挿入話〜旅立ち前の執務室〜
「エカテリーナを悲しませた」
妹が執務室から去ると、アレクセイは慚愧に堪えぬように呟いて、執務机に拳を打ちつけた。
「あの子にあんなものを見せたくなどなかったものを。くそ、マグナの犬め」
「珍しく、詮無いことを仰せになりますな。お嬢様がご存知ないまま領地に入られるほうが危険と、ご判断なさったはず」
アレクセイの傍らに立つノヴァクが、いかめしい表情で言う。
「ああ、あの子は賢い。解っていれば、無用な危険を避けてくれる。気付いたことは、こまめに報告もしてくれるだろう。だが、涙を見るのは耐えがたい」
「気晴らし程度ですが、ユールマグナに少しばかり圧をかけてやりますか。前財務長が支払いを猶予させていた、あちら関連の支払いをキンバレイ卿が洗い出しております。その関係へ一斉に払えと言ってやれば、意図は通じることでしょう」
「手始めとしては妥当なところか。いいだろう、正当な権利の行使にすぎないが、奴らにとってはそれなりに痛手のはずだ。淡々と、だが確実に取り立てろ。マグナが陛下の前で文句でも言い出せば、こちらが馬鹿にしてやれる。あとは他家や商会などにも、マグナの資金力が怪しくなったと情報を流せ」
ネオンブルーの瞳に冷たい光をたたえて、アレクセイはノヴァクと目を合わせた。
「犬めは人前に出せるまでにまだかかるか」
「そのようです。まだ当分は」
「ふん、見られぬ姿になる前に白状すればいいものを。いずれ時が来れば、素直に証言するよう徹底的に叩き込んでおけ。キンバレイ、マグナへの金の流れはまだ追いきれないか」
「申し訳ございません。中継したと思われる金融業者が全員殺害され、建物も燃やされておりました……その先をたどる手立てが見つかっておりません」
頭を下げるキンバレイに向けたアレクセイの表情が、ふと和らいだ。
「……わかった。以後の追跡は他の者に任せる、お前は本来の業務に戻ってくれ。不向きなことまでさせてすまなかったが、お前は十分よくやってくれた」
「御意」
キンバレイは再び頭を下げる。アレクセイのねぎらいの言葉を、少し驚きつつ噛みしめているようだった。
そして、さきほどの一覧を戻した鞄を撫でて、しみじみと言う。
「エカテリーナお嬢様はまことにお優しく、ご聡明なお方でいらっしゃいますね。数字の一覧でしかないものの向こうに、領民たちの苦難を見てとっておられたようにお見受けしました。財務にたずさわる者でさえ、それが出来ない者も多いのですが……深窓のご令嬢としては、驚くべき資質でありましょう。なんと申しますか、血の通った知性をお持ちでいらっしゃいます」
いや深窓のご令嬢の中身に、庶民で会計システムも開発したことがあるアラサー社畜が混ざっているからなのだが。
アレクセイはうなずいた。
「ああ、あの子は聡く優しい。気丈なところもあるが、弱い者を思いやる気持ちが強い子だ。
……私はせいぜい自分を大事にしなければならんな。私の身に何かあれば、あの子がユールノヴァの女公爵だが、あの優しい子には知られたくないことが多すぎる」
「閣下の御身に何かなんて起こらないよう、俺がお守りします。お嬢様にお約束しましたから」
執務机の上を整えながら、従僕のイヴァンが明るく言った。
「ああ、そうだった」
アレクセイが微笑する。
『お兄様の身に何かなど……』
先日、そう言ってほろほろと泣き出したエカテリーナ。その直前まで驚くほどの洞察力で鉱山長アーロンを感嘆させていながら、兄の身を案じるときは幼い子供のようになる、その落差が彼女をいっそう愛らしい存在と感じさせた。
ギャップ萌えというやつである。
「お嬢様は皆にお優しいですけど、閣下を一番に慕っていらっしゃるところがお可愛いですよね」
「イヴァン。その書類を下げるな」
じろりと従僕を睨んだノヴァクが、イヴァンが机から片付けようとしていた書類を取り上げた。
「あ、すみません。お済みになった分かと」
イヴァンはいつも通り笑顔だが、どこかしら、ちっと舌打ちしている気配がなくもない。
そしてそれは、アレクセイも共通しているのだった。
「閣下。お嬢様の婚約相手の選考です、後回しになさってはなりません」
「……まだいいだろう」
「すでに出遅れております。閣下は学園卒業後に婚約相手を検討されても、年下の令嬢から選ぶことができますので問題ございませんが、女性の場合は同世代か歳上が相手です。よいお相手を選んで差し上げるなら、在学中でなければなりません。お嬢様のためをお思いなら、早めに対処なさるべきです」
「あの、ですが、お嬢様ほどお美しい高貴な方なら、他と婚約していようと男は誰でも飛びついて来るのでは。ですから、急がなくても」
口をはさんできた鉱山長のアーロンを、ノヴァクはじろりと睨む。
「そんな不実な男をお嬢様に近づけられるか」
「……すみません、ごもっともです」
アーロンはすごすごと引っ込んだ。
まだ気乗りしない様子のアレクセイに、ノヴァクは言葉を重ねる。
「さきほど閣下がおっしゃった通り、閣下に妻子がない現状では、お嬢様がユールノヴァの後継者です。お嬢様がご結婚なさっていようとも、状況によっては後継者であり続けます。下手な相手と婚約、結婚していれば、ユールノヴァをアレクサンドル公時代以上の災厄が襲うことにもなりかねません。お嬢様のご婚約は、当家の重大問題です。閣下にはお解りのはず。
そして、お嬢様のご才知。有力な他家に嫁いでいただくのでは、他家にあのご才知を渡すことになりあまりに惜しい。皇室か、分家。私としてはその二択と考えます」
厳しく言って、ノヴァクはふっと嘆息した。
「皇国の臣民として、できることならお嬢様には、皇室に入っていただきたいものです。やがて国民の母たる皇后になられるに、お嬢様ほどふさわしいご令嬢がおられましょうか。そして皇室に嫁いでくださったなら、これから虹石魔法陣の開発と実用化を進める際に、このユールノヴァを支えるこの上ない後ろ盾となってくださることでしょう。
ですがご本人が皇室だけは嫌と仰せになり、閣下もお認めになった以上、いたしかたございません。分家のどれかを選ぶか、見どころのある婿をとって新たに分家を立てるか。それならお嬢様には、これからも閣下を側近くで支えていただくことができましょう」
「……そうだな」
妹を手離さないで済む選択肢が出てきて、ようやくアレクセイはうなずく。
「しかし、分家にあの子を任せられるほどの者がいるか。――アンドレイが独身なら、考えなくもなかったが」
後半は、アレクセイには珍しく揶揄うような声音になった。アンドレイはノヴァクの息子である。若き日のノヴァクによく似ているそうで、目力が強い強面だが非常な美形、文武両道に加えて母親ゆずりの魔力も強い。が、すでに妻子がいる。
「愚息は選択肢に入りません。分家が駄目なら、新たな分家を立てて他から婿になりますな」
あっさり既存の分家から離れたのは、ノヴァクから見てもふさわしい相手が見当たらないのだろう。
「他か」
アレクセイがちらりと目をやったのは、アーロンと商業流通長のハリル。この二人の他には、法律顧問のダニールが、幹部の中では若手で独身のメンバーになるが、ダニールは長男であるため婿入りはまずない。
アーロンの学者風の容貌が真っ赤になった。三人の中で最も可能性が高いのは彼だろう。実家のカイル家は伯爵家、富裕で有力だ。五男であるから、婿入りは問題ない。それに、強力な土属性の魔力を持つ。理知的な容姿も端正と言える。
この年齢まで独り身なのは、魔法学園卒業後に大学で鉱物学を専攻し、その縁で知ったアイザック・ユールノヴァ博士に傾倒してフィールドワークにくっついて歩くうちに、すっかり婚期を逃したためらしいから、問題を抱えているわけでもない。
ただ、年齢は三十一歳。エカテリーナの倍以上だ。
ハリルも三十三歳、そして一目でわかる他国の出身。
ただし経済力ではそこらの小国にはるかに勝る、大商会の宗主の息子。エキゾチックな女性の目を引く容姿、能力も申し分ない。分家の婿ならば、絶対にないわけではない。
が、どちらにせよ、アレクセイはむすっとして顔を背けるだけだ。二人は揃って苦笑する。内心では美しい夢を見たとしても。
ノヴァクがやれやれとこめかみを揉んだ。
「分家も気が進まれぬなら、他家ですな。当家と釣り合いのとれる家格でお嬢様と近い年頃のご令息ならば、まずユールマグナのウラジーミル様」
「馬鹿な!」
思わずアレクセイは、執務机に手のひらを叩きつけた。
「二重三重にあり得ない!三大公爵家同士の婚姻は推奨されない不文律がある、それにマグナの女性の扱いはひどいものだ。そんなところへエカテリーナをやるものか!」
皇室を介して複雑な血縁関係にある三大公爵家は、婚姻を避けるべき。それは確かに不文律として守られてきた。実態は公爵家同士の結びつきが強くなりすぎないようにとの、皇室による牽制である。
「存じております。不文律も、女性の扱いも。十六、七年前になりますか、現在の相続法で女性の相続権を明文化した際、最後まで反対されたのが、ユールマグナでした。今のゲオルギー公に代替わりされたばかりでしたな」
当時の皇太子と皇太子妃、そして宰相だった祖父セルゲイを相手に回して、ゲオルギーとその一派は徹底的に抵抗したのだった。
古代アストラ帝国では、女性に相続権はなかった。古代の叡智に反するべからず。それが彼の論拠だ。
「そのさなかにウラジーミル様がお生まれになり、ゲオルギー公は男が励めば男児が生まれるものだとうそぶいておられた。よく覚えております」
エカテリーナが聞いたら即、脳内に某格闘家を召喚するだろう。
「馬鹿馬鹿しい」
「まことに」
「ウラジーミルが昔言っていた、母は本一冊すら読むことを許されないと。僕は女でなくてよかったと。悲しそうに」
ふとよみがえった思い出を、アレクセイは頭をひと振りして追い払った。ノヴァクを見る。
「時代錯誤のマグナは、放っておいてもいずれ倒れる。この手で仕留めてエカテリーナに捧げろと言うのか」
「閣下も決着をつけるお考えはありましょう。皇后が駄目なら、公爵夫人。実質的な女公爵、ユールマグナ領の女王として君臨していただくのです。閣下とお嬢様、ご兄妹が共に公爵として並び立たれれば、ユールノヴァにとって歴史的勝利となるでしょう。分家ではせいぜい伯爵ですが、これならお嬢様にふさわしい地位かと」
「……ふん」
アレクセイが一瞬気を引かれたのは、母と妹に苦難を強いたユールマグナに妹が君臨することが、完璧な報復となるためだろう。が、すぐ首を横に振った。
「心にもないことを言い出すな。破綻したユールマグナの救済、という体であろうと、ユールノヴァがそこまで勢力を拡大することを陛下はお許しになるまい。そもそも、地位はあの子にふさわしくとも、幸せとは縁遠い。敵だらけの危険な立場に、あの子を置くつもりなどない。それに」
「それに?」
「……ユールマグナ領は遠い」
ノヴァクは嘆息した。