零之参 終点
それからほどなく、かもめがきゃあきゃあと鳴くのを聞きながら、狐霊は都の北へ降りる。空に目をやると月ははっきりしているし、水平線の向こうから上半球が覗き込む銀星は、今日も今日とて火山が噴火していたり、雷雲が青白く発光しているのがよく見える。
丘陵都大丹波。その名の通り丘なりの地形のために水没を免れた、人類の終着点。
大丹波は領主である日華宿の一族により統治されている。この都市中央に唯一の石造りの館を構えており、あたかも権力の象徴のようだ。
狐霊は途中振り返った。異質で荘厳な、純白の建造物が屹立している。窓縁やけらば部分には蔓が幾重にも絡みつくような金があしらわれ、尖塔が天を突くさまは老若男女を問わず圧倒する。
それ以外の建物は特筆するでもなく、ほとんど狐霊の家と大差ない杉造りの家々が整列している。
標高の高さと、都民の懐事情は比例している。大丹波に住まう以上地価は馬鹿にならないわけだが、総じて金持ちの街である。
まっすぐ敷かれた石畳に沿って、左右に商家ところにより出店が佇んでいる。焼けた魚介や醤油の焦げた香ばしい匂いがどこからともなく漂ってくる。そんな誘惑を振り払い道の中心を歩く。すると先々でいろいろな人物らから声をかけられた。
「よう狐霊、昨日くれてやった筆の使い心地はどうだった」
「あ、筆屋のじいちゃん。超使いやすかったよ!ありがと!次は墨がなくなったら買いに来るね!」
「御機嫌よう狐霊。おたくの鋳物に修理の要るもんはないかい?」
「鋳掛屋のおっちゃん!もう、こないだ修理してもらったばっかりだよ!いい仕事だったよ、ありがとね!」
「あら、狐霊ちゃん。昨日分けてもらったお芋の煮っころがし、とっても美味しかったわ。狐霊ちゃんが作ったんですって?立派ね~うちの娘にも見習ってもらいたいもんだわ」
「ふすま屋のおばちゃん!にひひ、どういたしまして!」
他愛ない日常会話だ。こんなやり取りは昔から当たり前のことで、もはや挨拶の一種にすぎない。
やがて狐霊は漁港にたどり着いた。こちら側の水たまりは急峻な地形になっており、浅瀬と思って油断していると途端に底なしの谷に突き当たる。それだけでなくこの特殊な地形によるためか荒波が頻発しており、非常に危険なため漁師以外の入水は固く禁じられている。
ちなみに、一丈の釣り糸を九十九繋げて垂らしてもまだ底に届かぬと言われているほど深いこの水溜りは、網を投げると面白いように魚がわんさか捕まるという。稀に脚のついた奇怪な魚が揚がることもあり、水底は魚人の棲家という噂がもっぱら絶えない。
今日はここで漁師をしている条治という男に魚を譲ってもらいに来た。四百坪はあろうかという市場の大屋根の下を覗き込む。疎らに行き交う買い物客と売り場を縫って、狐霊は見慣れた男の姿を探した。
頭に白鉢巻を巻いた見るからに屈強そうな逆三角の体はよく目立った。男は難しい顔で無精髭を撫でていた。
ぴょんとたらいを飛び越えするりと見世物板をすり抜け、巨魚の山を迂回して、男に声をかけた。
「やあ条治おじさん。お日柄もよく」
声をかけた相手が振り返る。ごつごつとした岩肌のような強面からは想像もつかない人懐こい笑みが返ってきた。
「お?よぉ、狐霊じゃねえか。今日も元気そうだなぁ」
「にひひ、どーもっ。今日もこれにいっぱいちょうだい」
そう告げて革鞄から折りたたまれた麻袋を取り出した。広げた大きさは大人の顔がすっぽり収まる程度であるが、狐霊の家族全員分の今晩のおかずを入れるには十分である。狐霊はわくわくと店頭を覗き込むが条治は申し訳無さそうに頭をかいた。
「あいにく水揚げが悪くてよ。贔屓にしてもらえて嬉しいがあとはもうこれしか残ってねんだ」
そう言って条治が指差したのは赤茶けた色の鰭持つ何か。鱗がなく、ぶよぶよしていてぬめりがあり潰れたように平べったい。なのに鋭い牙だけがこれでもかと象徴的に突き立っている、溶けた蛙のようななにかであった。
「あら、随分めんこい魚だこと」
魚と思しきものの小さな眼球は天頂を向いて飛び出ており、息も絶え絶えだがさも「お前を食ってやる」と息巻いているように見えなくもない。狐霊は顔を近づけてじっくり睨み合った。
「これがめんこいだぁ?ほんとお前さんは末恐ろしい肝をしてやがるな。まぁ、少なくとも魚人の頭とかじゃあねえと……思うんだが……。いかんせん見た目がな。周りの奴らはおっかねえから水溜りへ返せというが、これが売れねえと家族に合わせる顔がねえ。ここはひとつ勉強しとくからよ、頼むぜ」
「ほう、おいくらで?」
「拾伍銭でどうだ。試しに前に食ってみたが毒もねえし、加えて味はかなりいい」
狐霊は顎に手を添え、頭の中で財布と相談した。
「むぅ、安くはないけど……よおし、買った!」
条治はほっと息をつく。狐霊の麻袋には入り切らないため、もう一回り大きいものを用意してもらった。貨幣と交換でそれを受け取ると、ずっしりとした重みによろめいた。
「まいどあり!」
条治は「やれやれ、助かったぜ」と独り言をこぼし、しゃがんで店をたたみ始める。その折、先程とは低い声で、言葉を濁しながら背中越しに聞いてきた。
「あー……んー……ところでその……真白さんは元気でやってっか?」
真白とは狐霊の母親のことだ。条治の背中はその巨躯に反してやけに小さく見えた。
「うん、元気だよ。この前なんか素潜りしてかにをいっぱい捕まえてきたし、新しい料理に挑戦して失敗してた」
「そうか……元気ならいいんだが……やっぱり、親父さんの便りはなしか?」
「そうだねぇ。ってことはおじさんの方も?」
「俺の方に音沙汰なんてあるもんか。吟日は連絡ならまっ先に家族のところへ送る男だ。あいつの顔も知らない狐霊には分かんねえだろうけどな」
条治と吟日は漁師仲間だったと聞く。漁は団体で行うものだが、二人はその中心的存在で、常に二人三脚の間柄であった。彼らの淳厚に追従する者は多く、どちらが欠けてもその日の漁業は中止にするほどだったとか。条治の言うことだから誇張されている部分もありそうだが、ともかく固い絆というのはよく伝わった。
条治がこの何年もの間、沖へ出続けては吟日の痕跡を漁っているのは知っている。もしも死んでいるにしたってあの男の骨はこの水溜りに沈んでいるはずだ、友としての責任だと言って頑なにして折れない。その姿には悲痛さすらうつって見えた。条治は十二年経った今でも、同じ瞳で海を見つめているのだろう。
「父さんと最後に会ったのは?」
「ああ、二人で北西沖の岩場の方まで漁をしに行ったときだったな。別にこれと言って不自然なことは何もなかったと思うが・・・・・そういえば、最近のことだがこいつを拾ったんだったかな」
条治は傍らの竹編みの荷物籠の底に手を突っ込んでかき回し、中から黒っぽいものを掴んで取り出すと、手の中で転がしてから狐霊に見せた。
黒い輪だった。大人の手のひらに収まる大きさの小さな輪だ。どのような材料から出来ているかはわからないが、一見して革のようだと類推する。その輪の一端から極小の鎖が、海色の輝きを反射する鉱石を繋いでいた。
「翡翠だ」
狐霊は物珍しそうに呟いた。
「稀に西の砂岸で拾えるらしいけどな。だがこの意匠だ。なにか知ってるか?」
「うーん……なんだろうこれ」
狐霊は手に取りあらゆる角度からしげしげ見つめる。犬用の首輪と考えるのが妥当だが、にしては作りが良すぎる。
なにより極小の鎖に繋がれた翡翠には心奪われた。形は非対称的で、上半分が太く下半分は歪曲して徐々に細くなっている。例えるなら猪の牙を模したもののようだ。形もそうだが驚くべきは研磨率の高さで、玻璃と見紛うほどの透明感に仕上がっている。高硬度を誇る翡翠に穴をあけるというのも至難の業だというのに、これを作ったのは一体どんな人物なのだろうか。
「どこでこんなものを?」
「十二年前と同じ場所で、魚と一緒に投網ん中に紛れ込んでた」
「そんなものよく取っておこうと思ったね。集めるのが趣味なの?」
「いんや、んなもん見つけたのはこれが初めてだ」
条治は「行方の手掛かりになるかも知れねえだろ」と海の方を見つめながら言う。
「……それにしても随分状態がいいね。それだけ最近作られたものかな」
「職人連中にならとっくに聞いて回ったが、心当たりのあるやつはいなかったぞ?」
「じゃあ、どこか別の町で作られたものかも。波の方向から推測できるんじゃない?」
「いや、それは無理だ。別の町っつったって北側は東西ふたつの波がちょうどぶつかり合う場所だからな」
条治は口をとがらせた。知恵は出尽くしたと言わんばかりに、ため息を付きながらぼさぼさの頭を掻きむしる。
狐霊は翡翠を明るい方へ向けて透かしてみた。碧を讃えた美しい宝石だ。このような技術を持つ人が、身近にいるだろうか?
「それにしても綺麗だなぁ、これ……」
狐霊はうっとりとそれを見つめた。こういうものを見るとどうにも蒐集欲に駆られてしまう。
狐霊は趣味で偶に絵を描く。そのために顔料となる鉱石などを水底から採取する事があるが、中でも見た目のきれいなものは画材にはせずに飾るようにしている。わざわざ自宅には専用の鉱石棚を用意しているくらいである。
条治は髭を撫でて言った。
「ただなぁ、『それ』よぉ。どういう仕組みか知らねえがたまーに蛍よろしくぼぅっと光るんだ。不思議なもんだろ」
「光るって、これが?へー!前はどういうときに光ったの?」
条治は髭を撫でてから首を横に振った。条件らしいことは想像がつかないらしい。
狐霊は疑いもせず光らせる方法を手当たり次第に試みた。激しく振ってみたが、反応はない。両手で包み込んで日光を遮ってみても、反応しない。息を吹きかけてみても反応なし。袖で磨いてもぎゅうと握りしめても舐めても、終いには「ぬおー!はぁー!」という掛け声で念を送ってみたりしてみても……何の反応も示さない。
「首輪なんだから、つけてみたらどうだ?」
言われてみれば、それもそうだ。狐霊は磯の匂いの染みついたそれを、ぐるりと喉仏の下辺りに這わせ首の正面で留め具を合わせてみた。思いの外それは狐霊にちょうどよい寸法であった。
「おお、ぴったり!どう、おじさん?似合う?」
くるりとその場で回ってお披露目してみると、条治は苦笑して言った。
「はは、可愛らしくていいんじゃねえか?」
「はー?かっこいいの間違いだろー?」
口ではそう言いつつも狐霊は褒められたことに上機嫌になった。なんだか気に入ってしまって首輪をつけたまま翡翠をつまんで弄んでいると、条治が急に声色を変え、慌てた様子で言った。
「お、おい狐霊!見ろ!」
「うん?何を?」
「何を、じゃねえそれだ、その翡翠!光ってやがる!」
狐霊は視線を下にやると、たしかに薄い緑色の発光をしているのがわかった。ぱっぱっと明滅を繰り返す光は徐々に強くなっていき、ぼぅっと光る程度では収まらないくらいまばゆく輝いた。その異変は気づいた周囲の一般客からの注目をちらほら集めていた。
「わっ、ほんとだ!すごい、どんどん明るくなって……え?」
狐霊はその時、閃光の奥になにか形を持つ影があるのが見えた。逆光によって輪郭の内側が塗りつぶされたように真っ黒な影はおぼろげに焦点を外れていたが、その姿は狐霊の網膜に強く焼き付いた。それは人影か、はたまた別の何かか。
無意識に、口が動いていた。
「……きみ、は……?」
狐霊が口にした言葉の意味を狐霊自身が理解するよりも先に、翡翠の光は消えていた。