森の貴婦人
「どうか、ユールノヴァ公爵家四百年の歴史を、自ら汚すようなことはおやめください。その女は、まともな家に住むことすら知らず、山中を這いずって暮らす蛮族の者でございます。皇国の秩序にまつろわぬ、無法者ではありませんか!
ここには多くの、由緒正しい臣下一同が集っております。皆を差し置いて、そのような身分いやしき者とお言葉を交わすようなことは、あってはなりません!たとえこの身にお叱りを受けようとも、主君の名誉をお守りすることが、アレクサンドラ様から直々に貴族の矜持を教えていただいた、わたくしの責務。どうかお聞き届けくださいませ!」
悲壮な雰囲気をただよわせて、ノヴァダイン伯爵夫人は深く頭を垂れる。
エカテリーナがちらりと見上げたアレクセイの瞳は、氷河さながらに凍てついて女を見据えていた。
おい縦ロール夫人。社交がお好きでないお兄様が、せっかくさっきまでフォルリさんと楽しそうに話してたのに。ぶち壊しにしおって許さん!
あんたが言うことは、この世界のひとつの論理ではあるだろう。この場にいる上流階級の人々には、内心同意している人間もそれなりにいるんだろう。前世の歴史上のエピソードでも、こういう考えがしばしばまかり通っていた。
けどな、秩序がどうたら言うわりに、お兄様がお話ししてるところへ突撃かましてくるって、自分がこの世界の論理に照らして無作法すぎる真似をしてるだろうが。なんでアンタら一家は揃いも揃って、自分は何をしても許されると思い込んでるんだ。
そんなわけで、エカテリーナは兄の袖をそっと引き、ささやいた。聞こえよがしな声の大きさを心がけて。
「お兄様……あの者はお祖母様の侍女だったとやら申しておりましたけれど、お祖母様は使用人ごときがこのような無礼なふるまいに及ぶことを、お許しになるような方でしたのかしら」
ふ、とアレクセイの唇に笑みが宿った。
「許すことなどあり得ない。そういう方だったと、ここにいる誰もが知っているだろう」
周囲ではさざなみのように、同意のうなずきが広がっていく。
「やはりそうですのね。それしきのこともわきまえず、お祖母様から何を学んだつもりでいるのでしょう。分家筆頭などと名乗ってこのありさま、わたくしお客様にお恥ずかしくて、胸が苦しゅうございますわ」
眉をひそめたエカテリーナが、豪奢なサファイアのネックレスで飾られた豊かな胸元をおさえると、アレクセイはさっと顔色を変えた。
なお、エカテリーナを見つめていた男子一同はついその胸元へ視線を集中させてしまって、あわてて目をそらしていた。
「エカテリーナ、可哀想に……。お前を苦しめるとは、なんという不届き者だ。今すぐこの手で、斬って捨ててくれよう」
……えっとお兄様、冗談ですよね?シスコンジョーク怖いです。
いやジョークじゃないよ!お兄様はシャレにならないシスコンなんだから。いつも自ら光を放つようなネオンブルーの瞳が、さらに底光りして、魔王のごとき迫力ですよ!
「か、閣下……」
さきほど生命を賭けると言った割に、ノヴァダイン伯爵夫人は顔面蒼白だ。
エカテリーナは兄の肩に触れて、首を振った。
「お兄様、どうかおやめくださいまし。わたくしのために刃を汚すことなど、ございませんわ」
つい、縦ロール夫人の生命より、お兄様の愛剣をかばってしまいました。だってこの一家、ソイヤトリオ並みに生命力強そうだし。斬ったら分裂して増えそう。
「それより、お招きしたお客様に礼を失してしまったことが、辛うございますの」
「そうか。責任感の強いお前らしいが、お前の失態ではないんだ。そんなに気に病んではいけないよ」
妹の身体に腕を回し、アレクセイは優しくなぐさめる。
……そうですね、ちらっと見えたフォルリさんと奥さんの顔、どう見ても笑いをこらえてました。すいません、親友の孫がこんなんで本当にすいません。
「アウローラ、森の貴婦人。あの者の非礼を私からもお詫びする」
フォルリと妻アウローラに向き直り、アレクセイは声をあらためた。
貴婦人、という呼びかけに、ノヴァダイン伯爵夫人は目を見張る。
「森の魔獣を掃討する際には、我が騎士団はあなたの一族にたびたび歓待していただき、助力さえもらっているものを。祖父セルゲイはいつも感謝し、貴女を森の貴婦人と呼んでいた。貴女のことを話してくださるたび、懐かしそうに微笑んでおられたものだ」
と、アウローラは、ほほほ、と品良く笑った。
「どんなお話をされていたことか」
少しかすれた、女性としては凛々しい声だ。一族を長として束ねる身だけに、威厳がある。
アレクセイは微笑を返した。
「たとえば、我が公爵家と貴女の一族の関わりについて。三百年前、五代目ヴァシーリー公が貴女の一族に、領内のどこなりと通行することを許可する認許状を与えたことを話してくださった。ヴァシーリー公が大切にした発明家、ジョヴァンニ・ディ・サンティが、アストラ帝国の遺跡を調査する時の案内を依頼したためだが、今もその認許状は貴女の一族に伝わっていると。
ディ・サンティが修復したおかげで、我々は帝国が築いたさまざまな施設を今も利用できているが、それは貴女の一族のおかげでもあるそうだ」
エカテリーナは目を見張る。
お兄様、マジですかそれ!いやもちろんマジですよね。
そしてそれは、さっき縦ロール夫人がアウローラさんをディスってぬかした、蛮族とか無法者とかいう台詞を完膚なきまでに粉砕する意図で言ってますね。
前世イタリアのローマでは、ローマ帝国時代の下水道が二十一世紀になっても使用されていたけれど、この皇国でも当然のようにアストラ帝国の上下水道があちこちで現役稼働中。ただし千年も前の設備であり、アストラ帝国滅亡から数百年間続いた戦乱期に、そうした設備の建設技術はおろか修復技術すら失われてしまったため、破損して朽ちてしまったものも多いそう。
その上下水道の構造を解き明かし、修復および建設技術を再確立したのが、かの発明家ディ・サンティ。まだ母国にいた若かりし頃にそれを成し遂げ、その名声を聞きつけた五代目ヴァシーリーがユールノヴァ領へ招聘した。
だから、ディ・サンティがユールノヴァ領でもアストラ帝国の遺跡を調査したというのは、ごく自然な流れで納得できる。
「そ、そのようなこと、聞いたこともございません!かの賢君ヴァシーリー公が、このような者たちと関わりを持つ理由がありましょうか!」
ノヴァダイン伯爵夫人は叫んだが、アレクセイの氷の一瞥に凍りついた。
さらに、公爵兄妹を取り巻く人々は、さりげなく彼女から距離を取り始めている。物理的なドン引きだ。
「懐かしいことです。セルゲイ公は、ヴァシーリー公の認許状に添え書きを加えてくださいました」
アウローラのさりげない一言は、しっかり伯爵夫人にとどめを刺した。
いや、伯爵夫人の言い分も、実は解らなくもないのよ。
ヴァシーリー公、ディ・サンティを遺跡へ案内する役目を、なんで森の民に依頼したんだろう。普通なら騎士団とか、役人の森林官とかを付けそうなのに。
そりゃ森の民なら、あまり知られていない森に埋もれた遺跡とかも知っていそうだけど。魔獣が多く生息するこの公爵領、そんな危険なところへ大事な発明家を行かせるべきではないはず。
そもそも、どんな接点があったんだろう。
でもお兄様がこうおっしゃる以上、森の民がヴァシーリー公直属の部下のような存在だったことは間違いない。
なんか、かっこいいぞ!忍者の里か影の軍団か。きっと後世、派手派手に脚色されてドラマ化映画化ゲームのネタにされるに違いない!
そしてノヴァダイン伯爵夫人の傍らに、どこからともなく現れた人影。
「お客様」
事務的な声音で呼びかけたのは、家政婦のライーサだった。
「ご気分が優れないご様子。どうぞ、別室でお休みください。他のお客様方もご心配なさいましょう」
他の皆さんの迷惑だからあっち行けやコラ、を素晴らしく分厚いオブラートに包むスキル。プロフェッショナルである。
「わ、わたくしは」
たじろいでいるのは、ライーサのことを知っているからだろう。非公式の存在ながら、先々代公爵セルゲイが愛した妹。すなわち、現公爵アレクセイの大叔母。公爵家に近い者は皆そう思っている。
「どうぞ」
ライーサの口調は静かだ。しかし用意周到な彼女の背後には、無言の圧力をかける三つの人影が控えていた。うち二人は騎士の礼服、もう一人は通常の礼服ながら、大柄な体格は他の二人に劣らない。
ライーサの夫と、双子の息子たちだった。
かつては城の洗濯女だったライーサは、祖父セルゲイのはからいにより、代々騎士である名家の養女となり婿を迎えた。彼は当然のように騎士であり、現在はユールノヴァ騎士団の副団長。騎士団長エフレム・ローゼンに次ぐ、騎士団のナンバー2だ。
双子の息子たちはそれぞれ騎士と文官に道を分けたが、どちらも武芸に優れ見事な体格の持ち主。それぞれの道で頭角を現している。
その三名による圧。重い。まさに重圧。
もはや言葉もなく、ノヴァダイン伯爵夫人は言われるままに、別室へと連れられていった。
ユールノヴァ城の大広間には、今も舞曲が流れていたが。
彼女を見送るエカテリーナの脳内には、ドナドナがフルコーラスで流れたのであった。