宴の始まり
その朝、エカテリーナはレジナを抱きしめて、ねんごろに礼を言った。
「ありがとう、レジナ。あなたのおかげでとても助かってよ」
レジナはフサフサの尻尾をばふばふと振り、大きな頭をぐりぐり押し付けてくる。
フッカフカのたてがみがたまらん!アニマルセラピーや、癒されるわ~。
でも今日はもう、離れなければ。
「あなたの群れに戻って、しばらくゆっくり休んでね」
鼻づらを撫でて言うと、レジナはずらりと並んだ牙を見せて、笑うような表情になった。
「ライーサ、レジナを犬舎まで連れて行ってちょうだい」
「はい、お任せください」
ライーサがうなずく。長らくこのユールノヴァ城に関わってきたライーサは、巨大な猟犬にも臆することはないようだ。祖父にもお気に入りのリーダー犬がいたそうだし、慣れているのだろう。
ライーサがエカテリーナの部屋に来たのは、貴重品を保管する金庫から出したものを届けるためだった。それは、彼女の傍らのテーブルに置かれた平たい箱の中で、燦然たる輝きを放っている。
サファイアとダイヤモンドが散りばめられた、イヤリングとネックレス。
ネックレスの中心となるペンダントトップ、長方形のサファイアの大きさときたら。長さ五センチ、幅三センチはありそうだ。さらに、首の周りを取り巻くネックレス部分は、直径二センチくらいのサファイアをいくつも繋いでいる。それらはすべて小粒なダイヤモンドに囲まれ、きらめく黄金の鎖でつなぎ合わされているのだった。
ユールノヴァ公爵家の家宝のひとつだそうで……皇都公爵邸にも代々伝わるサファイアのイヤリングと髪飾りがあったし、あらためて四百年続く公爵家すげえ。
前世だったら、こんなの持ってそうなの、イギリス王室しか思いつきませんわ。お値段いくらなのか、想像もつきません。億単位の金額に違いないとしか。
そんなもん身につけるかと思うと……ひええー!
「今日は朝から忙しいのでしょう。時間を取らせてしまって、申し訳ないことね」
「いえ、これは私の仕事ですから。宝飾品を管理し、ユールノヴァの女主人たるお方にお届けするのは、家政婦の役目です」
そう言ってライーサは、部屋の奥に目をやった。
そこには、トルソーに着せたドレスが置かれている。衣装部屋から、ついに取り出す日となった。
なので、レジナとは離れなければならないわけだ。ドレスにごっそり、モフ毛が付いてしまうので。
「美しいドレスですね。お嬢様に、さぞお似合いになることでしょう」
「ありがとう。わたくし、正式なパーティーに出席するのは初めてなの。お兄様に恥をかかせないよう、気を引き締めなければ」
そう、今夜はもう祝宴。ユールノヴァ公爵アレクセイの爵位継承祝い。それ以上に、彼が最愛の妹エカテリーナを公爵領に初めて披露するべく盛大に開催する、宴の日。
貴族令嬢なら、通常は魔法学園に入学する前に、社交界デビューを済ませているものらしい。でも私は、幽閉のち引きこもりの身。
パーティーの出席者はほとんどが初対面。前世ではもちろん、正式なパーティーなんて縁もゆかりもなかった。
今さらですが、軽くびびってます。皇室御一家の行幸をおもてなしするのとは、また違う感じ。とにかく、腹をくくるしかないんだけど。
ライーサは微笑んだ。
「初めてなればこそ、失敗もあって当然と、おおらかな気持ちで臨めばよろしいかと。多少侮られるくらい、かえってこれからやりやすくなることもございます」
「励ましてくれるのね、嬉しいわ。そうね、わたくし今夜はただ、お兄様の隣で皆様とご挨拶することだけ考えればよいのね」
そう、お兄様の隣。
ここがミソだよね。うん、もうとにかく、精一杯きれいになろう。それだけ考えよう。
正式なパーティーで、主役のお兄様のパートナーを務めるんだから!気合い入れんでどうする!あまりにお宝すぎて腰が引けるけど、家宝だって遠慮なく使っちゃいますよ。
もう、参加者の皆様のことは考えないことにしよう。すいません。だって私はブラコンなんだ!お兄様にきれいと思ってもらう方向で、頑張るぞー!
主に頑張ってもらうのはミナなんだけどさ。ドレスの着付けもヘアアレンジもできる戦闘メイド……ミナのスキルの広さには、脱帽です。
祝宴は夕刻から始まる。
今の季節、夏の陽はなおも明るく、ようやくたそがれの気配を漂わせ始めたばかりだ。
北都の中心にあるユールノヴァ城では、使用人たちが宴の準備に余念がない。厨房では料理人たちがすべてのかまどに火を入れてせっせと料理に励み、庭では庭師たちが早々と灯火をともして廻っている。料理を供するテーブルに磨き上げた銀器や皿を並べる者、ワインセラーからワインを運び出す者。みな時間を気にして、忙しげだ。
その時刻になって、ユールノヴァ公爵アレクセイは妹を伴うために、エカテリーナの部屋を訪れた。
部屋の扉がノックされた。
「お嬢様、お支度はお済みですか」
聞こえてきたのは、従僕のイヴァンの声だ。メイドのミナがすぐに扉へ歩み寄って、さっと開いた。
「支度ならお済みです。どうぞ」
イヴァンは一歩脇へ控え、アレクセイの長身が部屋へ歩み入ってくる。
そして、驚いたように足を止めた。
ネオンブルーの目を見張り、無言で見つめる兄に、エカテリーナが微笑みかける。
「お兄様、お迎えありがとう存じますわ」
まさに一輪の花であった。
今回のドレスはマーメイドライン。ほっそりとしていながら、要所にほどこされたフリルが華やかさを加えている。色彩は基本は宵闇色の天上の青だが、明から暗へと暮れゆく空さながらのグラデーションにより、いっそう美しい。
細身のスカートは膝のあたりから広がって、その足元へ向けて青が濃くなってゆくグラデーション。膝下の広がり全体が、花弁のように見える形状だ。
それ以上に華やかなのが上半身のデザインで、ウエストの細さを強調しつつ、上へ向けて青が濃くなってゆく。さらに、襟は大小のフリルを重ねて、今しも花開こうとする薔薇の花弁を思わせる。胸元の切れ込みが細いけれど深く、豊かな胸の谷間が見えるかと思いきや、豪奢なサファイアのネックレスがきらめく。それでも、フリルの花芯からのぞくエカテリーナの白い首と白い鎖骨が、品位を保ちつつ蠱惑的だ。耳元を飾るイヤリングの、まばゆいほどの輝き。
袖も宵闇色ながら、透ける生地。その生地を透かしてエカテリーナの肌の白さが、むしろ見る者の心に強調される、絶妙な透け加減。
豊かな藍色の髪は複雑な形に結い上げられて、こちらも薔薇を思わせる。さらにその髪に、本物の青薔薇が飾られている。よくよく見ればそれはガラス細工の髪飾りなのだが、あまりに真に迫った造形ゆえに、高価な宝石にもまさって人目を引いた。この青薔薇が、エカテリーナの衣装を薔薇のイメージでまとめあげ、彼女を生ける一輪の花と見せている。
なんとか支度が間に合いました!てかミナが間に合わせてくれました。朝から今までかかりましたわ。
行幸の時はドレスがシンプルだったせいか、ここまで大変じゃなかったのに。あとなんつっても髪型ですよー。結ってもらうの、めっちゃ時間かかるんだこれ。デザイナーのカミラさんが、髪型はこう!って断固として指定するもんだから……さすがのミナも一人じゃできなくて、手伝いのメイドを二人も呼びましたさ。
女の支度は時間がかかるって、事実だったんですね。前世の私は女じゃなかったのかもしれない。いつも支度なんて十分、頑張ってせいぜい十五分でしたよ。
でも何時間もかけておめかししてよかった。だって今日のお兄様、いつも以上に素敵です!
普段は白を基調とした服装が多いのだけど、今日は公爵領の領主の正装で、黒を基調としたシックな衣装。これがまたよく似合って……。お兄様ほどイケメンでスタイルが良ければ何を着ても素敵ですけど、今日のお姿はちょっと凄みを感じるほどですよ。
「エカテリーナ」
アレクセイが両手を差し出したので、エカテリーナは兄に歩み寄り、両手をその手にあずけた。
「私の青薔薇」
うやうやしく、アレクセイは妹の指先に口付けする。
「なんという美しさだ。多くの人々が青薔薇を生み出そうとして、成し得ていないのも無理はない。これほど美しいなら、花開いた瞬間に天界の花園へ昇ってしまうのだろうから。
幻の青薔薇が、私に歩み寄ってこの手に触れてくれるとは。胸が震える心地がする。私のエカテリーナ。私の女神」
ほとんど敬虔なしぐさで、アレクセイはそっとエカテリーナの頬に触れた。切なげに見つめる。
「ひとつだけ願う。どうかその姿で、陽のあるうちに外へは出ないでほしい。陛下が仰せになった通り、太陽がお前に恋い焦がれて、奪いに来てしまうだろうから。神々でさえ、この青薔薇を求めずにはいられないに違いない」
「まあ……お兄様ったら」
今日もさすがのシスコンですね!
そして今日も美辞麗句スキルがすげえ。金メダルです!国民栄誉賞でもなんでも差し上げたい。私しか住んでないブラコン国のですが。なんかすみません。
「わたくし、天に昇るなど嫌ですわ。この地上で、お兄様にこうして、手を取っていただきとうございます。わたくしはお兄様のお側が、一番幸せですもの」
「ありがとう――幸せだ、とても」
アレクセイは微笑んだ。
「宴などいつも憂鬱なだけだが、何か楽しみになってきた。お前の美しさに、皆も感嘆するだろう。その様子を早く見たいくらいだよ」