弁護士は知っている
無意識に、エカテリーナは兄の袖を握りしめている。
これだったか!ノヴァダインの余裕の根源!
キーラ嬢を公爵夫人にしようとしているのかも、と思ったことはあった。それにしては態度がおかしい、とも思っていた。
これがその理由。お兄様に媚びなくても、親父とババアから、キーラ嬢を公爵夫人にする切り札をすでに手に入れていたんだ。だから、あれほど我が物顔で、ユールノヴァ城でお兄様を出迎えた。
そ、それにしても、これって。
まるで、ゲームの断罪シーンみたい。
まさか、まさかまさか、シナリオ通りにゲームが進まない影響?破滅フラグが、こんなところで襲いかかってきた?
「エカテリーナ、大丈夫か」
「は、はい、お兄様」
心配そうに見つめられて、エカテリーナは我に返る。いけない、しっかりしなくちゃ。
「アレクセイ様!」
焦れたようにキーラが声をあげた。
妹に向けるものとはまるで違う視線を、アレクセイが向ける。その冷たさに気付きもしないのか、目が合ったことが心底幸福な様子で、キーラは顔を輝かせた。
「アレクセイ様」
母親譲りなのか、やはり見事な跪礼をとる。そしてキーラは、笑顔でアレクセイに手を差し出した。
「わたくし、ようやく隣に立てる身になれて嬉しゅうございます!もう、お一人にはいたしません。わたくしがずっとお側におりますわ!父も、母も、アレクセイ様の支えになりたいと申しております。義理とはいえ、父母になるのですもの。
もうそのように、厳しいお顔で領地のことに悩む必要はございません。父がすべて、うまく取り仕切りますわ。アレクセイ様はお父君アレクサンドル公のように、日々を楽しんで生きることがお出来になるのです。わたくしはずっと夢見てまいりましたの、あなた様を自由にしてさしあげるこの日を!」
……兄の腕の中で、エカテリーナはついつい眉が寄るのを止められないでいる。
えっと、縦ロールちゃん。
君は、本気でそう思ってきたんだね?君がお兄様と結婚して、ノヴァダインのおっさんがユールノヴァを乗っ取ったら、お兄様が幸せになれるって。
わー、すげえ。
でも……考えてみれば、当然なのかも。この子はまだ子供なんだから。子供の考えなら、責任も義務も知らん顔で華やかに遊んで暮らしていた親父はさぞ、幸せな人に思えていたのだろう。
幼い頃から責務を負ってきたお兄様が、幸せだったとは言わない。けれどお兄様の責務の向こうには、数多くの領民たちの暮らしがあり、数多くの人生の幸福と不幸がかかっている。お兄様はそのことを理解している。なのにそれを放棄して、幸せになれるものか。
縦ロールちゃん、君はそれを理解できるはずもない、責務について説明したって、鼻で笑うんじゃないか。前世では十五歳なんて、たいていそんなもんだった気がする。
あ、でもこの子、前世の十五歳より駄目だった。貴族の身分を笠に着て、平民を見下す子だったわ。
ローカル悪役令嬢ちゃん。悪役令嬢がこういう派手なことをすると、ロクな目に遭わないんだよ。
だって――お兄様、とっても冷静だからね。
アレクセイは、妹の髪を撫でて、安心させるように微笑んだ。
「エカテリーナ、少し待っていてくれるか」
「はい、お兄様」
エカテリーナが袖を離すと、アレクセイは顔を上げてノヴァダインを見据えた。射抜くように鋭い、ネオンブルーの視線。
キーラが差し出す手も、キーラ自身も、完全に黙殺してその傍らを通り過ぎ、アレクセイはノヴァダインを真正面から見下した。
「書状を」
「はっ……」
たじろいだノヴァダインが、思わず、といった様子で差し出された封書を受け取ると、アレクセイは中身をさっとあらためた。
冷淡な表情でひとつうなずく。
そして、大広間を見渡して呼ばわった。
「ダニール。ダニール・リーガルはいるか」
わずかに間があって、応えが返る。
「はい閣下。ダニール・リーガル、御前に」
大広間の人々が、さっと道をあける。花道のようなそこから現れたのは、ユールノヴァ公爵家の法律顧問だ。銀縁の眼鏡が印象的な、いかにも理知的な容貌の青年。髪色はグレイと地味だが、眼鏡の奥の瞳は鮮やかな翡翠色をしている。三十歳そこそこという、法律家としては若すぎる年齢ながら、翡翠色の目には鋭い光があるようだった。
そして口元には、この異様な状況を楽しむかのような、ふてぶてしい笑みがある。
「内容を確認し、彼らに説明しろ」
「はい、閣下」
アレクセイから受け取った書状の内容を、ダニールは素早くあらためた。
そして、にっこり笑うと、朗々と響く声で言った。
「皇国の法律上、この書状では、閣下のご婚約は成立いたしません。法的観点では、この書状には、特段の意味はございません」
大広間の人々は、またもどよめいた。
「し、失礼な!」
ノヴァダインが顔を真っ赤にする。
「意味がない?馬鹿を言うな!前公爵、アレクサンドル公の直筆だぞ。公の印もある!」
「はい、そうですね」
ダニールは眼鏡を押し上げて、にんまりと笑った。
「おっしゃる通り、筆跡はアレクサンドル公のものと見受けられます。
しかし、ここに押されている印章は、アレクサンドル公個人の私印です。ユールノヴァ公爵家の印章ではない。アレクサンドラ様の印章も同じく。
有力貴族の婚姻は、家と家との契約です。ですから、婚約や婚姻に関する書状には、両家の印と両家当主の署名が必要であると、皇国の婚姻法に定められております。前公爵とその母君の署名では、必要事項を満たしていないのです」
書状をノヴァダインの方へ掲げて、筆跡、印章と、その箇所をいちいち指差しながら弁護士は説明する。衆人環視の中だから、大広間の人々はその一言一言に、おお、とか、へええ、などと感心する。
さすがに法廷論争に慣れた弁護士。歯切れ良くたたみかける口調には、大いに説得力があった。
「だ、黙れ!法がどうあれ、アレクサンドル公はこの書状に、キーラを息子アレクセイの婚約者と定めると書いておられる。父君のご遺志を軽んじるなど許されると思うのか!」
ノヴァダインの言葉で、大広間を困惑したようなざわめきが満たす。
ダニールは真摯な表情でうなずいた。
「許されます。この書状でアレクセイ閣下の婚約が成立したとすることは、皇帝陛下への不敬にあたるからです」
どよっ、と人々がどよめく。
「なぜなら、三大公爵家の当主および継承者の婚約、婚姻には、皇帝陛下のご裁可をいただく必要があるからです。これも、建国の頃から法で定められております。
アレクサンドル公の一存で、アレクセイ閣下の婚約が整ったとしてしまえば、皇帝陛下の権威をないがしろにしていると見なされます。過去には実際に、皇帝陛下のご承認を得ることなく婚約を結ぼうとした公爵家が、厳しいお叱りを受け謹慎処分を受けたことさえあるのです。二百年ほども前のことですので、ご存知なくとも無理はありませんが――おや、ご存知の方も大勢いらっしゃるようですね。
それゆえ、ここにあるのが陛下の御名御璽でなければ、アレクセイ閣下のご婚約が整っているとは言えません。言うわけにはいかないのです」
ノヴァダインはうろたえた様子で声を荒げた。
「ア……アレクサンドラ様は皇女であられる。そのアレクサンドラ様の印章があるのだ、皇帝陛下は当然ご裁可くださる!」
「いえ、公爵家へ降嫁なされた以上、アレクサンドラ様のご身分は公爵夫人。皇室の一員ではなく臣下であると、皇国の法により定められています」
「だ、黙れ!法がどうあろうと、アレクサンドル公とアレクサンドラ様がキーラを公爵夫人に望まれたのは事実!ヴァシーリー公の認許状を尊重されるなら、父君であるアレクサンドル公のご遺志は、さらに重んじられるべきだろう!」
「本当にそうお望みだったのでしょうか」
ダニールの口調は静かで……それゆえに、不穏だった。