0004 自分は世界のことを……
↓2010.10.17
自分は世界のことを……
自分は世界のことを何も知らない。
自分が見た世界は全体のほんの一部(点)にすぎない。自分が読んだ世界のことは自分が見たわけではない。
世界には嘘を偽りが満ちていると聞いている。自分でも少しは知っている。知識を持っていても、その内の何かを信用できると考えても、それが本当に信用できるかは分からない。ほんの一部を自分の経験として拾い上げることができるが、それ以外は妄想のようなものではないか。
みんなが世界に対して妄想を抱いている。みんなが世界のことを知らない。みんなが目をつぶったまま、それぞれの妄想にもとづいて生き、そして実際の経験を積んでいく。
↓2010.11.30
頭の中にしか存在しない概念に……
頭の中にしか存在しない概念に、絶対的価値判断を持たせようとする人たちがいる。たとえば、妊娠して何ヶ月までの胎児は「まだ人間じゃない」とし、いったい何ヶ月たったら人間と見なせるかということを真剣に議論している人たちがいる。「そりゃ受胎した直後からに決まってるだろ」と自分は思うが、その人たちは受胎後のどこかに「まだ人間じゃない」基準を理屈で決定出来ると思っているらしい。
くじらは知的なので食うべきではないという人たちもいるが、知的というのは相対的な概念で、絶対的な価値判断の基準とはなりえないことが彼らには分かってないと思う。彼らはどこかに区分けするための線が引いてあると思っているが、そんなものは存在しない。くじらが知的だという判断は、恣意的なものでしかない。
(自分の中では少なくとも哺乳類は全部知的だと思うが、それは自力で判断して行動して生きていることを知的だと、勝手に定義しているからだ。ひょっとしたら、全ての生物がその基準からすれば知的なのかもしれないとも思うが、自分には分からない。)
↓2010.12.28
心を殺すことで……
心を殺すことで、本当の自分が現れる。
もっと具体的に言うなら、心の中のささやきや感情は全部が自分のものではなく、偽物が多い。偽物の心は不確かな論理で断定的だったり、自己否定的だったり、中毒的な欲望や激情だったりする。しかし、偽物と本物の心を区別することは難しい。それを区別するには考えたり感じたりすることを停止しようとすればよい。そうすると、やたらとうるさく心にささやきかける声のようなものがあるのが分かる。それが偽物である。そして、何が偽物であるかに気づいたら、徹底的に偽物を拒絶しなければならない。
肝心なことは一旦考えたり感じたりするのを止めることである。偽者を区別出来ない内は、考えれば考えるほど偽物の心を吹き込まれ、愚かな信念や感情にとらわれることになる。
座禅を組んで何も考えないようにすることは効果的である。偽物に気づくと同時に偽物を拒絶する修行にもなる。感じたり考えたりするのは、それが出来るようになってからにすべきである。そうでなければ、本当の自分は育たない。
(「メメント・モリ(死を思え)」など、昔から人は本当の自分になるための技法をいくつか気づいている。)
↓2011.01.24
個々の神々は別個の存在で……
個々の神々は別個の存在で、同じではない、と思う。人の願いを叶えてくれる神もいれば、祟る神もいる。人に無関心な神もいるだろう。神が人のために存在していると思っている人は多いが、あまりにも思い上がっていると思う。神が気まぐれだったとしても、人がそれを責める権利はない。しかし、願いを叶えてもらったのなら、素直に感謝すればよい。
神社で時々、平和を願う。本当は個人的なことをお願いした方が、神様も気楽だろうと思う。しかし、自分がいくら頑張っても駄目なのなら、自分がそれだけのものをまだ持ってないだけのことだと思う。無理に成功させて、本当に嬉しいだろうか?否応なしに追いこまれた苦境からの脱出を願うのは、理解出来る。
↓2011.02.07
幼児には見えない世界がある……
幼児には見えない世界がある。狭い世界のことだけを覚えているだけなのに、全てを心得ていると思っている者だけが、威張っていられる。見えてない世界は見えている世界の何億倍も広いのかもしれない。そう心に刻みこんでおくべきである。
↓2011.02.12
この世界は修行の場だし……
この世は修行の場だし、幼稚園なのだから、不可逆的に良くなっていくということは絶対にない、と思う。せいぜい、一時的に良くなるだけだ。
だから、広い宇宙のどこかには、永続的に理想的な世界が存在するなどとは、思わない。