旅立ち前の青
「お兄様」
エカテリーナが公爵邸の執務室を訪れると、すぐアレクセイが立ち上がって迎えてくれた。
「エカテリーナ、旅の準備で忙しいところを呼び立ててすまない。彫刻家の相手も疲れただろう」
「いいえお兄様、珍しい体験でしたもの、楽しゅうございましたわ」
疲れはしたけど、本当に楽しかったですよ。全方位のスケッチ、さすがの写実性でしたので。写真のないこの世界で、自分の後ろ姿なんて今生では生まれて初めて見ましたよ。
あっしまったお兄様も一枚描いてもらえばよかった!そしたら肌身離さず持ち歩けるのに!
……でも本人が目の前にいるんだからいいか。常に公爵としての品位を失わない服装のお兄様だけど、夏になって制服は夏服になり、執務室でも上着は着用せずシャツ姿に。シャツといってもジャケットめいた、銀糸で刺繍がほどこされていたりする、上質なもの。細身に見えてしっかり鍛えた見事な体型が見てとれるようになって、眼福です幸せです。ありがとうございます。
「まずは、良い報告からにしよう。ハリル」
「はい、閣下」
商業流通長のハリルが、エカテリーナに笑いかけた。最近よく見る、イイ笑顔だ。
「太陽神殿から、天上の青に関する大型発注を受けました。お嬢様がご提案された、天上の青の奉納がきっかけです。公爵家が費用を負担して天上の青で彩った夜の女王宮が、その美しさで評判となり訪れる参拝者が急増しているそうで、他にも積極的に取り入れることにしたと」
「まあ嬉しい!」
狙い通りの宣伝効果ですやったね!
「まずは顔料です。太陽神本宮にあらたに描く巨大壁面に、天上の青を大胆に使いたいとのことでした。
また、来年の夏至祭には天上の青で染めた天幕を張り巡らせて、来客を空の上にいるような心地にさせたいそうです。なかなかの趣向ですね」
「さすが人気の太陽神殿ですわね、人心を掴むことに長けておられますこと」
先日、太陽神殿を見学させてもらった時、バチカン並みのきらびやかさだと思ったなあ。さらに飾りますか。
宗教施設は、人間に非日常感を感じさせるものでなければならない。神や来世や、日常とは遠いものに思いをはせる場所であるために。それは、魔力や魔獣が存在する、こちらの世界でも同じらしい。
「お前の提案が人心を掴むのは、お前が女神である証しだろうな。……あまり信仰を集めないで、私だけの女神でいてほしいと願ってしまう。許してくれ」
と言ってお兄様が手を取って、指先に口付けしてくれました。いやーん嬉しい!
シスコンフィルターが今日も働き者ですね!
「天上の青は美しく安価な素晴らしいものですもの、それ自体の価値がもたらした結果というだけですわ。それに、わたくしの行いは、すべてお兄様のためでしてよ。わたくしのすべてはお兄様のものですわ」
「ありがとう。優しい子だ」
ああっ、ネオンブルーの瞳の色が優しい。
お兄様がこんなに甘やかしてくれるんですから、全力で恩を返さないと追い付けやしませんよええ。
「ハリル様、先日ドレスのデザイナーと相談したのですけれど、わたくし当分、天上の青をドレスのどこかに必ず取り入れることにいたしましたの。領地でも、天上の青を広めたいと思いますわ」
デザイナーのカミラさん、私がそう言ったらむしろ喜んでいた。
『お嬢様ほど天上の青がお似合いになる方はおられません。そういう制約があると、デザイナーはむしろ燃えますわ!』
皇都の社交界でも天上の青を使ったドレスは、流行になりつつあるらしい。皇后陛下が取り入れてくださったことが、大きいのだと思う。いち早く紹介したカミラさんはお洒落に敏感な人々から一目置かれ、ハリルさんというか配下の担当者とちゃっかり手を組んで、生地を優先的かつお得価格でまわしてもらっているようで……頼もしいというか。うん、ビジネスはWin-Winが最上ですね。
「ありがとうございます。さきほどの仰せの通り天上の青は価値あるものですが、その価値をこれほど早く広めることができたのは、お嬢様の才知あればこそです。……私は公爵領へご一緒できませんが、期待してお待ちしています」
「そうですわね、商業流通の中心は皇都ですもの……」
入れ替わり立ち替わりの執務室メンバーの中で、レギュラー的にいつも居たハリルさん。ガラスペンや工房のことですっかり頼ってしまっているから、離れるのはなんだか心細いです。
でも、少し解ってきてもいる。お仕事的に皇都が拠点になるのはまぎれもない事実だけど、異国の出身と一目でわかるハリルさんは、この皇国のどこででも皇都と同じように過ごせるわけではないのだろう。
ユールノヴァ公爵領は本来、皇国の中で偏見の強い土地柄というわけではないらしい。ただ今は、影響が残っている。
クソババアのな!
執務室へ出入りして、聞くともなしに聞いてしまった諸々からの推測だけど。
お祖父様が亡くなってからの七年間、クソババアとクソ親父はずっとここ皇都公爵邸で暮らしていたらしい。
しかしそれまでのお祖父様ご存命中は、二人とも基本的に公爵領の本邸で暮らしていた。国政を担うお祖父様はほとんど皇都公爵邸で暮らしていたので、けむたい夫を避けて別居生活していたわけだ。
ずっと公爵領に籠っていた訳ではなく、ちょいちょい皇都にもやって来て、当時は皇太子妃だった皇后陛下にイビリをかましたりあれこれしていたようだけど。
それでも公爵領本邸は、長らくクソババアの本拠地だった。だから、以前解雇した侍女ノンナのような、ババアの考え方に染まった使用人とかがまだまだいるのだろう。
なおお兄様は、うんと小さい頃は公爵領本邸のババアの手元で育てられた。厳しく冷たく。
その後、おそらく六、七歳くらいの頃にお祖父様のほうへ引き取られて、主に皇都で暮らしていたらしい。
そして十歳の時にお祖父様が亡くなると、仕事を押し付けられたのを逆手にとって、ノヴァクさんたち側近と共になるべくババアから離れて、公爵領本邸のほうで過ごすようになった。皇子の遊び相手だから、たびたび皇都にも呼ばれていたようだけど。
令嬢エカテリーナが、幽閉されていた別邸で邸の前を通っていくお兄様を何度か見ているけれど、それは十歳以降に公爵領本邸で暮らしていた時期のことなのだろう。
「キンバレイ」
アレクセイが財務長を呼び、ハリルは一礼して下がった。
入れ替わりで兄妹の前へやって来たキンバレイは、ごつい鞄をたずさえている。鍵穴が二つついた、まるで金庫のように堅牢な印象の代物だ。
「エカテリーナ」
アレクセイの声はいつも通り優しかったが、エカテリーナは思わず居ずまいを正した。
「お前に話すべきか、いささか迷った。今から話すことは、お前が並みの令嬢なら、知るべきではない内容だろう。だがお前には、私と共に公爵領を統治する器量がある。それをずっと示してきた。
だから、聞いてくれるか」
「お兄様が話すとご判断されたのですもの。いかなることであろうとも、わたくしはお聞きするのみですわ」
「いい子だ、本当に。――キンバレイ」
「はい、閣下」
キンバレイが鍵を取り出し、鞄の錠をひとつ開けた。
もうひとつの鍵を取り出したのはアレクセイで、受け取ったキンバレイが残る錠を開く。なんとも、ものものしい。
開いた鞄からキンバレイが取り出したのは、数枚の書類だった。
「お嬢様。こちらは公爵家の様々な会計処理を精査して判明した、横領の一覧でございます」
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カバーラフ、素晴らしいです。ぜひご覧ください!