旅立ち前のプロジェクト
「お嬢様、動かないでください!あと一枚だけ、もうこれだけですから!」
「何度目のあと一枚ですの……」
力なく言いながら、それでも頼まれた通りエカテリーナはポーズを崩さずにいる。
振り返るポーズをとっているエカテリーナを、必死の形相でスケッチしているのは大柄な中年の男。太陽神殿の夜の女王または宵闇の精霊像の、レプリカ作成を依頼した木工彫刻家だった。
女神像をよりリアルに仕上げるため、生身の女性もモデルにしたい。公爵家のお嬢様は、女神がこの世に顕現したようなお姿だったと神官が申しておりました。ぜひ参考にさせていただきたいーーそう熱心に頼み込んできたため、時間を取ることになったのだ。
女神像のレプリカというよりは、母の似姿として注文したものだから、母親似のエカテリーナがモデルになったほうがより満足できるものになるだろう。ということで、アレクセイもエカテリーナも断るという選択肢はない。公爵領へ帰る旅の準備を中断してまで、時間をとったのだった。
「お嬢様」
きょろきょろと公爵邸を見回しながらメイドに案内されてきたガラス職人のレフともう一人が、エカテリーナの姿を見つけてほっとしたように声をかけた。
が、すぐに目を丸くする。
「ごめんなさいましね、レフ。少し待ってくださる?」
「はい、もちろん。……あの」
意を決したように、レフはいつも持ち歩いているらしいスケッチ帳とガラスペンを取り出した。
「僕も、スケッチさせていただいてよろしいでしょうか」
彫刻家がようやく納得して帰っていったので、エカテリーナは小さな談話室でレフ達と向かい合った。
ミナがお茶を淹れてくれたので、まずは口をつける。立っているだけのようでも、正直疲れた。立体である彫刻のモデルは、全方位なのだ。
「お二人もどうぞ召し上がって。わざわざお出でいただいて、ありがとう存じますわ」
「いえ、こんな立派なところへお呼びいただいて恐縮です」
レフともう一人が頭を下げる。もう一人は二十代後半の男性だ。濃緑色の髪に黄色の瞳、知的な雰囲気だがややエラの張った、頑固そうな容貌をしている。
彼は、ムラーノ工房への転職希望者だ。
先日エカテリーナが会った四人の職人たちは、全員ムラーノ工房へ戻ってくることになった。
皆、エカテリーナと話をした翌日には、サインした雇用契約書を持ってやってきたそうだ。妻に相談したところ、反対どころかすぐ移れとせっつかれた者もいたらしい。
そして予想外だったのは、彼らに説明した待遇を聞きつけた他のガラス工房の職人たちから、ムラーノ工房へ移りたいという申し出が相次いだことだった。
今も衰えない、皇国一のガラス工房という名声。それを皇国最高の名家のひとつであり潤沢な資金を持つ、ユールノヴァ公爵家が買い上げた。新奇な製品を開発して皇帝陛下への献上を果たし、好条件で職人を求めているという。
皇都の工房では、基本的に雇われ職人の待遇は良くないことが多い。職人はある程度のスキルを身につけると、自分の工房を持って親方になるのが普通なため、徒弟から職人になってもまだ技術を学ばせてもらっている立場、という感覚だからだ。
よって、エカテリーナが提示した条件は、雇われ職人にとって垂涎だった。働けば働いただけ給金が増える。それでいて、意に反してこき使われるわけではない。怪我をした時の補償もあり、その条件は、契約書に明記されて守られる。
まだ本格的に動き出したわけでなくとも、賭けてみる価値はある。多くの職人に、そう思わせたのだった。
が、そこにおかしな申し出が混じっていた。
「あなたが、エゴール・トマ。レンズ職人でいらっしゃいますのね」
「はい、勤めていた工房が潰れてしまいまして。そんな時にこちらの話を聞きつけたので、藁にもすがる気持ちでお願いしました。畑違いは承知ですが、いろいろ工夫するのは得意です。なんとか雇っていただけませんか」
そう、彼は眼鏡のレンズを作る職人なのだ。ガラス繋がりではあるが、本人が言う通り畑違いである。
しかし、レフから手紙でその報告を受けたエカテリーナは、すぐさま返事を書いた。そのレンズ職人に会いたいと。
なぜなら、ガラスペンを事業にすると決めた時から懸念していたからだ。前世で、ガラスペンの全盛期がごく短かったことを。
単なる筆記具としてなら、より便利なものがいずれ出てくる。ボールペンや万年筆のようなものが。
羽根ペンしかないこの世界なら、廉価版を開発できれば、いったんは一番メジャーな筆記具になることが可能だろう。しかしそうやってシェアが膨らむほど、別の何かに駆逐された時の凋落は大きい。その衝撃で、工房が危うくなる可能性は十分考えられる。
高級筆記具としての地位を確立すれば、前世よりは有利だろう。グラスなどの食器も作り続けるようにすれば、リスク分散はできるだろう。とはいえグラスは他にいくらでもある。
が。前世の知識では、二十一世紀の日本においても、ガラスメーカーは成長企業だった。
それは、レンズメーカーとしてだ。
光学機器、医療機器など、二十一世紀でもこれからも成長していくと見られていた分野で、レンズは必須要素。今から精密機器メーカーとしての要素も育てていけば、百年後もムラーノ工房は生き残れるかもしれない。ガラスペンが凋落しても、雇用を守れるかもしれない。
「ご足労いただいたのは、レンズを使って作っていただきたいものがあるからですの。顕微鏡はご存知かしら」
「顕微鏡……名前は知っていますが、見たことはありません」
この世界にも、顕微鏡は存在する。しかしごく原始的なもので、虫眼鏡より大きく見える、程度の拡大率しかない。一部の好事家や学者しか所有しておらず、一般には知られてすらいない。ユールノヴァ家はいくつか所有しているが、それは大叔父アイザックの研究用として、祖父セルゲイが買い与えたものだそうだ。
この世界は、科学技術的なものが発達し難い傾向がある。それは、魔力が存在しているからだろう。科学を発展させるより魔力でなんとかする方向に行くからだ。
ユールノヴァ家の顕微鏡のほとんどは、公爵領にいる大叔父の手元にあるそうだが、ひとつだけこの皇都邸にもあった。それをトマに見せて使わせてみて、エカテリーナは欲しいものを説明した。
「こういう形で、下に鏡のある顕微鏡を作っていただきたいの。拡大したいものをこの台に置き、下の鏡は角度を変えられるようにして、反射する光を拡大したい物に当てて明るく見ることができるようにしたいのですわ」
簡単な絵を描く。
この世界の顕微鏡は、前世とは形状から違っている。プレパラートを置く台はなく、拡大する対象はテーブルの上などに直接置くので、かなり見づらい。だから、前世と同じ形状にしただけで、ある程度の機能向上になる。
「そして、あなたに研究していただきたいことがありますの」
ゆくゆくは作りたいのが、アクロマートレンズ。色のにじみや像中心がぼやけるのを防ぐことができる、色消しレンズと呼ばれるもの。異なる屈折率と分散を持った凸レンズと凹レンズを組み合わせることで、作ることができる。はず。
昔大学で、ついでのように習った、顕微鏡の歴史。そこにこんなことが書かれていた。うろ覚えだけど。
こんなのよく記憶に引っかかっていたな、人間の記憶って謎。
「二種類のレンズ、ですか。……よくこんなことを思いつきますね」
レンズ職人のトマは思わずという感じで言い、無礼な発言だったと気付いて首をすくめたがーーまったくごもっともというか。
すまん。私が思いついたわけじゃなくて、前世の知識ですまん。
「いかがですかしら」
「できるかどうかわかりませんが、面白いと思います。俺、凝り性なんで、いろいろ試すのが楽しみです。……それで食い扶持がいただけるなら、願ってもない」
トマがにやっと笑う。なかなかふてぶてしい性格かもしれない。
「進歩さえ認められれば、お給金はお支払いしましてよ」
すぐには利益に繋がらないだろうけど。
前世で大ヒットしていた、消せるボールペン。あのインクの開発には、十年かかったらしい。しかも開発中は、ただ摩擦熱で色が変わる面白いインクというだけで「透明にして消す」という機能は想定していなかったそうだ。ものになるかどうかわからないものの開発にお金をかけることも、時には必要。
……ユールノヴァ家の潤沢な資金があるから言えることだけどね。すいません。おんぶに抱っこでほんとにすいません。
「雇用契約書をお作りいたしますわ。内容をよく確認して、よろしければサインなさって」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
トマ以外の転職希望者は、レフが技術を見定めて、ムラーノ工房の水準に達している人材なら雇い入れることになっている。事業を展開するのに必要な体制は整った。
「レフ、工房が始まったばかりで皇都を離れることになって、ごめんなさいましね」
「いいえ、何もかも準備していただきました。これからは商売を専門家にお任せして、皇后陛下とユールセイン公のガラスペン作りに没頭できます。僕は夢みたいに幸せです」
「あなたの技術と才能あればこそですわ。わたくしが皇都を離れても、あまりお仕事に夢中になりすぎて、健康管理をおろそかにしてはいけなくてよ」
「はい、お嬢様」
深く頭を下げたレフは、エカテリーナに細長い箱を差し出した。
「あの、皇帝陛下のガラスペンを作った後、手が空いたので息抜きに作ってみたものなんですが……よろしければ受け取ってください」
「まあ!」
箱を開いてみて、エカテリーナは歓声を上げる。青いガラスで作られた、一輪の青薔薇の髪飾りだった。
「なんて美しい……息抜きでこれほどの物を作ってしまうなんて、あなたは本当に天才ですわ。わたくし感動してよ。お代は、いかほど?」
「いえ!本当に、ただ受け取っていただきたくて。僕からのお礼になったらと」
「嬉しいこと。レフはとても優しいのね」
エカテリーナが微笑みかけると、レフは真っ赤になってうつむいた。
その背中を、トマが何かを察した表情でポンポンと叩く。
この二人、会って間もないはずなのに、もうこんなに仲良くなったのかー。これならムラーノ工房の職場環境は良好だね!
そんな思いで、にこにこと二人を眺めるエカテリーナであった。
残念思考は常時全方位である。




