07. 見習い魔法師になりました
「ふぅ……」
今日もせっせとキッチンの床を磨く。ゴシゴシと力任せにブラシで擦り、隅から隅までピカピカになった所で手を休め、額の汗を拭う。
────衝撃の初日。私とフローラさんは、腐海を必死に片付けた。
シンクから生えたキノコ。謎の干からびた生物。黒かった食器は、洗ったら純白だった。鍋もまたしかり。汚れて正体不明であった床は、磨くと下からタイルが現れた。
そうして見違えるほど綺麗になったキッチンは、今や、このうちで最も思い入れのある場所になりつつある。
あの状態に逆戻りはさせない。強い決意を込めて、常にピカピカに磨きまくっている。
あれから約一ヶ月。フローラさんに弟子入りした私の身分は、「家出した令嬢」から「見習い魔法師の少年」に落ち着いた。
といっても、魔法の修行はまだだ。まずは家事と一般常識を覚えてから、というのが、師匠の方針だったからだ。
貴族令嬢というと着替えさえ一人で出来ない者が多いが、私の場合、身の回りの世話はほぼ自分で出来る。先妻の娘に愛情なんてなかった父と継母が、侍女もろくに付けずに離れに放置したからだ。
そこで身についたあれこれが、今は非常に役に立っている。人生とは何が幸いするか分からない……とつくづく思う。あの親に感謝はしないけど。
ただ、料理洗濯買い物の経験はなかったため、家事はゼロからのスタートだった。
庶民として生きていくなら、それらの能力は必須。自分がやらねば誰もやってくれない。洗濯などは言わずもがな、市場の相場や交渉術が分からないと、吹っ掛けられて、無駄にお金を使ってしまう。
師匠いわく、「魔法師として独り立ちする前に、最低限の生活力がないとダメ」らしい。確かにその通り。一理ある。
でも──生活力の大切さを滔々と説くフローラさんは、びっくりするくらい生活力がなかった。
「──魔女には二通りのタイプがいるのよ。ものすごくズボラか、ものすごく几帳面か。数百年生きる魔女は、長い魔女人生を送る間に、大体二極化していくの」
「つまり、フローラさんは、見事に前者になったというわけですね」
弟子になったあの日。衝撃のキッチンを前に、師匠の言葉に神妙に頷いた。
「まあ、そういう事。でも一人暮らしは長いから、一応何でも出来るの。ただやらないだけで。
あなたも家事をしっかり覚えて、独り立ちに備えましょうね」
腐海に飲まれたキッチンで、魔女は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
──それから一ヶ月。
私は真面目に家事に取り組み、めきめき腕を上げた。掃除洗濯、ベッドメイキングに買い物。それらは大体一人でこなせるまでになった。
しかしながら、料理だけは、なかなか上達しなかった。
適性判断をするには、時期尚早かもしれない。でも、薄々自覚はある。……多分向いてない。
オムレツを焼こうとしたら真っ黒焦げ。魚は生焼け。果物の皮を剥こうとしたら、指を削ぎ落としかけた。
見かねたフローラさんに、「暫く料理禁止」を言い渡されてしまったので、せめてキッチンをピカピカにしよう……と床を丁寧に磨いている。
綺麗になったキッチンを使うのは、主に師匠だ。フローラさんは意外に料理上手で、気が向いたら凝った料理も作ってくれる。ただし、本当に気が向いた時だけ。
普段の彼女は、簡素な料理を作る事が多い。それでもかなり美味しかった。
料理禁止にはさすがに落ちこんだけれど、師匠は、「苦手なのが料理だけなら、何とでもなるわよ」と慰めてくれた。
彼女はあのキッチンを年単位で放置し、自炊してなかったので、非常に説得力がある。
それにチーズをパンに挟むのだって、立派な料理だ。胸を張ろう。
──家事についての合格点が出たのは、それからさらに二週間後の事だった(料理以外)。ついに見習い魔法師として次のステップに進む時が来た。
「そろそろ、魔法の練習を始めようかしらね。心の準備はいい?」
「はいっ勿論です!」
「そしたらこの機会に、一人称も完全に『僕』にしましょ。あなたの設定をおさらいするわね。あなたの名前は『マール』。私の遠い親戚で、十六歳の男の子よ」
「はい師匠!」
今後は話し言葉も、脳内の一人称も「僕」で統一しよう。マルガレーテという女性名は封印し、マールという男の子として修行に臨む。
「それじゃ、近くの森に行きましょ。いろんな魔法を使ってみて、適性を確認しなきゃね!」
「はい!」
どこまでも付いていきます師匠!
いよいよ魔法の特訓が始まる。「僕」は、ワクワクしながら、師匠の魔方陣に乗ったのだった。
────そしてフローラさんは、ここでもかなりのスパルタを発揮した。
魔法特訓の初日、色んな魔法を試してみろと言われ、火、水、土、風、時空、それぞれの初期魔法を一通り試した。慣れない魔法に四苦八苦した僕は、完全にへばって地面に倒れこんだ。
「そうねえ、マールに一番向いてそうなのは、風魔法だと思うわ。明日からそれを中心に修行を組みましょう!」
倒れた弟子に構わず、フローラさんは顎に手を当てて頷く。というわけで、翌日から風魔法中心に特訓する事になった。
その日の夜は、疲れはててベッドに倒れこんで夢も見ずに眠ってしまった。
──ちなみに、フローラさんは炎に特化した魔女だが、大抵の高位魔法を易々と使いこなす。魔女の凄まじい魔力量に加え、長命ゆえの豊富な経験が成せる業らしい。
風魔法を教えるのにも支障はないという。
「師匠は格好いいです。僕が男だったら、確実に惚れてます!」
絶賛したら、「男装してる子にそんな風に言われたら、何だかおかしな気分になるわ……」と複雑な顔をされた。解せない。
そうして暫く経って、魔法がある程度使えるようになった頃。師匠は僕を「一緒にギルドにいこっか!」と誘ったのだった。
「…………今日はギルドに用があるんだけど、ついでに、あなたの冒険者登録もしておこうと思うの!」
「え、早すぎませんか?」
冒険者登録なんて、まだまだ先だと思ってた。驚く僕に、フローラさんは「そんな事ないわよ」と言う。
「あなたのレベルで登録してる魔法師ってざらにいるの。この私が直々に鍛えてるのに、躊躇する方が愚かというもの!」
えっへんと胸を張るフローラさん。ものすごくかわいい。数百歳でスパルタだけど関係ない。とてもかわいい。
「承知しました。では、お供いたします」
「じゃあ行きましょうか」
笑顔のフローラさんが魔方陣を開くと、僕らは一瞬で、赤レンガの立派な建物の前にいた。
これが冒険者ギルド──今後、何かとお世話になる場所だ。感慨深く眺めていると、
「……あれ? お前あん時の坊主だよな」
聞き覚えのある声に、思わず振り向く。そこには、ハーネに到着した日、人攫いから僕を助けてくれた銀髪の男が目を丸くして立っていた。