02. それは、ふとした一言でした
何気ない一つの言葉。それは、神の起こした奇跡のように、私の運命を変えた。
──ジジイに嫁ぐのが嫌すぎて、鬱々とした日々を送っていたある日。屋敷から離れに戻る途中だった私を、誰かが後ろから呼び止めた。
「あら……こちらの領主様のお嬢様かしら?」
振り返ると、一人の女性が立っていた。
魔法師だと一目でわかる、深い緋色のローブ。
艶やかな蜂蜜色の髪と、若草色の瞳の彼女は、どこか泰然とした雰囲気が漂う。けれど、顔立ちそのものは、美人というより可愛らしい。
どこかアンバランスな、不思議な印象の女性だった。彼女は何度か瞬きをして、スタスタとこちらに近づいてきた。
「ごめんなさい、ちょっといいかしら?」
「ええ、構いませんが……」
目の前でピタリと立ち止まった彼女は、こちらをじいっと見つめたかと思えば、私の周りをぐるっと一周しつつ、様々な角度から眺めて、納得したように「ふぅむ」と頷く。
私は困惑しながらその様子を見守った。
何がしたいんだろう。それ以上に、人慣れしてないせいで非常に居心地がよろしくない……
ちょっと距離が近くないかな……とそわそわする。
この屋敷では、使用人も用がなければ自分に話しかけてこない。私は空気のようなものだ。
今みたいに、穴が空くほど見つめられると落ち着かない。沈黙と距離感に耐えかねた私は、つい、自分から彼女に話しかけていた。
「あの、あなたは……ギルドから派遣された魔法師の方ですよね?」
「ええ、そうよ」
「やっぱりそうでしたか。先日、遠目にお見かけしました」
「うん。私もあなたを遠目に見かけたわ」
ニコリと笑った彼女は──確か、領内の魔獣に対処するために呼ばれた、ギルド所属の魔法師。
三日前にやって来た彼女は、何十もの魔獣を瞬く間に一掃した。その凄まじい仕事ぶりは、あの父も絶賛するほどだったという。
使用人の噂によると、彼女は早々に依頼を終えて、明日発つらしい。そんな凄腕の魔法師が、私なんかに何の用だろう。
訳が分からず首を捻っていると、彼女はぐっと顔を近づけ、子供のようにパッと破顔した。
「遠くから見て気になってたけど、あなた、やっぱり相当強い魔力を持ってるわね!」
「魔力、ですか……?」
「そう。こんなに魔力があるのに魔法を学ばないなんて、実にもったいないわ。努力次第で、宮廷魔法師だって目指せそうなのに」
「私、魔法の素質があるんですか?」
「ええ、かなりね」
魔法師はあっさり頷く。
しかし当の私は────話が上手く飲み込めなかった。ジジイに嫁ぐ以外の未来があるなんて、想像もしてなかったからだ。
同時に胸に温かいものが広がっていく。これは何だろうと戸惑い、少し遅れて、嬉しさだと気づく。
彼女がくれた言葉は、絶望していた私を奮い立たせる魔法のようだった。奇跡のように言葉が希望に変わっていく。
自分の内側が鮮やかに塗り替えられていく感覚に、思考が追いつかない。
「ねえ、大丈夫?」
「あ、大丈夫です何でもありません!」
彼女は眉をひそめている。
衝撃で呆然としていた。でも端からだと、ボサッとして見えたのだろう。慌てて取り繕う。
そういえば……と私は使用人の噂話を思い出した。彼らは、「あの魔法師は"魔女"だ」と言っていた。
頭に浮かんだ事を、私はするりと口にしていた。
「あなたが魔女だというのは、本当ですか……?」
「そうだけど。ふふ、私が怖い?」
若草色の瞳が、底光りするように輝く。ほんの少し機嫌を損ねたようだ。背中がゾクリとした。これ、答え方を間違えたら痛い目見るやつだ……
「いいえ! 格好いいと思ったんです。炎の魔法で、たくさんの魔獣を灰にしたと聞きました」
「……ふふ、魔女ってそんなにいいものじゃないけど、褒められて悪い気はしないわね」
ブンブンと首を振った私に、彼女はニコリと微笑んだ。ピリッとした緊張が緩み、和やかな空気が戻る。
でも、格好いいと思ったのは本当だ。嘘でもおべっかでもない。
ただ、恐怖の余韻は消えずにまだ漂っている。
魔女という異質。その底知れなさに、私は本能的な畏怖を覚えていた。
────"魔女"。それは、人を超越した存在だ。強大な魔力を身に宿し、不老のまま数百年の時を渡る女達を、人びとは"魔女"と呼んでいる。
魔女は生まれながらの性質ではない。魔法の素養が高く、強い魔力を持つ女が、一定の割合で変異して魔女になるのだ。
歴史に名を残した魔女も数多くいる。家庭教師から受けた講義でも、魔女の逸話が幾つも上がっていた。
そんな魔女の一人が言ったのだ。
私に魔法の素質がある、と。顔を明るくした私に、魔女は若草色の瞳を細めた。
「魔法に興味があるの?」
「今、ものすごく興味が湧きました!!」
「そう。私に手伝える事があったら、遠慮なく訪ねてきていいわよ」
私の勢いに笑みをこぼした魔女は、線を描くように指を横に滑らせた。すると、何もなかった空間に紙とペンが現れた。
「これが魔法……!」
目を丸くした私の前で、魔女はペンと紙を手に取った。サラサラと何かを書き付けて、私に「はい」と差し出す。
「これが私の住んでる場所。ハーネという街よ。あなたとはまた会えたら嬉しいわ。じゃあ、出立の準備があるからこれで」
「はい! ありがとうございます!!」
受け取った紙片を胸に抱いて、魔女の背中に深く頭を下げる。颯爽とした後ろ姿を見送った後も、私は暫く立ち尽くしていた。
────私はその後も、折に触れて、この日の出来事を思い出した。それこそ魔法にかけられたように、世界が美しく変わる切っ掛けになったのだから。