。

彼女の視線がルチカに向けられた。


「ああ、ルチカ様…! お願いします…私の治癒魔法ではあの魔獣の傷は癒せないのです。でもルチカ様なら、あの力ならきっとレオを…どうかレオを助けて…お願い…」


エマの言葉は絶望的な祈りのようだった。その目には、最後の希望を託す色が宿っていた。


「もちろんです! レオ、しっかりして! 今助けるから!」


ルチカは躊躇いなく膝をつき、小さな少年の傷口に手を添えた。

その目には深い悲しみと決意が宿っていた。

彼女の掌がレオの胸に触れる。

何度も何度も、先ほどのような感覚を呼び戻そうとしているようだった。

だが——。


「どうして⁉ レザト様の時は出来たのに…レオ…レオ!」


彼女の顔に焦りの色が浮かぶ。

掌を何度もレオの傷口に当てるが、先ほどのような黄金の光は現れない。

それどころか、力を振り絞るたびに、彼女自身の顔色が悪くなっていくのが見て取れた。


「ルチカ様……」


ルチカの表情が苦しそうに歪み、鼻から一筋の血が流れ落ちる。

それでも彼女は諦めず、必死に力を呼び起こそうとしていた。


「レオを…助けなきゃ…」


その言葉と共に、彼女の体がぐらりと揺れ、意識を失ったように崩れ落ちた。


「ルチカ!」


私は彼女を受け止めた。その体は驚くほど熱く、額は汗で濡れていた。

エマの表情に変化が現れた。我が子を思う母親としての恐怖と、負傷者を前にした治癒師としての冷静さが交錯しているように見える。


「大丈夫ですか、ルチカ様…」


彼女の声は、わずかに落ち着きを取り戻していた。


「エマ殿!」


少し離れた位置から白髪の男が駆け寄ってきた。

その手には止血用の薬草と包帯が握られている。ウェノーサ医師だ。

騎士団の哨戒に長年協力してくれているリタクロスの町医者で、年配者の落ち着きと常に冷静な判断から、騎士団での信頼も厚い。


混乱の中にあっても、彼の姿を見た瞬間、現場に確かな秩序が戻ってきたように感じられた。


「お譲りください、エマさん。この子は俺が診ましょう」


ウェノーサ医師の声は、嵐の中の灯台のように静かで力強かった。彼は手慣れた動きでレオの傷を確認し、すぐに必要な処置を始めた。


「幸いにも傷は急所を外れている。このように、すぐ止血し適切な処置を施せば、命に問題はないでしょう」


医師の冷静な診断に、エマの震えがわずかに収まる。

ウェノーサはルチカの状態も素早く確認した。


「この子の症状は……秘石の力を使い過ぎた時の症状に似てるな。脈は安定しているし、一時的なものでしょう。しばらく休めば回復するかと」


医師の静かな声が、エマの意識を専門家としての責務へと引き戻す。

彼女は深く息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。


「レオをお願いします…」

「任せてください。騎士団の者たちに運ばせましょう」


ウェノーサ医師の合図で、数人の騎士団員がレオを担架に乗せる。

エマは我が子を見送った後、周囲を見渡した。他にも多くの負傷者がいる。

彼女の表情が引き締まる。


「レザト様、私はここで治療を続けます」

「レオはいいのか」

「息子はウェノーサ医師に任せます。今、私と同じ思いをしている人たちのために、俯いてばかりではいられません」


その言葉には、強い決意が込められていた。

母としての愛情と治癒師としての使命の間で、彼女は後者を選んだのだ。

それを見て、私は心の中で彼女に敬意を表した。


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