旅立ち前の闇
キンバレイが淡々と口にした言葉に、エカテリーナは目を見開いた。
横領!
おだやかでない!
「エカテリーナ。キンバレイは、お祖父様のご生前にも財務長を務めていた、公爵家の財務に最も精通している人材だ。しかし、お祖父様が亡くなられると、突然解雇された」
……解雇したのが誰かは、尋ねるまでもないですね。
「理不尽に解雇された人材は、他にもハリルなど多々あったが……キンバレイが最初で、最も不可解な処分だった。それでもキンバレイやハリルをはじめ多くの人材が、ユールノヴァに忠義を誓い私のもとに残ってくれた。ノヴァクがそれらの人材をまとめ、実際の領地経営を担う組織を創り上げたんだ」
おお。影の内閣、シャドーキャビネットって感じ。あれはイギリスの野党が、いつでも政権奪取できるように組閣するものだっけ。
でもこちらはむしろ、真の内閣か。実際に領地を回していたのは、お兄様とその側近たちだったのだから。
「私が公爵位を継承してすぐ、彼らをふさわしい役職に戻した。皆が離れている間にさまざまな問題が起きていたが、特に財務の問題は大きく、いったんキンバレイにはその調査に専念してもらった。これはその結果だ」
財務長が調査に専念するほどの横領って……。
キンバレイに渡された書類に、エカテリーナは視線を落とした。
記載項目はシンプルだ。日付と、資金の名目と、金額。
なるほど、 お祖父様が亡くなった頃からだ。――って、直後じゃねーか!
しかも、金額!なにこれ、この桁。日本円に換算すると……億じゃないの⁉︎
や、最初だけか。次からは……それでも数千万だぞ。
と思ったらまたしても億!続いてまた!
もう遠慮がなくなってないか⁉︎ほとんど毎月だし!
初年度の合計額……すでに大変なことになっているんですけど。
「あの……キンバレイ様の後任だった財務長は、今どちらに?」
「……行方不明だ」
アレクセイの答えに、エカテリーナはわずかに目を見張って、キンバレイに視線を移した。禿頭に鷲鼻、見るからに謹厳なキンバレイの銀色の瞳は、何も語らない。
な、なんとなく二人とも、後任財務長の行方を知っているような直感があるけれど、知らない方がいいような直感がさらに強くするから、何も訊かないことにしよう……。
二年目、三年目。
さすがに一件ごとの金額は小さくなった。しかし項目が多岐にわたるようになり、年間の合計金額はあまり変わらない。
いや、一年目にあれだけ大きな金額が並んだのは、名目自体が架空のもの、捏造した支払いだったのかも。
さすがにやりすぎて、会計上処理しきれなくなるとかして、やり方を変えたのかもしれない。実際の支払いからバレなそうなものを選んで、かすめとるやり方に。
(あ)
項目のひとつが目に留まり、エカテリーナは息を呑んだ。
別邸経費。
お母様と私の、生活費だ。横領されて、どこかへ消えてしまっていたんだ。
金額……ユールノヴァ公爵夫人の生活費としては、ささやかな額だけれど。それでも、このお金がちゃんと渡されていれば、あんな……食べ物にも着る物にも事欠くような暮らしをすることは、なかった。
「エカテリーナ……!」
妹の様子を不審に思ったアレクセイが、何を見ているかに気付く。
「すまない……すまない」
「いいえ、お兄様」
ふと思う。お兄様は、お母様と私の居場所を知っていたけれど、そこから連れ出そうとはしなかった。お祖父様亡き後、ユールノヴァ家の中で孤立して、寂しくて辛かったに違いない時期だったのに。会いたいと思いながらも、邸の前を通り過ぎるだけで我慢して。
それは、祖母の手の届くところにいるより、別邸にいたほうが安全なはずだったからに違いない。
まだ子供だったあの頃からずっと、お兄様は自分を後回しにして、お母様と私を精一杯守ろうとしてくれていた。まさか公爵夫人の生活費が横領されるなんて、当時は夢にも思わなかっただろう。
それなのに、あんな暮らしをさせられていたと知ったとき、お兄様はどんな思いをしたのだろう。
それを知ったのは、お母様の最期の時のはず。瀕死のお母様に、私たちを虐げた共犯とも言える父親の名で呼びかけられて。父親のふりをして優しく答えたあの時、内心では胸を裂かれるような苦しみを耐えていたのじゃないだろうか。
「お兄様はお悪くございません。わたくしとお母様を守ろうとしてくださいました、昔からずっと」
「エカテリーナ……」
そんなに苦しげな顔をしないでください。あなたはまだ、あんなに子供だった。それなのに、子供でいることを許されなかった。
書類はまだ続く。
領民に支給されるはずの災害救済金や、復興資金がたくさん横領されている。広大なユールノヴァ領とはいえ、毎年地滑りや鉄砲水などが起きているのは、森林乱伐の影響だろうか。鉱山の落盤事故もある。
無味乾燥な一覧表。
でも、ここに書かれているお金が横領されたことで、どれだけ多くの人の生活が破壊されたのだろう。災害にあっても立て直せるはずだった暮らしが一体いくつ、とどめを刺されて砕けてしまったのだろう……。
「エカテリーナ、もういい。もう見なくていい。私が悪かった、優しいお前がこれを見てどれほど心を痛めるかを、考えるべきだった。許してくれ」
「いいえ、わたくしは大丈夫です。お兄様と同じ重荷なら、わたくしも担いとうございます」
目に涙を浮かべながらも一覧表を握りしめる妹に、アレクセイは心配そうな表情ながらうなずいた。
「わかった……ただ、一覧の災害救済金については、一部は別途資金を工面して支給できている。三年目頃から、災害現場を視察した時、支給したはずの救済金が領民の手元に届いていないことが多すぎることに気付いたから。フォルリ翁やアイザック大叔父様も気付いて、皆でできるだけ対処はしていた。これほど大規模だと判ったのは、爵位を継承した後のことだったが」
「そうでしたのね、さすがお兄様ですわ」
災害現場の視察……三年目なら、まだ十三歳?そんな年齢で、お兄様は危険な場所に自ら足を運んでいたのか。この貴族的なお兄様が、泥だらけになって、自分の足で、被災地を歩いたのだろうか。
お兄様の爪の垢煎じて飲みやがれクソ親父!
そして財務の権限はない状態でできるだけ対処って、さぞ大変だったに違いない。皆どんなにストレス溜まっただろう。
「爵位を継承される前から、領主の責務を果たしておられましたのね。本当にご立派ですわ」
お兄様がこんなチートレベルに優秀な領主でなかったら、ユールノヴァ領はどうなっていたのだろう。
まあ、これだけの金額が消えてもびくともしない経済規模なんだけれども。ユールノヴァ領のGDP、たぶん単位が億では済まないもんな。でも、領民の不満が膨らんで治安が悪化したり、いろいろなことがあり得ただろう。
七年間に渡って続いた横領の一覧は、ついに終わった。最後のページに記載されていた累計額を見て、エカテリーナは肌が粟立つのを感じる。
日本円に換算して――約三百億。
ちょっと、待って。何、これ。
こんな額、誰が何に使った⁉︎いや、クソババアがやらせたことなのは間違いない。でもあいつが、贅沢のために横領?正面きって使いまくってたぞ。それでも、この桁には届かなかったはず。
そういえば前世で、自分の会社から百億引き出したギャンブル依存症の社長がいた気がする。うちの親父は女遊びと賭け事に明け暮れていたっぽいけど、でも、こっちも浪費が平気すぎて横領しそうもない。賭け事の負けとかはすべて自動的に公爵邸に請求させて、本人は支払いなんか一切したことなかったらしい。
あとは……この七年間限定で、巨額のお金が流れていく先になりうるのは……。
巨額を消費する存在。
なんとなく思い出したけど、フランス革命。王妃マリー・アントワネットの贅沢でフランスの財政が傾いたと言われたけれど、実際には財政難の原因は、軍事費だった。金食い虫といえば軍隊。
大騎士団を有する、財政難のユールマグナ。
あの頃、マグナのゲオルギーが頻繁に訪ねてきた、とお兄様が言っていた……。
エカテリーナは顔を上げた。
「お兄様、キンバレイ様。行方不明の財務長は、何処かから当家に紹介されてきたのでしょうか」
「紹介状などの、証拠となるものはない。だが……マグナから来た者だとわかっている」
エカテリーナは思わず目を閉じる。
当たった。
ユールマグナが送り込んだ前財務長が、ユールノヴァの資金をあちらに流したんだ。ババアがそれを許した。
クソババア……常識とか善悪の観念とかがないのは知ってたけど、うちの資金を他家にバカスカ横領させるなんて、駄目すぎるだろ!それがおかしいことすら解らないほどイカれてたのか、てめーは⁉︎
いや、あのババアと横領って、つながらない。とにかく自分は高貴、自分は正しいと思い込んでる人間が、コソコソお金をかすめとる横領なんて行為に関わるか?金勘定を軽蔑していた自称『最高の貴婦人』と『横領』。どうにもイメージに合わない……。違和感あるけど、そこはユールマグナが言いくるめたのか……?
しかし、証拠はないけどマグナからとわかっているのか。行方不明……いけない、考えてはいけない。
「お兄様……。公爵位を継承なさってからお暮らしになっていたこの皇都公爵邸は、お兄様の意にかなう体制になっておりますわね。ですけれど、これから向かう公爵領の本邸は、このような悪事を行なっていた者たちの残党が、今も残っているということでしょうか」
「賢い子だ。そうだ、マグナの関与には気付いていないだろうが、荷担していた者がいる。主要な者たちは除いたが、小者は残っていることだろう。親族や、領内の小貴族たちなどにも、隙あらば私腹を肥やそうとする奸賊は数多い。それを解ってもらうために、お前にこれを見てもらった。
――ただ、お前の身に危害を加えるような真似はさせない。それをすればどうなるか、奴らはすでにわきまえている」
お兄様……うっすら微笑んだお顔も素敵ですが、室温が下がった気がしたのは、魔力のせいではないですね。麗しき氷の魔王、という雰囲気です。
そういえば、寝たきりだったお母様を無理矢理連れ出して、生命を縮めてしまったあの使者。あれはクソババアの手先だったに違いない。きっとあの男は、報いを受けたのだろう。
どんな報復があったのか……前財務長の行方不明と同じく、私は知らないほうがいいんだろうな。
「お教えいただきありがとう存じますわ、お兄様。ユールノヴァの女主人として、わたくし心して本邸を監督いたします」
ふと頭をよぎったのは、公爵領本邸で暮らしていた頃に勝手に作られた、美しいけれど似合わないドレスの数々。
そういうことだったか、と妙な納得感があった。
お兄様を恐れて丁重に扱いながらも、真綿にくるんだような敵意をあんな形で表すのは、いかにもババアの残党という感じだ。そういえばお兄様、行幸のとき皇帝陛下から統治が順調なようだと褒められて、まだまだ道半ばだと繰り返していた。あれは謙遜ではなく、本気だったんだなあ。
もともと本邸は長らくクソババアの本拠地だったからと、残党と対決する覚悟は決めてました。
ただ、ここまでタチの悪いことまで起きてたとは、想像もできなかった。教えてもらえて、本当によかったです。
そして、ユールマグナ。
いつだっけ、同じ階級の貴族同士には絶え間ない争いがある、というようなことをお兄様が言っていた。しかし、こんな形で害を加えてくるなんて。他家の資金を横領するなんて、よくもそんなとんでもないことを。
お兄様がユールマグナを嫌っているのは、以前から感じていたけど、それも当然だと思う。
家同士の争いには、ルールも仁義もないんだろう。
とはいえ、こんな真似を仕掛けてくるということは、犯罪行為に手を染めるほど財政が逼迫しているということか。
しかしババア……本当になんでこんな真似許した?
「エカテリーナ、もしも本邸に行くのが嫌なら、皇都に残っていてもいいんだ。郊外の別荘に行けば、暑さもしのげるだろう」
「いいえお兄様、ご一緒しとうございます。わたくしお兄様のお側が一番安心ですもの」
家政方面のスキルのない私がお役に立てるかわかりませんけど、お兄様を独りにはしません。
「……ありがとう。お前がそう言ってくれるなら、私は必ずお前を守る。兄として、公爵として、我が貴婦人の一本の剣として」
ああ、言い切ってくれるお兄様が凛々しい。
よし、それなら。
公爵領本邸に討ち入りじゃー!
自分ちだけどな!帰るんだけどな!
活動報告にアニメイトブックフェアについて記載しました。
本作がフェア対象作品になっております。ご一読いただければ幸いです!




