0001 正しいことは論理的であるかもしれないが……
↓記述日不明
正しいことは論理的であるかもしれないが……
正しいことは論理的であるかもしれないが、論理的であるから正しいとは限らないと考える。
かつては天動説が論理的であると考えられていたことがあった。大地はあまりにも大きいのだから、こんな大きなものが動くはずがないという考えは、その当時では十分に論理的であったと考える。しかし、様々な現象が明らかになるにつれて、天動説を否定する現象が確かめられ、天動説は正しくないと確認されたと言えるだろう。
否定的な現象を無視して、あくまでそれを正しいとするのは愚かなことだが(もっとも、否定的な現象があっても説明ができないだけかも知れず、絶対に間違いだとは言い切れないとも考える)、否定的な現象がなかったとしても、まだそれが発見されてないだけかも知れないのだから、それが絶対に正しいと主張するのも愚かなことである。全ては100%仮説であると認識すべきである。
ただし、それが仮説であるからと言って、仮説が役に立たないというわけではない。その仮説を使って実際に役に立つのであれば、大いに役に立てればよい。しかし、その仮説を適用できる範囲が限定的であり、役に立たない場合もありうることを前提とすべきである。
釈迦を信用するならば……
釈迦を信用するならば、ここは幼稚園。園児はどんどん卒園していくけれど、幼稚園自体が継続するのは当たり前。むしろ好ましい?少々出るのに時間がかかるだけで、悲観することはない?それが本当かどうか分からない。
共産主義の根本原理は……
共産主義の根本原理は、「労働者は資本家を取り囲んで抹殺せよ」だ、と考える。決して、「資本家」を「労働者」と対等の立場に立たせて共存しよう、とは考えようとしない。「労働者」は容易に「支配者」に置き換わり、「資本家」は容易に「邪魔者」に置き換わる。「支配できないのなら、殺せ」だ。そもそも根本原理が誤りであるから、理解しがたい複雑な理論を立てて人を煙にまいているのが共産主義である、と考える。最大の皮肉は、共産主義国家の「支配者」が、「資本家」の最悪な部分を好んで模倣することだろう。そうするのに非常に適したシステムだから当然だ、と思う。
カフカの『城』という作品を……
カフカの『城』という作品を自分は次のように捉えている。
「世界は不可思議で思い通りにはならない。納得できるように生きようとすれば、妙な障害に次々と出会う。もしかしたら絶対に思いがかなうことはないのかも知れないが、死ぬまで決して止めない。」
虚無感を強調しているように言う人もいるが、それは要素のひとつというだけで、本質的なテーマではないと思う。むしろ否定しているのでは。『城』は未完だが、主人公の死で終わらせるつもりだったと聞いている。「願いはおそらく実現しない。それでも、決して諦めない。」と、いうことだろう。
世界が一つの価値観のもとに……
世界が一つの価値観のもとに統一されることなどありえない。価値観を押しつけようとする限り、闘争は終わらない。文化の違いを認めなければならない。文化の違いを認めるということは、その文化を否定しないということだ。たとえそれが理不尽だと思えても、それが彼ら自身の選択である限り、否定してはならない。それと同時に、自分達の文化も否定されてはならない。文化間の闘争こそを否定しなければならない。民主主義が正しいのではなく、人々が懸命に生きることを楽しめる政治体制がより以上に正しいと思う。
エネルギー保存の法則だとか……
エネルギー保存の法則だとか重力の法則だとか、常識だとされる理論が多々あるが、もしかしたら全くの見当違いだということもありうると思っている。絶対的な真理などと言うものを証明することは不可能で、ごく局所的に成り立つ事象の存在のみを認知でき、その認知自体が虚構(誤解)ということもありうるというのが基本的な考えだ。
小学生の時に石油が……
小学生の時に石油が石炭と同じく化石燃料であると書かれているのを読んで、そんな馬鹿なと思ったことがある。石油は高圧高温下で生じる未知の作用によって核分裂によって生じるという説を三十歳を過ぎて見つけた時は、そういう考えもあるのかと思った。いずれにしろ、明確な証拠のある説はまだないと思う。