0003 あまりよく知らないことについて……
↓記述日不明
あまりよく知らないことについて……
あまりよく知らないことについて、結果を予想しつつ何かを計画することがある。そういう場合、物事が予想通りに展開することは、まずない。予想通りではないが結果的にうまくいくこともあるし、どうにもうまくいかないこともある。努力してどうにもならないことは、最終的には運命だと思って(肯定して)諦める。まだチャンスはあると思えば、諦めずにやるが、長期戦を覚悟している場合が多いし、短期的に駄目でも落胆はしない。千里眼ではないのだから、予想外の結果を後悔してもしかたない。しかし、予期しうることを想定して判断するという慎重さは必要だと思う。
攻撃性がある限り……
攻撃性がある限り、殺し合いはなくならない、と思う。倫理も理性も信仰も、結局は絶対的ではない。万一、理想的で絶対的な世界を想定できたとしても、同意しようとしない人々が必ずいるだろう。押しつけがましく理想的な世界を追求しようとするよりも、多くの人々が妥協しうる世界を見出そうとする方が、現実的であると思う。
個人的な感じ方だし……
個人的な感じ方だし、例外もあるだろうが、誰かを応援して「頑張れ」と言うのは、「もっと努力しろ」ということではなくて、「自分はあなたを応援していますよ」ということを表現しているのだと思う。だから、「頑張れ」と言われて怒る人は、そうとうにひねくれていると思う。
鯨にインテリジェンスがあるというのは……
鯨にインテリジェンスがあるというのは、恣意的な基準によっていると感じる。人の感じ方によっては、その生存能力を指して、インテリジェンスのない動物など存在しないと言うだろうし、人の能力との違いを指して、人以外はインテリジェンスがないと言うだろう。もし仮に、鯨に人と同様のインテリジェンスが存在したとすれば、人は鯨と戦争を起こしたり、逆に徹底的に無視したりするだろう。人に対するのと同じように。
人間だけが同種族同士で……
人間だけが同種族同士で殺し合うことをできる、などと非難するのはナンセンスだ。第一に、それは真実ではない。多くの生物がお互い同士で殺し合いをする。第二に、自分が人間であるということを忘れている。人間が残酷であるというなら、まず自分こそが残酷であることを認めるべきだ。
天動説を前提にして……
天動説を前提にして、いくら研究を進めても、たいして成果は期待できないと思う。しかし、現代でも、科学と称せられるものは、このような方法を用いることがほとんどであると思う。既存の見識が絶対的に正しいと思っている限り、真理を見出すことは困難であると思う。
森のきのこに関する表現について
「森のきのこが実は広大な範囲でつながっており、1つの巨大な個体を形成している」という説がある。
それは、人が隣の人に伝言を繰り返していけば、地球の裏側の人にまで情報が伝わることもありえるから、すべての人が実は一個の個体である、と言うのに近いと思う。そう定義したいというのならそう定義することも可能だろうけれど、やっぱりそれは普通の定義とは言いがたい。大胆な言い方をするだけで、何かたいしたことなのだと思いこんでいるように感じる。だからこそ、適切な表現だとは思えない。
「森のきのこは広大な範囲でつながっている可能性があり、何らかの連携があるかもしれない」というような言い方がいいと思う。
↓2010.10.15
司馬遼太郎が日本人の特徴として……
司馬遼太郎が日本人の特徴として、非常に聡いことを挙げていた。それは、途中まで話を聞けば、何を言いたいのかを察することができるということらしい。それに対して、外国人は最後まで説明を聞かなければ理解できないという。
察しがいいというのは、それだけ柔軟に受け入れることができるということだと思う。だから、日本人は他の国の文化や技術をたくみに取り込むことができるのだろう。
しかし、そのことにはマイナスの要素もあると思う。外国人は察しが悪いかわりに、説明する能力は高いと思う。それに対して、日本人は説明する能力が低く、そもそも最後まで詳しく説明する必要があるとすら思ってないのではないか。
そういう場合、相手が理解できないのは文化が違うからなんだと途中で諦めず、十分に説明すればよい。外国人は察しが悪いのだから、その辺は我慢しなければならない。
日本人なら説明しなくても察することが出来る範囲についても、詳しく説明しなければならない。そして、そのための技術を開発する必要があると思う。