ゼフィロスへの追憶
「お祖父様が亡くなられた後、ゼフィロスは目に見えて気力を無くし、何も口にしなくなった。皇都公爵邸の馬房に籠もったきり、誰に触れられることも拒んで」
「それは……」
「ああ、お祖父様が逝かれたところへ逝くつもりだったのだと思う。私は自然にそう思った。彼には、そういう心があった。クルイモフの魔獣馬は主人と強い絆を結ぶ、知る人には知られた話だ。その心を尊重し、静かに見守るべきだった。だから、皆そうしていた。
魔獣馬の生命力は強い、食を絶っても生き続ける……しかし、一ヶ月も経つとさすがに弱り、馬房の壁に寄りかかって、最期を待つばかりになっていた。
その時になって、痴れ者が彼の馬房に乱入し、死にかけていたゼフィロスを無理矢理引きずり出した」
「そのようなこと、一体誰が!」
エカテリーナは思わず声を上げる。
殉死を賛美すべきじゃないかもしれないけど、前世日本人の美意識なのか、いやこの世界の感覚でもだけど、ゼフィロスの至誠に敬意と美を感じてしまう。それを無理矢理引きずり出すって、誰がそんな真似を!
「あの男……いや、お父様の取り巻きたちだ。彼らは魔獣馬の性質など、何も理解していなかった。ただ公爵家の財産だと思っていて、名馬ならば次の当主が引き継ぐべきだと、お父様の前に連れ出そうとしたようだ。昼間から酔っていた」
……クソ野郎ども。
お兄様、実は内心でクソ親父のことを『あの男』って呼んでいたんですね。……すみません、妹のほうが下品ですみません。
「どれほど弱っていようと、ゼフィロスは歴戦のつわものだった。痴れ者どもに蹴りをくれて、骨をへし折った。それで……奴らは剣を持ち出した」
エカテリーナは目を閉じた。
アレクセイは妹の髪を撫でる。その後を語ることは、しなかった。
「その痴れ者どもは……ふさわしい罰を受けましたの?」
「謹慎程度だ。お父様が庇った。たかが獣だ、彼らは身を守ったのだと」
……なんとなく、ノヴァダインはその一味な気がする。
そんな風に、何をしてもとがめられないできたから、あのデカい態度なんじゃ。そして、お兄様との間に修復不可能なほどの溝があるからこそ、媚びるのは諦めて、開き直っているのかもしれない。
「魔獣馬は本来、皇帝陛下のものだ。贈られる栄誉に浴した家なら、敬意をもって魔獣馬を扱わなければならない。この件はユールノヴァの家名を汚した。
だが馬に関心がない上、自分は皇室の一員であって魔獣馬に敬意を払う必要などないと思っていたお祖母様は、お父様のための新たな魔獣馬を差し出せとクルイモフ伯に命じるよう、当時の皇帝陛下に願ったそうだ」
……うわあ、殴りてえ。ゼフィロスを死なせてごめんなさいと謝るべきところで、新しい馬をよこせと命令して、と頼んだあ?人を殴ったことなんてないけど、クソババアだけはタコ殴りできる気がする。
「だから私がクルイモフ家に出向き、お父様の名代として謝罪した」
「は?」
思わずエカテリーナは素で言ってしまった。
当時、お兄様は十歳ですよね?お兄様自身は何にも悪くないどころか、憧れのゼフィロスがそんなことになって、誰より怒り、辛い思いをしていましたよね?
「お父様は謝罪しようとしなかったからね。代理人では、かえって礼を失する。せめて、嫡子である私の謝罪が必要だった、ユールノヴァの家名のために。だから私が赴き、クルイモフ伯に謝罪を伝え、約束した。今後、ユールノヴァはクルイモフの魔獣馬を求めることはないと。お父様も、私もだ」
お兄様……憧れを手にする希望を、自ら断ち切ったんですか。
ぐわー!ババアも親父も殴りてえ!てかもうダンテ『神曲』のユダみたいに、地獄の最下層で魔王にくっちゃくっちゃ噛まれてしまえ!
「お祖母様は……お兄様をお叱りになったのでは」
「だが、すぐにそれどころではなくなった。陛下が譲位をお決めになったからね」
ああ……なるほど。
ババアも焦ったかな。今の陛下はきっとその頃から、ババアの口出しなんか受け付けない姿勢を見せていらしただろうから。自分の言うことを聞く弟が皇帝でいるほうが、ババアにとっては有利。
「先帝陛下は、お祖父様を頼りにしていらした。お祖父様と狩猟を楽しまれることがあって、ゼフィロスのこともご存知だったそうだ」
「そうでしたの……」
前からそろそろと思っていたのかもしれないけど、ゼフィロスのこと、それを恥じもしない姉の態度、姉を抑えられない自分への失望、そういうものが最後の一押しになったのかも。
「私が会ったのは今のクルイモフ伯、ニコライとマリーナ嬢の父君だ。政治や社交界に関わることはほとんどないが、陛下のご信頼は厚いと聞く。
ゼフィロスの件は人の口に上ることはほぼなく、穏便に納められた。マリーナ嬢は、おそらく知らないと思う。ニコライは知っているだろうが、学園で同級になって二年以上の間、この件に触れたことも匂わせたことさえない。信頼できる、良い人物だ」
「ええ。ニコライ様は、お兄様の良き友人でいらっしゃいますわ」
エカテリーナが言うと、アレクセイはそうか、と呟いて照れたように目を伏せた。それから微笑む。
「クルイモフ家の兄妹には、今まで通り接しなさい。お前の言う通り、よき友人だ。とは言え、我々の側ではわきまえておくべきと思うから、話しておくことにした」
「はい、お兄様。お話しくださってありがとう存じますわ」
今まで通り、といっても次にあの兄妹に会ったら、なんとも言えない気持ちで見つめてしまう気がする。
けれどきっと、ニコライさんは少しも揺らぐことなく、いつもの笑顔を見せてくれるに違いない。それしか浮かばない。
ふと思う。あの兄妹の父親ならば、陛下の信頼厚い人物ならば、わずか十歳のお兄様が親父の名代として現れた時、クルイモフ伯はどう思ったろう。
きっと幼いながらも堂々とふるまい、ゼフィロスを悼み、筋の通った言葉で父親の非礼を詫びたに違いない。そんなお兄様を、どう見ただろう。
融通がきかないほど、生真面目なお兄様。魔獣馬を求めないという約束を、固く守るつもりでいるけれど、あちらはどう思っているかな。十八歳とはとても思えないほど切れ者のお兄様だけど、自分のことはわかっていないところがあるよね。
もしかすると……お祖父様とゼフィロスに申し訳なくて、何もできなかった自分を自分で罰している、のかな。無意識だろうけれど……。
いつもお兄様は、自分を幸せにしようとしない。責任を果たすことばっかりで。
エカテリーナは兄の手を取って、そっと握る。
「……悲しい気持ちにさせてしまったかな」
「いいえ。ただ、その頃のお兄様はきっと、悲しいお気持ちでしたでしょう。そのお気持ちを、わたくしも分かち合いたく思いましたの」
「お前は本当に優しい」
アレクセイは妹の手を握り返した。
と。兄妹の手の上に、ぽふ、と大きな頭が乗る。笑って、アレクセイはレジナの頭を撫でた。
「レジナも優しい。昔は、私と気持ちを分かち合ってくれるのはレジナだったものだ」
その言葉にかえって、孤独な子供の姿が浮かび上がるようだ。
エカテリーナは兄を見上げて、微笑んだ。
「そうでしたの。レジナは素敵なお姉様ですのね」
「私は幸せ者だな。賢く優しい美女が二人も、私を気遣ってくれる」
「お兄様は、誰より素敵な殿方ですもの。ねえ、レジナ」
レジナが二人を見上げて、ふさふさした尻尾を振った。
「お兄様……週末の祝宴には、その痴れ者どもも現われまして?」
「おそらく。私の公爵継承祝いでもあるし、お前を公爵令嬢として広く知らしめるために、領内の主だった者はほとんど招待している」
「どうか、わたくしをお側から離さないでくださいまし。そのような者どもがお兄様に近付こうとしましたら、わたくしが追い払ってやりますわ」
お兄様はそんな奴らなんか、自分で蹴散らすことができると解っているけど。多少とも不快な思いはするはず。
そんなこと、ブラコン悪役令嬢が許しません!
「そうか。頼もしいことだ」
そう言ったものの、アレクセイはこらえかねたように破顔した。
「あのような者ども、お前が気にかけることはないんだよ。その美しい目と優しい心は、もっとふさわしいものに向けてくれればいい。お前は世界をより美しく、喜ばしいものにできる存在なんだ。お前ほど広く高い視野で物事を見ることができる者は、本当にまれなのだから。
お前は賢い子だが、自分のことはわかっていないところがあるようだな」
……ん?
あれ?
お兄様、それは私がさっきお兄様について思ったことです!
でも内容的に、お兄様のシスコンに私のブラコンが負けてないか?なんか悔しい!
シスコンブラコンで張り合ってていいのか、よくわからないけど!