終
大学を卒業し、就職して二年が経った頃。
取引先からの帰り、足早に歩いていると懐かしい名を街中に見かけて足が止まる。
そこは古いビルにあるギャラリーで、写真家の展覧会をしていた。
展示会場には数人の客とギャラリーのスタッフらしきスーツをぴっしり着こなした女性がいて、ふらりと入った私に「ごゆっくりご覧ください」と柔らかな声を向けてくれた。
展示されていた多くは美しい風景の写真だった。
花弁の質感までわかりそうな黄色い花。
秋の公園で木の実を掴んでいるリス。
湿ったコンクリートの匂いを思い起こさせる雨に濡れそぼった灰色の街。
ただ白と青い影に彩られた雪景色。
雪が降る日の凍てついた空気の匂いを感じた気がした。
ああ、あの人の眼には世界はこれほど美しく見えているのか。
彼を最後に村で見た時の、息苦しそうな、悲しそうな顔を憶えている。
涙が零れていた。
ギャラリーのスタッフに「どうかされましたか」と声をかけられ、「あまりに美しいので感動してしまって」と当たり障りなく答え、すぐにギャラリーを後にする。
暗い顔をただ見ていることしか出来なかった幼い自分の心残りが消えた日だった。
◆◆◆
数年前、都内の老舗ギャラリーで展覧会をした。
その日は、自分で撮れるのに写真家の悪友が記録用に展覧会の様子を撮影してくれるというので、それに立ち会うため、用事を済ませ、夕方、ギャラリーへ向かった。
入り口で足早に立ち去る会社員らしき女性とぶつかりそうになりつつギャラリーへ入ると、カメラを携えた友人は何かを追うようにガラス張りの向こうの景色に目を向けながら、開口一番、「もう少し早く来れば面白いものが見れたのに」と残念そうに訳のわからないことを言った。
詳しく聞けば、熱心に写真に見入っていた女性が突然、涙を流し出したのだそうだ。大丈夫かと声をかけたスタッフに、綺麗で感動したとだけ言って立ち去ったというその女性は、俺が入り口でぶつかりそうになった人だった。
友人は「見る?」と言って、カメラを手渡してきた。
盗撮じゃないかと思いつつも、気になって画面をのぞき込む。
涙を流すその横顔に懐かしい面影が重なった。
幼い頃、数度話しただけの年下の女の子。
夏の日、村のお祭りで意地を張って同級生たちから浮いたその顔で笑い合った。
封じていた、村で過ごした記憶が蘇っていた。思い出したくない記憶が多いが、それは数少ない胸を温めてくれる思い出だった。
偶然だろう。気のせいだろう。そう己に言い聞かせた。
けれど、瞳に今にも零れそうな透明な雫を湛えた横顔は脳裏に焼き付いたのだった。
ごめんなさい、ごめんなさいと泣きじゃくる冷たい身体を掻き抱く。
ごめんなさい、裕介先輩。
身内を――母をここで亡くしている俺に謝るこの子の優しさが胸の内に火を灯す。
冷たい身体を背負う。
幸いなことに家は近い。
散歩から戻ったら入ろうと用意しておいた風呂もある。
ストーブで部屋を暖め、彼女がお風呂に入っている間に身体が温まるスープを作ろう。
一人暮らしが長く、長時間外での撮影で身体が冷えることもあるから、温かい料理は結構得意なんだ。
それで、彼女が落ち着いたら訊いてみよう。
あの日、ギャラリーで涙を流してくれた、その理由を。
終