新人声優つかさ君の場合
繊細な息遣い、吐息ひとつで変わる感情。
そして、そのあとに続く言葉はーー……
『僕、おねーさんのこと、好きなんだけど?』
少年のような甘い声、キャンディーボイス。だけど、大人の色香が漂い、聞いた者を惑わす。
はぁ……耳福、耳福だわ。今日も美味しくいだきました。
『カナデさーん。どうですか?』
さきほどとはガラリと雰囲気が変わって元気よくこちらへ問いかける声は、いまなお、甘い。
「今日も絶好調だね、つかさくん」
『えへへー』
今日、収録しているのは最近、人気急上昇中の新人声優つかさくんのボイスサンプルの収録だ。運も実力のうちと言われる芸能界の仕事。いわゆる作品が当たった、話題になることで、認知度が上がる。
そして、”このキャラといえばこの人”となると、より強い印象を与えることが、次の仕事へと繋がる。
つかさくんは、その、いわゆる話題作品に出たことにより、”年下の男の子”キャラが定着しつつある。
今回は、そのキャラクターがボイスサンプルに入っていなかったので、新たにボイスサンプルの録り直しをすることになった。
『えっと、じゃあー、次は……』
これで最後と思い、編集プランを頭の中で構築していると、思わぬ言葉に停止する。
「あれ、さっきのセリフが最後じゃないの?」
声優のボイスサンプルを収録する際、言い間違いなどのチェックを行うため、本人と収録側が同じ原稿を持って収録をしている。
しかし、目の前にある原稿は、ついさっきまで収録していたセリフの原稿しか見当たらない。
『ううん。あと、ナレーション録るつもりで……もしかして、原稿ない感じ??』
少年声もできるハイトーンボイスが武器のつかさくんは困った声を出している。
姿は見えずとも、イタズラが見つかった子猫のような映像が浮かぶのはつかさくんの声の表現力ゆえか。動物のもふもふ動画が癒しが人々の癒しになる理由がわかる瞬間で、身に染みる現在。
『カナデさん?』
彼方へ飛びかけていた意識を呼び止める、呼びかけに、ハッとする。
「あ、ちょっと待ってて、確認する」
頭を急いで切り替えて、目の前に散らばる原稿を再度、確認する。
声優の名刺代わりになる”ボイスサンプル”と、一言で言っても様々なパターンがある。
基本的には、3~4つのキャラクターセリフとナレーションが1つの組み合わせが定番だ。
もちろん、収録する際は3~4以上の数がある。こうして現場で第三者の意見も含めて実際の音を聞いて、セリフを選別したり、話し合いを行い、今できる一番をつくっていく、ある意味、共同作業でもある。
そして、ナレーションはお芝居と違って、別の技術が必要になるため、苦手な人や新人は入れないことが多い。わざわざ自分を下手だと、アピールする資料に入れる必要はないからだ。
「うーん。ペラ紙2枚しかない……」
やはり、もう一度、確認してみたものの、他のセリフ候補も含めた原稿はあったが、デスクの上に置いてあった原稿もやはり、先ほど収録したもので終わりだった。収録ブースとスタジオをつなぐ、TALKボタンを押してその事実を伝え、あることを提案する。
「つかさくん、やっぱり見当たらない。つかさくんが手元にもってる原稿コピーしよっか?」
こういったことは多くはないが、度々起きるトラブルのひとつ。直前に原稿が変わったり、こんな風に原稿が足りないなど、そういったトラブルに対応できるように、簡易にはなるが印刷機材をスタジオに置いてあることが多い。
『あー……その、僕、デジタルでタブレットなんです……』
「タブレット……」
私の提案に、一瞬、嬉しそうな声をあげたものの、すぐに、トーンダウンして、申し訳なさそうに続けられた言葉に、その意味を理解する。
数年前だったら、紙以外なんてありえないっ!と注意されることが多い世界だったけど、時代は変わるもので、このタブレットが普及した時代に拒否するのはちょっと違う気もするし、少しずつ、この変化は受け入れられてきてはいる。
……つかさくんは確かまだ10代だったはず、ジェネレーションギャップを感じる。
『うー。またマネージャーに怒られちゃう。データならあるんですけど……』
しょぼしょぼとした哀しい声を出すつかさくんの言葉に、一筋の光が走る。
「え、データあるの!? そのデータ形式って……とりあえず、一回、こっちに出てきてもらっていいかな?」
『もちろんです。今、行きますね』
まくし立てるように早口になってしまったが、つかさくんはきにすることなく、元気に返事をすると、ザザッと布擦れの音が聞こえてきた。パタパタとスピーカー越しに聞こえていた足音が聞こえなくなって数秒後、防音扉が開いた。