優しさの記憶
「な、なんだと?何を言っている」
「アレクサンドル公、そしてアレクサンドラ様は、当然ながらご存知でした。本当にアレクセイ閣下とキーラ嬢を婚約させるなら、どのような形式をとる必要があるかを。皇帝陛下のご裁可が必要であることを。
で、ありながら、ご用意なさったのはこの書状であったわけです」
びしっと書状を突きつけられ、ノヴァダインは言葉につまった。
「不十分であることを承知の上で、アレクサンドル公はこの書状を作成され、アレクサンドラ様は署名押印をされたのでしょう。それはつまり、お二人とも、本当はそれを望んでいなかったということです。
実を言うと、アレクサンドル公は、たびたびこうしたことをなさる方だったのですよ。人から何かを頼まれてそれが困難なことだった場合、こうした書状を渡して、君の願いを叶えてあげたよと微笑む。僕は人をがっかりさせたくないだけなんだよと、おっしゃっていたそうです。
――おや、そう言えばノヴァダイン伯、貴殿はアレクサンドル公のご友人だったはずですね。公が……そういう優しさをお持ちの方だったことは、ご存知のはずでは?」
「い……一緒にするな、私は特別だ!あの方の、親友だ!」
そう言いつのりながらも、ノヴァダインの額には汗が浮かんでいた。
この男は、よく知っていたのだろう。アレクサンドルの『優しさ』を。その優しさにぬか喜びさせられた人々を、嘲笑したことさえあったのだろう。自分だけは違う、という優越感にひたって。それを持ち出されては、この書状の有効性がさらに否定されてしまう。
「アレクサンドル公は、非常に魅力のある方だったようですね。多くの方に、この方にとって自分は特別なのだと思わせるような」
感心した風に、ダニールはうなずく。その言葉は言外に、本当に特別だったわけではないと言っているのだった。
おそらく、自分は特別だと思っていた人々の誰一人として、アレクサンドル・ユールノヴァにとって特別ではなかった。誰一人として。
「申し上げるのは恐縮ですが、いかにお気に入りであろうとも、アレクサンドラ様は本当にキーラ嬢の輿入れをお望みになったでしょうか?貴家の爵位は伯爵でいらっしゃる」
弁護士の言葉に、大広間はしんと静まった。
「ぶ、無礼な!何が弁護士だ、若造が!お前ごときに何がわかる、この書状をおとしめようとしてもそうはいかんぞ。これは確かに、お二方がキーラを公爵夫人にすることを望んでご用意なさったものだ!」
ノヴァダインは吼えたが、人々はしらじらと醒めた表情だ。さきほどの婚約宣言を真に受けてしまった者が、自分自身に呆れるほどに、弁護士の言葉には説得力があったのだ。
今も覚えている者がいる。アレクサンドルの妻、アナスタシアは由緒ある侯爵家の令嬢であったが、夫と過ごした短い日々、アレクサンドラから卑賤な娘とまで罵倒されていたものだった。
「皆様!このような言葉に耳を傾けるなどどうかしておりましょう!」
その空気を変えようと、ノヴァダインはさらに声を大にした。
「アレクサンドル公は細かいことなど気にしなかった、アレクサンドラ様は正式な手続きなど下々が手配することと考えておられた。お二方はただ意思を示せば、周囲がしかるべく整えると考えておられたのです。ご存じのはずだ!
そして弁護士と名乗るそこの若造!弁護士の資格を得て何年になるか知らないが、ほんのひよっこでしかない。やんごとない方々のことなど何も知らないくせに、えらそうな口を叩きおって、ただで済むと思うな!熟練の弁護士と法廷で戦うことになれば、お前など叩き潰されるだけだ!」
「――ほう」
ダニールの声は大きくはなかったが、よく通った。
再び眼鏡を押し上げて、にんまりと笑う。その顔は、理知的でありながら、ひどく――好戦的だった。
「法廷で戦う機会をくださいますか。実に楽しみです。
熟練の弁護士にお伝えください。十八歳で弁護士の資格を得た若造が、全力で迎え討ちますと」
知識のある者たちは目を剥く。皇国では弁護士の資格は、大学で法学を修めたのち、試験に合格したものに与えられる。ただし、大学を卒業しなくとも、それと同等の知識を有すると認められれば、弁護士試験を受けることができる。きわめて狭き門だが。
十八歳で弁護士資格を得たなら、ダニールはその狭き門を、最年少で突破したということだ。
そしてさらに、弁護士の資格試験そのものが、最難関として知られる。十八歳で合格など、通常は考えられない。
「ああそれから、やんごとない方々でしたら、父の縁でいささか存じております。父の名はマクシム・リーガル、皇室の法律顧問を拝命しておりましたので。現在は皇室からは離れまして、大法院の長官を務めておりますが」
大広間は今度こそどよめいた。
大法院は皇国の司法をつかさどる。その長官であれば、皇国の法曹界における最高権威だ。
「父はアレクセイ閣下の祖父君、セルゲイ公とも懇意にさせていただいておりました。ご自分の言動が多くの者に影響を与えることをしかと心得た、立派な貴人であられました。
さて、はばかりながらこのダニール・リーガル、赤子の頃から絵本の代わりに法律書を読み聞かせられ、父親との会話は法廷論争まがいという毎日で育った身です。弁護士経験はほんの十二年ですが、それで判断はなさいませんよう。若造を公爵家の法律顧問に取り立ててくださった、アレクセイ閣下のご信頼にお応えするため、全力を尽くさせていただきます」
胸に手を当てて、ダニールは慇懃に一礼した。
法曹界の最高権威直々に、赤子の頃から法律知識と法廷論争の技術を叩き込まれてきたとしたら、十八歳での弁護士資格取得もうなずける。この弁護士は、若造などと侮ってよい相手では決してない。そして十二年のキャリアは、短くはない。
「ぐ――くっ……う」
ノヴァダインの目が泳ぐ。
助けを求めるように見回した大広間には、彼と目を合わせる者はいなかった。彼の取り巻きたちでさえ。こそこそと人波にまぎれて、逃げる者さえいた。
想定外だったに違いない。アレクセイがこれほど冷静に、冷淡に対処するとは。
常識的には、法律の要件を満たしていなくとも、亡き父親の意向は尊重するものだ。さらには、祖母にして皇女たるアレクサンドラの署名まである。尊重しなければ、不孝、不忠のそしりを受けるはず。アレクセイがキーラとの婚約を望んでいなくとも、この場は穏便に納めるのが普通だ。
そうなればノヴァダインは、アレクセイも婚約を了承した、と言い立てるつもりだったのだろう。
それなのに弁護士は『アレクサンドル、アレクサンドラは実はこの婚約を望んでいなかった』という結論に持ち込んでしまった。大広間の人々は、その結論に納得している。そして弁護士は超エリート、父親が法曹界の最高権威という威光を、芝居がかった台詞でさらしてみせた。
この空気をくつがえす手札は、もはやノヴァダインにはない。取り巻きたちも、それが解っている。
自分には切り札があるとうそぶいて、アレクセイに対しても強気に尊大にふるまい、求心力を保ってきた。そのメッキが、今、完全に剥がれたのだ。
がくり、とノヴァダインは膝をついた。




